江戸時代

遊女の1日 江戸の蝶のスケジュールは超ハード

幕末77-12_おゆう(女性)

 

江戸時代の遊郭(ゆうかく)は現代の性風俗の一面もありましたが、同時に遊興ができる娯楽施設であり、飲食が出来るレストランであり、時には花魁道中のような華やかな行列が見られるテーマパークのような存在でもありました。

 

しかし、そんな遊郭の中で暮らす遊女(ゆうじょ)の事は余り知られていません。そこで今回は、知られざる江戸時代の遊女の1日を解説します。

 

遊女の時間割

一条美賀子

 

江戸時代の遊女の時間割はざっくり言って以下の通りです。

 

1.午前10時頃:起床、朝風呂、遅い朝食

2.正午   :昼見世(午前中の営業)

3.午後4時頃 :昼見世終了

4.午後4時~6時:休憩時間及び昼食及び営業活動

5.午後6時:夜見世開始・花魁道中

6.午後10時:吉原の門が閉じる

7.午前0時:店じまい(お客の相手は続く)

8.午前2時:就寝(お客と同衾)

9.午前6時:起床、起きたお客を送り出す

10.午前6時~午前10時:二度寝

 

吉原は、昼見世と夜見世の12時間営業、正月と盆の2日以外休みなしです。つまり、遊女の休みも年に2日しかなく、肉体的な理由による休みを除いては、ほとんど年中無休でお店に出るというハードスケジュールでした。

 

では、ここからは遊女の1日をパートに分け詳しく解説していきましょう。

 

遊女の1日 起床から昼見世まで

にぎわう市(楽市・楽座)

 

遊女は朝起きたら朝風呂に向かいます。火事が多かった江戸では家の中に風呂はなく、ほとんどの町民は銭湯を利用していました。しかし、吉原の妓楼には風呂があり、遊女はここでお風呂に入るか、気分転換に吉原内部の銭湯に行く事もありました。

 

年季が明けるまでは、吉原から一歩も外に出られない(かご)の鳥だった遊女にとって、吉原の内側とはいえ銭湯に入るのも貴重な憩いだったかも知れませんね。

 

お風呂は毎日入りますが、洗髪は手間が掛かるので1カ月に1回だけ、妓楼ごとに「洗髪日」が決められ一斉に髪を洗うので当日はてんてこまいでした。でも、頭のかゆみや髪の重さからしばし解放される洗髪は遊女の愉しみだったそうです。

 

入浴が終わると、遅い朝食です。個室がある高級遊女はそこに食事を運ばせていましたが、下級遊女や見習いの禿(かむろ)は1階の広間に細長いテーブルを置いて並んで食事を摂りました。

 

妓楼での食事は客に出すのと違い、かなり質素で、白米に味噌汁、漬物くらいでしたので、物足りない下級遊女や禿は前夜の客の食べ残しを確保しておいて、朝食に食べる事もありました。

 

食事が終わると身支度をして昼見世の準備に入ります。仕度が終わると束の間の自由時間で、ゆっくりくつろいだり、お客の手紙を遊女同士で見せ合ったりしながらわいわい過ごしました。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

遊女の1日 比較的閑な昼見世

 

正午過ぎから午後4時くらいまでは「昼見世(ひるみせ)」の時間です。吉原の大通りに面した座敷に遊女が着飾って並び、お客に姿を見せて指名を待ちます。このような形式を張見世(はりみせ)と言い、昼におこなわれる張見世を昼見世と言いました。

 

しかし、昼見世にやってくるお客は参勤交代で江戸に出てきて昼間しか遊べない地方武士が多く

「折角、江戸に来たんだ、一遍、吉原を見てみっべ!」的な冷やかし客が多かったようです。

 

噂話をする戦国時代の庶民

 

その為、遊女もただ、座っているのにも飽きて、三味線をつまびいてみたり、読書をしたり、カルタ取りをしたりまた、遊女は占いが好きだったので、人相見を呼んで手相を見てもらうなど思い思いに時間を過ごします。

 

ただ、それらも全て客に見られながらですから、動物園の動物のようなもので完全にリラックスは出来ませんでした。少し緊張の糸を解きながら、客に愛想を振りまくというのが実態に近いでしょうか?

