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日本刀の試し斬りはどうして行われた?斬ってみるまで分からない武士の魂の真実

03/06/2021


自動車(クラシック)に乗るkawausoさん

 

自動車でも炊飯器でも製造すれば、それで終わりという事ではありません。その後には耐用テストして耐久力を計測して認可を受けてから販売します。そうしないと、新品なのにいきなり壊れて、下手すれば重大な事故に繋がるからです。

 

戦国から江戸時代、武士が自分の命を預けた刀も同じ理由でテストしていました。それが試し斬りです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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日本刀は斬ってみるまで性能が不明

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

日本刀は熱く熱した鉄を、カナヅチで叩いては延ばしを何度も繰り返し、鉄成分から炭素を追い出すと同時に、その上から(あめ)のように鉄を被せて包む事で硬さと柔軟性を併せもつ武器です。

 

しかし、どんな刀工が鍛えた日本刀でも、実際に人を斬ってみるまでは、その性能は分かりません。これは熟練した刀工でも分からないのだそうで、試し斬りしたら見てくれだけの凡刀という事もあるのだとか…

 

日本史 兵糧攻め 村人

 

武士にとって刀は、一番最後に身を守る護身具なので、いざという時に、斬れませんでした!では、シャレになりません。そこで、どうしても試し斬りして性能を確認する必要が生まれたのです。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

試し斬りの材料

永倉新八(新選組)

 

現在の試し斬りの材料としては、(わら)、畳、竹、(かぶと)、豚肉、新聞紙、段ボールなどです。これらの素材を木製か金属製の台の上に乗せ、袈裟(けさ)斬り、真向い斬り、あるいは胴斬りにするなどして切り裂きました。

 

テレビを視聴するkawauso編集長 ver.2

 

現在でも、武道の一環として竹を真剣で切断したり、畳を斬ったりはテレビやYoutube動画で視聴する事が出来ます。

 

また、試し斬りには専用の試刀術というものがあり、敵を想定しないのでしっかりと地面を踏み締めて背中に刀がつくほど振りかぶり一気に振り下ろす形で行います。そして、現在ではもちろん禁止されていますが、江戸時代までは処刑された罪人の肉体を使っておこなう試し斬りもありました。

 

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新選組

 

江戸初期に頻繁になった人体試し斬り

 

人体の試し斬りは合戦が頻繁に発生し、飢餓(きが)や疫病などで人間の死体が容易に調達できた戦国時代から江戸初期にかけて特におこなわれました。

 

宣教師ルイス=フロイスは報告書で、

水滸伝って何? 書類や本

 

ヨーロッパでは動物を使用して試し斬りをするが日本人は、そういうやりかたを信用せず必ず人体を用いて試し斬りをすると書いています。倫理観(りんりかん)を抜きにすれば、戦場において斬るのは人間ですから、人で試し斬りするのは合理的だったのでしょう。

 

同時に死体とはいえ、人間を斬る事から実戦においての度胸を養う訓練とも考えられ、大名であっても自ら試し斬りしたそうです。

 

江戸初期には、試し斬りは「据物斬(すえものぎ)り」と呼ばれ、人体の場合には首がない死体を上に重ねて、それを一刀両断していたそうで、例えば、3人の死体を縦に切断できれば「三ツ胴」と呼び、切れ味と性能の良し悪しを判断していました。

 

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人体の据物斬り見物に集まる観衆

朝まで三国志2017 観客 モブ

 

戦国の荒々しい気風が残っていた江戸初期は、試し斬りの全盛期で、死体の供給が間に合わず死体を優先的に回してもらえるように刑場にお願いに行ったり、川原に漂着した身元不明の死体を持ち帰るなど確保に苦労するほどでした。

 

殺伐としていたのは武士だけではなく、しばしば試し斬りは公開の場でおこなわれ、そこには死体が両断されるのを見ようと大勢の見物客が集まって賑やかだったと言われています。

 

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

しかし、人体の試し斬りは切断して終わりではなく、切断した人体に手を突っ込んで骨の切断具合を見るなど、人間が血まみれになる残酷(ざんこく)なものであり、世の中が次第に太平になってくると「据物斬り」にも拒否反応が出て、公開では、おこなわれなくなりました。

 

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試し斬りは「刀剣御試役」の専門職へ

名古屋城

 

慶安(けいあん)4年(1651年)7月に鎮圧された由井正雪(ゆいしょうせつ)の慶安の変以後、戦国の気風は急速に薄くなり、人を斬った事がない武士が社会の大半を占めるようになります。

 

そればかりか、切腹で刃を腹に突き立てる事すらできない武士ばかりになり、当然、試し斬りも誰でも出来る仕事ではなくなりました。

 

徳川家家紋

 

時代の変化を受け、江戸幕府は試し斬りを専門に扱う「刀剣御試役(とうけんおためしやく)」を設置し、江戸初期には山野永久(やまのながひさ)という人物が任命されました。山野永久は御試役として生涯に6000人の罪人を試し斬りにしたとされ、その償いのために14世紀に建立された古刹を再建、永久寺と改めています。

 

幕府の目線から見れば罪人を処刑し、その後に刀の性能を試す御試役ですが、永久は罪人と向き合い出来る限りの供養をしたのでしょう。山野永久は刀の性能ばかりでなく、刀工に日本刀制作の助言までしていたようです。

