室町幕府を開いた足利尊氏の弟、直義。兄との権力争いは、歴史の表舞台で繰り広げられた壮絶なサスペンスドラマでした。果たして、直義の悲劇の結末は?愛憎に彩られた裏切りの真相に迫ります。
この記事の目次
足利直義の生涯
足利直義は、室町幕府初代将軍となる足利尊氏の弟です。兄、尊氏が鎌倉幕府に背いて、後醍醐天皇に味方すると共に京都の幕府の出先機関である六波羅探題を陥落させ、鎌倉幕府滅亡に貢献しました。
建武親政が始まると直義は後醍醐天皇の皇子、成良親王を奉じて鎌倉に向かい、鎌倉将軍府の実質的なトップになり北条氏の残党に対処しますが、1335年の中先代の乱で北条時行の軍勢に敗れています。しかしその後、兄の尊氏を鎌倉への救援に赴かせて鎌倉を回復。
後醍醐天皇が尊氏に不信感を持ち討伐を命じると、狼狽える尊氏を説得して征夷大将軍に就任させ室町幕府創設に関わりました。直義は、北朝の御光厳天皇との関係を強化し、南朝の後醍醐天皇と戦う幕府の正統性を担保。建武式目を制定して室町幕府の基礎を固めました。
ところが、幕府の方針を巡り尊氏の懐刀だった高師直と対立。対立は兄尊氏を巻き込んで観応の擾乱という幕府を二分する内戦に発展します。師直との戦いに勝利し暗殺に追い込んだ直義ですが、尊氏との関係は修復できず、兵を挙げた尊氏と薩埵峠で戦い敗北。鎌倉に幽閉されて2カ月足らずで急死しています。
幼少期と家族背景
足利直義は、鎌倉幕府の有力御家人である足利貞氏と上杉清子との間に誕生しました。上に兄が2人いて、その中の尊氏とは生母も同じで年齢も二歳程度しか離れていない事から、幼少期からとても仲が良かったようです。足利氏は河内源氏に連なる名門で、すでに直義の父、足利貞氏の時代から、東国の武士をまとめる象徴として関東御家人に意識され、執権北条氏は足利氏に猜疑心を持ち、歴代の足利氏の当主も、それを察知して北条氏から正室を娶るなど北条氏との関係を強化していました。
しかし、直義も尊氏も生母が北条氏ではなく、執権北条氏に好印象を持っていないようで、当初は慣習通り、14代執権北条高時から高の偏諱を受けて高国と名乗っていましたが討幕を決意した後には、河内源氏の通字である義を名前に入れ直義と改名しています。
幕府創設に至る経歴
足利直義が幕府創設に至るまでには、北条時行が起こした中先代の乱が影響しています。鎌倉幕府滅亡後、直義は後醍醐天皇の皇子である成良親王を奉じて鎌倉に入りました。これは、関東の御家人の中に、まだ多くの北条氏残党がいて治安が安定していなかった為です。しかし、1335年、14代執権北条高時の遺児である北条時行が挙兵し信濃を平定。
直義は軍勢を率いて立ち向かいますが敗北し三河国へ逃れました。窮地に陥った直義は京都の兄、尊氏に救援を要請しますが、後醍醐天皇は尊氏を鎌倉に向かわせると独立するのではないかと恐れて許可を出しません。尊氏は天皇と直義の間で板挟みになり悩んだ末、弟を救うべく天皇に無断で鎌倉に向かい乱を鎮圧します。尊氏はすぐに京都に帰るつもりでしたが、直義は、今京都に戻れば後醍醐天皇に逮捕され処刑されるとして強引に引き止め、結果、後醍醐天皇が尊氏討伐を命じると、出家して許しを請うとする尊氏を説得して後醍醐天皇の軍勢と戦わせました。
京都に入城した尊氏ですが、北畠顕家や新田義貞、楠木正成の連合軍に敗北し九州まで落ち延びました。しかし、光厳上皇の院宣を得た事で官軍となって持ち直し北上。京都を陥落させた尊氏は後醍醐天皇への対抗上、光明天皇を即位させて征夷大将軍に就任。室町時代が始まる事になりました。
政治家としての足利直義
政治家としての足利直義は、兄の尊氏よりも遥かに優秀でした。感情の起伏が激しく、やる気がある時と無い時の差が激しい尊氏に対し、直義は沈着冷静で、状況がどんなに悪くても投げ出さずに打開策を打ち出す事が出来たからです。特に尊氏が後醍醐天皇により朝敵認定され、京都で後醍醐天皇の軍勢に大敗して九州に落ち延びた時には、後醍醐天皇により廃位され恨みを抱いている光厳上皇に接触し尊氏を官軍とする院宣を出してもらう事に成功しています。
この院宣により後醍醐天皇に叛いた朝敵として最悪の状況にいた尊氏は賊軍の汚名を払拭し、九州武士団の支持を取り付け京都を奪還できました。また、直義は室町幕府が創設されると、法律の専門家を招いて建武式目を制定し、幕府の政治方針を明文化しています。これらの直義の働きが無ければ尊氏が幕府を開く事はあり得なかったでしょう。
足利尊氏と直義の関係
足利尊氏と直義の関係は晩年までとても良好であったと考えられています。
中先代の乱で直義が北条時行に敗れて鎌倉を奪われた時、後醍醐天皇の許可を得ずに尊氏が独断で京都から出撃したのは直義を救いたい気持ちからと考えられていますし、一度は後醍醐天皇に謝罪して出家しようとした尊氏が変心して後醍醐天皇に叛いたのは、直義の軍勢が新田義貞の軍勢に敗れたのを黙って見ていられなくなったからでした。
室町幕府を開いた直後も、尊氏は情緒が不安定になり出家の願望を口にしていますが、この時にも「私は俗世を捨てるので、どうかこの世の幸福は全て直義に与えて下さい」と願文を書いて清水寺に収めています。
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兄弟の絆と対立