 

午後4時になると昼見世はおしまいになり、ここから夜見世までの2時間は遊女たちの自由時間になります。

 

 

この時間に夜見世に備えて化粧を直したり、慌ただしく昼食を摂ったり、ひいきのお客に手紙を書いたりして営業活動をしました。お客を取らない見習いの禿は、廊下で友達同士ふざけ合ったりしていましたが、遊女は、そんなにくろいでばかりもいられず、時間の隙を見て三味線や踊りの稽古をしました。

 

いかに生まれ持った美貌があれど、それだけでは女を見る目の肥えた上客を捕まえられません。歌、踊り、三味線が出来、和歌なども読めないと、花魁にはなれなかったのです。

 

遊女の1日 夜見世 竜宮城が幕を開ける

 

午後6時になり、日没を迎えると妓楼には灯りが灯り、吉原は活気づき始めます。それぞれの妓楼では、張見世に並んだ遊女による三味線のお囃子(はやし)清掻(すががき)がつまびかれ、これを合図に夜見世が始まりました。

 

大行灯(おおあんどん)に照らされた遊女たちの美しさは、まさにこの世のものとも思えないもので、客にとっては竜宮城もかくやあらんというものです。

 

そして、日暮れになると吉原のメインストリート、仲の町で花魁道中(おいらんどうちゅう)が開始されます。花魁道中とは、妓楼(ぎろう)でナンバー1の花魁が2人の禿を共にして高さ15~18㎝もある黒塗りの下駄をはいて外八文字(そとはちもんじ)と呼ばれる独特の歩き方で、ゆっくりと練り歩く、吉原の一大パレードです。

 

花魁の後ろには新造や大きな傘を掲げた奉公人も続き、絢爛豪華(けんらんごうか)な一大絵巻が繰り広げられます。

 

この花魁道中は無料で誰でも観覧でき、吉原を訪れる人の大きな楽しみになっていました。吉原としても、花魁道中が大きな客寄せになるので宣伝効果で充分元が取れたのです。

 

一方で夜見世に並ぶ遊女もお客から指名が入れば、2階に上がり接客を開始します。夜の妓楼は戦場のような忙しさで、華やかな遊女たちや御馳走を運ぶ奉公人、太鼓持ち、お客など色々な人が行き交います。お座敷では、豪華な料理を前に遊女以外にも、男芸者と呼ばれた太鼓持ち、三味線をひく芸者が宴席を盛り上げました。

 

最高の遊興を提供する引手茶屋

幕末 大金を使い豪遊する尊攘派志士

 

さて、花魁道中はどこに向かうのかと言うと、同じく仲の町にある引手茶屋(ひきてぢゃや)というお客と妓楼を仲介する専門店です。格式の高い妓楼で遊ぶ時には、お客は必ず引手茶屋を通して花魁を呼ぶシステムでした。

 

引手茶屋とは、その名前の通り、お客の手を引いて吉原の遊びを余す所なくガイドしてくれる吉原の遊びコンサルタントです。引手茶屋に客が入ると女将が丁重に出迎え、すぐに酒や肴が用意され、客の要望を巧みな話術であれこれ聞き出し、妓楼の手配から遊女のチョイスまでを済ませます。

 

そして、客が引手茶屋でどんちゃん騒ぎをしている間に、予約で呼ばれた花魁が花魁道中をしながら引手茶屋にやってきて顔合わせをする仕組みでした。こうして、花魁も少しお酒を飲み打ち解けた所で、では妓楼で祝宴と行きましょうかという事になり、花魁を買ったお客を先頭に花魁が続き、再び仲の町を通り妓楼に登って、また大宴会になります。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

引手茶屋は、お客の要望を至れり尽くせり叶え、花魁と同衾(どうきん)した後は、朝のモーニングコールまでしてくれたそうです。もちろん、引手茶屋を使うと目が回るような金額を請求されますが、この引手茶屋、今でいうクレジット払いが利用できました。つまり、今日遊んだ遊興費は月末に引手茶屋がまとめて集金にくるので財布を持たないで気分よく遊べたのです。