 

幕末75-3_武市半平太

 

山野永久の死後は、その子孫が刀剣御試役を継ぐハズでしたが、その技量を持つ子孫がなく、複数いた山野の弟子が職を引き継ぎました。しかし、山野の弟子は多くが早くに亡くなり、生き残った弟子の山田浅右衛門(やまだあさえもん)が秘伝の技を子に伝授したいと幕府に申し出て認められます。それが8代将軍吉宗の時代でした。

 

以後、刀剣御試役は山田家の家業として明治初期まで継続していきます。因みに、初代から5代目までは山田「浅」右衛門で、浅草の浅であり、6代目以後は山田「朝」右衛門で朝昼晩の朝になります。

 

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首斬り浅右衛門の時代へ

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

首切り浅右衛門は、明治まで9代を数えましたが、父子で相伝したのは2代目の山田浅右衛門吉時(やまだあさえもんよしとき)と8代目の山田浅右衛門吉豊(やまだあさえもんよしとよ)の2名だけで、後は試し斬りの腕が立つ弟子を養子に入れて存続させていました。

 

また、山野家が幕臣として雇用されていたのに対し、山田家は最後まで臨時雇いでした。この理由については、幕府が死の穢れを忌んだとされてきましたが、そうではなく、山田家を幕臣とすると地位にあぐらをかいて、子孫に試し斬りの技量が伝承されなくなる事を危惧した為であるようです。

 

実際、9代に及ぶ山田浅右衛門は、実子に首斬り家業を継がせる事を嫌っていたともされ、そう考えると幕臣ではなく浪人である方が家督相続が柔軟に行くとは言えるでしょう。

 

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小大名クラスの収入があった浅右衛門

宋銭 お金と紙幣

 

山田浅右衛門家は浪人であり、幕府から決まった知行を得る事はありませんでした。しかし、知行以外に様々な収入源があり、その財力は3~4万石の小大名に匹敵したとされます。

 

最大の収入源は死体で処刑された死体の所有権は山田浅右衛門家が持っていました。そこで、この死体を利用して全国の大名からの日本刀の試し斬りに応じたのです。

 

参勤交代

 

死体の数に比して試し斬りを依頼された日本刀が多いので、一度斬った死体を縫い合わせてまた斬るというような事までしていたり、自ら試し斬りをする武士に対して死体を売却して金銭を得る事もありました。

 

さらなる副収入としては、死体の肝臓や脳や胆嚢(たんのう)胆汁(たんじゅう)を原料として結核に効くとされる丸薬を製造したり遊女の約束用として死体の小指を売却していたようです。

 

傾奇者だけどエリートな前田慶次(前田利益)

 

こうして見ると銭ゲバですが、山田浅右衛門家は稼いだ金を死んでいった罪人の供養に惜しみなく使い、また、罪人の辞世の句を理解して気持ちに寄りそう為に、3代目以降は俳諧を学び俳号を所持していました。

 

ただ機械的に斬首を実行する事に歴代の浅右衛門は耐えられなかったのでしょう。

 

江戸も中期になると、もはや試し斬りを確実にしてくれるのは日本全国でも山田浅右衛門家くらいしかなく、その希少性が必然的に山田浅右衛門家に富を運んでくる事になったのですが、それは人を殺す宿命を背負った歴代の山田浅右衛門の苦悩に見合う金額だったのでしょうか?

 

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歴代浅右衛門が斬った人々

吉田松陰

 

公儀の首斬り役人でもある歴代の山田浅右衛門は、歴史的偉人の首を斬る役目も仰せつかる事になりました。

 

処刑される吉田松陰

 

7代目の山田朝右衛門である吉利は幕末の風雲に遭遇し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎のような安政の大獄の犠牲者を処刑しています。

 

 

その中の橋本左内は25歳で、大老井伊直弼が島流しであった判決を死罪にして山田朝右衛門に首を打たれる事になりましたが、

 

 

あまりの無念に耐えきれず、首を落とされる前に待ったをかけ、大粒の涙をボロボロ流して後に斬首されたそうです。

 

山田朝右衛門吉利は、その事について記録を残していませんが、役目とは言え歴史に名を残す偉人の首を刎ねた事をどう感じていたのでしょう。

 

明治維新後もしばらく、首斬り役人として山田朝右衛門家は存続しますが、死刑が絞首刑となり、人間の臓器の販売が法律で禁止されると収入源を断たれ消滅していきました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は日本刀の試し斬りの歴史について解説してみました。武士の護身具として性能の証明が必要不可欠な日本刀、そして人を斬る道具なので、どうしても罪人の肉体で切れ味を試すという発想が出て来たようです。

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん01 無

 

しかし、戦国時代はともかく、230年の泰平を謳歌した江戸時代に抜く事も人を斬る事もない日本刀の為に、罪人の体で試し斬りが続けられた事実は、例えそれが罪人死後の事とはいえ、やりきれなさを感じてしまいますね。

 

そのやりきれなさを一番感じていたのは、歴代の山田浅右衛門だったのではないでしょうか?

 

参考:Wikipedia

 

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阿部正弘

 

 

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