田沼意次は江戸中期に活躍した老中で10代将軍徳川家治の時代、米に依存した幕府財政を重商主義に転換すべく、一連の改革策を打ち出した人物です。
意次が老中を務めた時代は田沼時代と呼ばれ、商業や産業が急速に発展する一方、賄賂が横行し急激なインフレで生活が出来なくなった農民が田畑を捨てて江戸に流れ込み治安を乱したり、天明の大飢饉で百万人もの人が飢えと病気で亡くなったりしました。
今回のほのぼの日本史は功罪が同居する江戸の政治家、田沼意次を解説します。
この記事の目次
江戸の小身旗本の子として誕生
田沼意次は享保4年(1719年)幕府旗本田沼意行の子として産まれました。元々、父の意行は紀州藩の足軽でしたが、まだ部屋住みだった頃の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が将軍職を継ぐと幕臣となり加増されて旗本に出世したのです。
江戸に地盤がない吉宗は、将軍就任にあたり紀州系の家臣を大勢引き連れていて、特に勘定方と将軍、及びその子息の側近に配置していました。著名な人物としては大岡忠相が有名ですが、田沼意次もそんな紀州系の第2世代の幕臣として出世コースに乗り、9代将軍徳川家重の西丸小姓として抜擢。
享保20年(1735年)に家督を継いで六百石を相続しました。
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出仕から27年で五万七千石の大名へ
意次は元文2年(1737年)従五位下主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に使えます。そこから、寛延元年(1748年)に1400石、宝暦5年(1755年)にさらに3000石を加増とトントン拍子に加増が続きます。
そして、宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上一揆に関する裁判の担当を命じられ、御側御用取次から1万石の大名に昇進しました。
宝暦11年(1761年)家重が死去した後も、世子である10代将軍徳川家治に厚く信任され、破竹の勢いで昇進し明和4年(1767年)には御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人に出世して5000石の加増を受け、従四位下の官位を受けて2万石の相良城主となります。
さらに明和6年(1769年)には侍従に昇進して老中格となり、安永元年(1772年)相良藩5万7000石の大名に取り立てられ老中を兼任しました。当時、大名が新たに城を築く事は厳しく制限されていましたが、家治の信任が厚い意次は例外で相良藩に天守閣付きの城を築いて名実ともに一城の主になっています。
1745年に600石で徳川家重に仕えてより、1772年までの27年間で意次は10回の加増を受け5万7000石の大名に昇進したわけですが、側用人から出発して老中になったのは、この田沼意次が最初であるようです。
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田沼政治の背景と内容
この頃から、老中首座である松平武元など田沼意次を中心とした幕府閣僚が様々な幕政改革に取り組み、これが田沼時代と呼ばれます。当時の幕府は深刻な赤字財政に悩んでいました。その大きな理由は幕府が徴税を米に依存していた事でした。
幕府は開府当初から、米の増産に励んで耕作面積を大きく増やした結果、増え続ける人口以上に米の収穫量を増やしました。しかし、これにより米の価格が低下し、米を年貢としている幕府の歳入が低下、さらに米で俸禄を受けている幕臣の生活も苦しくなります。
また、食べる事に余裕が出た富裕な農民が米以外の換金作物の栽培にも着手し経済ツールとしての貨幣供給量が増加。米は貨幣に等しい存在から木綿や菜種油のような換金商品の一つとなり、相場によって価格が常時変動するようになったのです。
意次は、徳川吉宗が享保の改革で米価の安定に腐心し「米将軍」と呼ばれた様子を見ていて、米の収入だけに頼るだけでは幕府が立ちいかないと考えました。
そして、大商人の権益を認める株仲間の結成や、銅座のような専売制の実施、平賀源内などを使った鉱山開発、蝦夷地開拓や中国向けの俵物と呼ばれる海産物の専売による海外貿易の拡大や、増え続ける江戸人口を支える為、印旛沼や手賀沼の干拓に着手します。
意次は、後でインフレを起こすだけの安易な貨幣改鋳の利ザヤに頼らず、重商主義的な経済政策を打ち出して幕府を根本から変えようとしたのでした。
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幕府ファーストの政策で庶民と諸大名の憎悪を浴びる
しかし、意次の基本政策は幕府の歳出を削減して赤字を減らし歳入を増やす政策であり、商業や産業発展の恩恵に預かった大商人や富農には評判が良くても庶民や諸大名の猛烈な反発を受けました。
意次は諸大名に対し吉宗時代に廃止していて国役普請を復活させ、国持ち大名や20万石以上の大名に大土木工事や治水工事の負担を命じました。こうする事で幕府の財政負担の軽減を図ったのですが、大名達は自分達の年貢増収に繋がらない普請工事に駆り出され多額の借金を背負います。
これらの藩の中には藩政改革中の藩もありましたが、意次は例外を認めなかったので回復した藩財政が借金に沈んだ藩も続出しました。
