戦国時代

一国一城令で本当に困ったのは大名ではなかった?忖度で決まった城の存続

名古屋城

 

一国一城令(いっこくいちじょうれい)は、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし天下人となった大御所(おおごしょ)徳川家康が将軍秀忠(ひでただ)の命令として、諸藩の大名に本拠地以外の城の破壊を命じ、居城の修理も勝手にしてはならないと命じた事から始まったとされています。

 

しかし城の破壊は各大名に任され幕府は調べなかったので、島原の乱の前まで、城は中途半端な破壊に留まっていた事が最近の研究で分ってきたのです。そして、一国一城令で本当に困ったのは大名ではなかった事も分かってきました。

 

一国一城令で本当に困ったのは大名ではなかったザックリ

忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

では、最初に一国一城令で本当に困ったのは大名ではなかったについて、簡単にザックリと説明してみましょう。

 

1 一国一城令は大坂夏の陣後、徳川秀忠の命令で出されたが、それ以前

から敗者が恭順(きょうじゅん)の意を示して自ら城を破壊する習慣があった。

2 初期の一国一城令は、天守閣(てんしゅかく)(やぐら)を破壊すれば石垣は残っていてよい緩いものだった。
3 島原の乱で一揆軍が廃城だった原城に籠城し幕府軍が苦戦した事で

一国一城令の監視が厳しくなった。

4 大名は一国一城令を盾に、家臣の城も破壊し大名と家臣間の力の差が大きくなり、権力が大名に集中された。
5 大名が城を陣屋(じんや)と言い、石垣を土居(どい)と言い抜ける事で石垣を保持した城が存在し、幕府の一国一城令がマニュアル化していない事が分かる

 

以上が、ザックリした一国一城令で本当に困ったのは大名ではなかったの、ザックリした内容です。以後は、それぞれの内容を詳しく解説します。

 

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お城は徹底破壊しなくて良かった

仙台城

 

実は、城の破壊は徳川家康だけではなく、豊臣秀吉や織田信長、それ以外の戦国大名も出していました。

 

それは、敗北し軍門に下った敵将が「二度と城に籠って抗戦しない」という意思表示の儀式であり、天守閣や防御用の櫓を破壊して籠城出来ないようにすればOKでした。

 

つまり、石垣や堀のような防御施設が丸々残されても上に建造物が無ければ、それで城は破壊されたと見做されたのです。しかしこの大甘チェックが一転して幕府に牙を剥く事件が起こりました。それが、寛永13年から14年にかけて発生した島原の乱だったのです。

 

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キリシタン一揆軍は原城に籠城し幕府を苦しめる

天草四郎

 

天草と島原で蜂起したキリシタン一揆軍は、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)をリーダーとして島原城の城下を略奪、富岡城も攻撃して落城寸前まで追い詰めますが、九州大名を連合した幕府討伐軍が近づいている事を知ります。

 

援軍が期待できない状態にあったキリシタン一揆軍は、有明海を渡って破壊されて廃城となっていた原城に入り、建物を修復して幕府の討伐軍を迎え撃つ事になりました。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

幕府軍は12万という大軍でキリシタン一揆軍、3万7千の4倍近い大軍でしたが、籠城した一揆軍の鎮圧に大苦戦。無理な突撃で4000名以上の戦死者を出し、総大将、板倉重昌(いたくらしげまさ)は功績を焦って鉄砲に倒れて戦死しました。

 

日本史 兵糧攻め 村人

 

後任の総大将、松平信綱(まつだいらのぶつな)は力攻めから兵糧攻めに転じ島原の乱を鎮圧させましたが、幕府は城を中途半端に破壊する恐ろしさを知り、一国一城令を見直して監視を強化します。それにより、例えば阿波国では本城の徳島城以外にも、9つの城が機能していた事が分かったそうです。

 

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本格的な破壊が進み、損をしたのは?

軍議(日本史)モブb

 

島原の乱以後、各地の大名は本拠地以外の城の徹底破壊を進めますが、それは大名にとってはデメリットばかりではありませんでした。従来、破壊を免れていた配下の城まで、一国一城令の強化を根拠に破壊する事が可能になったからです。

 

戦国時代の武家屋敷a

 

これにより、本拠地の城を持つ大名と屋敷しか持てない家臣の力の差がいよいよ大きくなり、大名は家臣を完全に藩の統制下に置く事を可能としました。

 

事実、江戸時代に起きたお家騒動が、精々数十名単位の斬り合いという小規模なモノで済んでいたのは、この時、一国一城令で家臣たちの城を徹底破壊した事が大きな要因だと考えられています。

 

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実はマニュアルが無かった一国一城令

幕末_密室政治(軍議)

 

徳川幕府が諸大名に示した一国一城令ですが、実際は具体的にどこまで壊せば破壊と認めるとは書いていない曖昧(あいまい)なものでした。例えば、広島城の無断改築で幕府の怒りに触れて処分された福島正則の場合には、洪水被害の改修工事でしたが、幕府はこれを築城だと解釈して正則を処罰しました。

 

「武勇に長けるが、大酒吞みで智謀に乏しい猪武者と呼ばれた福島正則

 

正則は恐れてすぐに城の破壊を申し出て一度は許されますが、幕府が本丸以外の全ての破壊を命じたのに対し、福島正則は一部の石垣を取り除いただけだったので、徳川秀忠の怒りを買い処分が厳しくなったのです。

 

細川忠興

 

逆に細川藩では、本拠地の小倉城(こくらじょう)以外の城を石垣も残さずに徹底破壊して恭順を示しつつ、2つ目の城である中津城(なかつじょう)の存続を幕府に認めさせました。それ以外にも、石垣と書かずに要害や土居と書く事で事実上は城なのに城と見せず、城の破壊を免れた藩もあります。

 

幕府のやり方はケースバイケースであり、決まったマニュアルがないので、大名は幕府の腹を探りながら落し所を見つけないといけなかったのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

城の破壊と言うと、石垣に至るまで完全に破壊して更地にする事と考えてしまいますが、そんな徹底破壊は島原の乱以前は、むしろ稀だった事が分かりました。

 

また、島原の乱以後も、幕府の破壊認定は曖昧なので、城を陣屋と届けたり、石垣を土居と過少に届ける事で立派な石垣が丸々残ってしまった事も結構あったのです。

 

参考文献:ここまで変わった日本の歴史24の最新説 中央公論新社

 

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