 

しかし、お金を出さなくても、実際には料金が発生しているわけで、ついつい使い過ぎ、月末に目玉が飛び出るような請求書がくる事もありました。落語などで登場する、大旦那に勘当される遊び好きな若旦那の借金は、ほとんど引手茶屋の借金だったそうです。

 

遊女の1日 吉原閉門から夜明けまで

 

午後10時になると、吉原唯一の出入り口である大門(おおもん)が閉じられ、以後の出入りは隣のくぐり戸を使います。夜見世の営業は表向きはこの時間で終了ですが、実際には午前0時までは遊女たちは格子の内側に座っていました。

 

午前零時になると、表の行灯の火も消えて夜見世にいた遊女たちも退場します、この時を引け四ツと言います。

本当の四ツは午後10時なんですが、妓楼の店主たちは少しでも稼ごうと幕府の目を盗み、遊女たちにサービス残業をさせていたようです。

 

この時間になると新規の客はもう入れず、相手は遊郭の中のお客だけになります。真っ暗になった外では、火の番が「火の用心さっしゃいましょー」と呼びかけながら深夜の吉原を歩いていました。

 

午前2時になると大引けの拍子木が鳴り響き、床入り、つまり就寝の時間です。お客がついた遊女もつかなかった遊女も就寝時間になりました。

 

暗殺(寝ているシーン)モブ

 

お客は、個室持ちの遊女なら遊女の部屋で、大部屋の下級遊女が相手なら「(まわ)し部屋」と呼ばれる大部屋で遊女がくるのをいまかいまかと待ちます。もちろん吉原はお客の天国なので、もっと早く遊女と同衾したいと願えば叶います。すべてはお客の気持ち次第でした。

 

さて、遊女は禿の時代から男女の営みの全てを見て育ったハッスルのプロでした。つまり美しいだけではなく、お客を天にも昇らせるような性のテクニックを持つ床上手だったのです。

 

しかし、そんな遊女は一方で自分達は絶頂に達しないように訓練していたそうです。理由は、客とハッスルする度に絶頂に達したのでは身体が持たないとも、絶頂に達すると妊娠してしまうと信じられていたとも言われます。あるいは籠の鳥として、本当に客に惚れ、捨てられる悲しみを受けないように自分をガードしていたのかも知れません。

 

一方で、下級遊女の大部屋では、屏風(びょうぶ)一枚を仕切り、あっちもこっちも(あえ)ぎ声が聞こえる中で、沢山の男女が束の間の快楽に溺れていました。こんな環境で出来るんだろうかとも思いますが、隣でハッスルされると自分も燃えるという性癖の人もいたようです。

 

長いようで短いような4時間が経過すると、空は白みだし、別れの時間がやってきます。

 

客が目を覚ますと遊女も一緒に起きて、客の帰り仕度を整えます。これを「後朝(きぬぎぬ)の別れ」と言い、今度はいついらしてくださるの?と客の心を引く営業トークで次の来店を待ちます。

 

こうして、しおらしくお客を送り出すと「二度寝」と言い遊女の睡眠時間が始まります。こうして、4時間ほど眠ると午前10時がやってきて、また1日が始まるのでした。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

お客に取ってはお金で遊べる竜宮城だった吉原も、中にいる遊女に取っては非常に忙しくほとんど自由のない地獄でした。現在のように医学も進んでいない当時、遊女は梅毒、白粉(おしろい)による水銀中毒、堕胎(だたい)に伴う母体の損傷などで、その寿命は短く(はかな)い生命を散らす事が多かったのです。

 

それでも遊女たちは、プロとして向上心を持ち、女としては、いつか好いた男に身請けされる事を密かに夢みて、日々の多忙な毎日に懸命に耐えていました。現在の価値観から上から目線で可哀想というのも、また江戸時代を逞しく生きた遊女たちに失礼になるかも知れません。

 

参考文献:Wikipedia等

 

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