特に米の産地として江戸に多く回米していた仙台藩は、1767年に利根川筋のお手伝普請を命じられて22万両の借金を抱え、今まで以上に藩の利益追求を余儀なくされたので、天明の飢饉でも領民を救うよりも高騰した米を売り払って借金を支払う事を優先し、領民の飢餓が深刻化したのではないかと言われています。
さらに意次は明和8年(1771年)凶作や自然災害に遭遇して経済的苦境に陥った大名・旗本救済用の拝借金を財政難を理由に停止しました。これは無利子、年賦返済で融資するという制度でしたが、これが廃止された事で諸藩は天明の飢饉を自力で何とかしないといけなくなったのです。
商業が発展して華やかな商人文化が花開く一方で、換金作物を栽培する余裕のない貧しい農民の生活は、加速するインフレで増々追い詰められていき、田畑を捨て江戸に出てくる潰れ百姓が続出し、江戸の犯罪発生率が急激に増加。天明の大飢饉の最中には毎日のように商人の蔵を襲う打ち壊しが起きていました。
天明の大飢饉の頃に活躍した人物としては、鬼平として有名な長谷川平蔵がいますが、彼が捕らえた火付け盗賊や強盗の類の大半は疲弊した地方の農村から江戸に流れ困窮した末に犯罪に手を染めた農民たちだったのです。
また、田沼時代の蝦夷地開発は、当初はロシアとの交易、次に蝦夷地を開発して広大な農地にするという気宇壮大なものでしたが、いずれも誇大計画でしかなく印旛沼干拓の失敗や、金銭万能風潮の流布による賄賂の横行で、庶民は田沼政治を憎悪するようになりました。
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田沼意次の功績 通貨統合
田沼意次には、あまり知られていない隠れた大きな功績もあります。それが計数貨幣である南鐐二朱銀の大量鋳造でした。
江戸中期の日本では、関東では金貨が流通していたのに対し関西は銀貨が主流でした。さらに銀貨は豆板銀や慶長丁銀のような秤量貨幣だったので、取引の度に天秤で計る必要があり、東西経済の円滑化を阻害していたのです。
そこで意次は南鐐二朱銀を発行しますが、これは秤量貨幣ではなく一枚いくらの計数貨幣でした。これにより重さを計る事なく銀貨も流通するようになり、関東の金貨と銀貨の両替も円滑になりました。
ただ、南鐐二朱銀は従来の元文銀よりも銀の含有量が少なく、損をする両替商人の反対は根強かったのですが、意次は南鐐二朱銀を扱う両替商人に色々の特典をつけて、とうとう流通させてしまいます。これにより幕府も元文銀を鋳潰して南鐐二朱銀を鋳造するだけで通貨発行益を手に出来、財政を潤す事が出来ました。
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田沼意次の失脚
田沼意次は身分にとらわれず、才能ある人材を登用をするなど幕府の慣例を破る改革を続けていましたが、
それが朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)意次の後継者で若年寄を務めていた田沼意知が江戸城内で佐野政信に暗殺されます。被害者であるはずの意次ですが、世間は暗殺者である佐野政信を賞賛し田沼政治を批判する声で一色になりました。
これを受けて、反田沼派の松平定信の派閥が台頭し、往時の意次の権勢はすっかり陰を潜めるようになります。
天明6年(1786年)8月25日、そうせい候となって意次に全権を委任した将軍家治が死去。それ以前から家治の勘気を被り遠ざけられていた意次は8月27日には老中をクビになり、雁間詰に降格、さらに家治時代の2万石を没収され、大坂の蔵屋敷の財産没収と江戸屋敷の明け渡しを命じられました。
その後、意次は蟄居を命じられ、さらなる減封処分を受け、相良城は打ち壊されてます。田沼意次の後継者の意知はすでに殺害され、他の3人の子供は全て養子に出ていたので、家督は孫の田沼龍助が継ぎますが、石高は1万石に減らされ陸奥国へ左遷されました。
ようやく家名は保てたものの過去の権勢の欠片も消え、失意の意次は天明8年(1788年)江戸で70歳の生涯を閉じたのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
田沼意次は緊縮財政と商業や産業奨励により、赤字だった幕府財政を立て直し明和7年には、300万両もの金銀を幕府に残しました。ライバルであった松平定信も、元禄から寛政年間の百年で幕府の備蓄金が一番多かったのは明和年間であると素直に認めています。
また、意次の重商主義により貨幣供給量が増加した結果、天明文化と呼ばれる華やかな商人文化が花開き、東西経済が南鐐二朱銀で円滑に統合されました。その事実から賄賂政治家、金権政治家という一面的な田沼意次の見方は改められ、今は江戸時代の大政治家と呼ばれる事も珍しくありません。
しかし、それでもkawausoは田沼意次には厳しい指摘をしたくなります。それは意次が幕府の経済ばかりを見て、自分の政策で追い詰められた大勢の貧しい人々を顧みようとしなかった点です。
簿記では、誰かの資産は誰かの負債だと教えられます。誰かが1億円儲かった時、社会には1億円分損した人々が必ずいるのです。意次がただの商人なら責任はありませんが、老中として天下の政治を預かるなら大儲けをしている人の陰で貧困に沈む多くの人々を自己責任で切り捨てるべきではありません。
彼が苦心して貯めた300万両の1/3でも困窮した人々を救う為に差し出す事が出来たら、きっと彼の晩年は、あんな悲惨な事にはならなかったのではないでしょうか?
参考文献:経済・戦争・宗教から見る 教養の日本史 西東社
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