兄弟仲がとても良かった直義と尊氏が対立するようになった原因は、大きく分けて3つあると考えられています。第一には直義の政治が北条氏の政治を踏襲した保守的なモノであったのに対し、尊氏が信頼していた執事の高師直は革新的な政治改革を望んだ事です。第二は、直義が血族である足利一門を重用し、一門以外を重要なポストに就けなかった事でした。第三は、高師直が直義の政治に不満を持つ御家人を集めて反直義のグループを作って、両者が激しく抗争を開始した点があります。
観応の擾乱の背景と結果
直義と師直一派の意見の対立は、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展しました。さらに悪い事には、この隙を突いて、瀕死だった後醍醐天皇の南朝が勢力を強めた事でした。乱の当初、尊氏は直義派からの讒言を受けて高師直の執事職を解任します。これに激怒した師直と師泰兄弟は直義を軍勢で襲撃、驚いた直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲しました。師直は、直義をクビにする事を求め尊氏がそれを受け入れたので直義は出家します。
しかし、翌年、直義の養子である足利直冬が中国地方で反乱を起こします。これに対し尊氏と師直が遠征すると直義は京都を脱出して南朝へ降伏する空前絶後の決断を下します。一方、京都の北朝は直義追討令を出しますが、南朝に属した直義は北朝軍を圧倒。摂津国打出浜で尊氏方を破り、尊氏方の高師直、師泰兄弟と一族は暗殺され、観応の擾乱は直義の勝利で終わりました。しかし、観応の擾乱は滅亡まで追い込まれていた南朝の息を吹き返させ、幕府の基盤を未整備に終わらせるなど、その後の室町幕府に重い後遺症を残します。
最期の瞬間とその影響
高師直と師泰兄弟を暗殺で葬り去った直義ですが、兄の尊氏や甥の義詮との関係は修復できませんでした。反目の末、京都から出撃した尊氏と義詮は南朝に降伏し、直義追討の院宣を受けたのです。直義も反尊氏勢力を糾合して迎え撃ちますが、観応の擾乱の事もあり、直義に味方する武士は少なく薩埵峠の戦いで尊氏に敗れ、1352年1月5日に鎌倉に追い込まれて武装解除され、浄妙寺境内の延福寺に幽閉されます。そして、翌月の2月26日に急死しました。あまりに突然の死に太平記では、直義が病死したと発表されたが、本当は毒殺されたのではないかとの噂が立ったと記しています。
有名な逸話と評判
足利直義には、誠実で優しい人柄を思わせる逸話があります。ある時、直義は自宅で歌会を開き、高名な禅僧が大勢参加していました。歌会が終わり禅僧たちは帰っていきますが、臨済宗の禅僧、雪村友梅という禅僧は出遅れてしまいます。
じつは雪村は中風を患い、体が不自由だったので履物を履く時に人に助けてもらっていたのですが、すでに誰もいないので困ってしまいました。それを察した直義は、事実上の副将軍にもかかわらず、さっと庭に下りて何も言わずに履物を差し出し、雪村は恥をかくことなく帰る事が出来たそうです。また、直義は賄賂に繋がるからという理由で、他人からの贈り物を全て拒否していたそうで清廉潔癖な部分もうかがえます。
尊氏との絆回復の試み
尊氏と直義との間では合戦を繰り返しつつも絆を回復する試みが取られていました。尊氏も最愛の弟を殺すつもりはなかったようです。1351年の10月、近江国錦織の興福寺で尊氏と直義は直接会談を持ちますが、直義の部下である桃井直常が猛反対し、和議を結ぶ事は出来ませんでした。直義は誠実で温情に厚い部分があったために、自分に忠実な部下たちを見捨てられず、兄弟の絆は二度と甦る事は無かったのです。
足利直義が現代に与える影響
足利直義の生涯は現代の政治や会社組織の運営に重要な影響を与えるものです。第一に直義は、建武式目を通じ中央集権的な政治体制を構築しようとしましたが、足利一門に過度に権力を集中させる余り、非足利一門の不満を煽り、観応の擾乱を引き起こしました。これは、権力の一極集中が必ずしも安定をもたらさないことを示唆し、組織のチェック・アンド・バランスの重要性を教えてくれます。
第二には、直義と師直の対立が派閥争いの様相を呈した事です。元々は両派閥とも室町幕府の将来を考えて動いていたはずですが、相手を憎むあまり自派閥の利益を優先し、室町幕府という組織をガタガタにしてしまいました。第三にはリーダシップの在り方です。直義は実直で誠実な人間として知られていましたが、実直さは融通が利かない頑固な性格に通じ、誠実は優柔不断さに通じたために決断力を欠いてしまいました。足利直義の生涯は、組織人として生きる現代人に尽きない教訓を残していると言えるでしょう。
歴史の中での評価
足利直義の評価は変遷を繰り返しています。明治時代頃までは南朝の後醍醐天皇を正統とする明治政府の立場もあり、後醍醐天皇に反逆した足利尊氏と共に直義にも逆賊を補佐したとして否定的な評価が下されました。
昭和に入り、国学や国史学の発展に従い、南朝のみではなく、神武天皇以来の皇統の正統性を重視する思想が強まると、直義は尊氏を補佐して室町幕府の基礎を築いた名将としての再評価が出てきます。戦後は、民主主義的な風潮から、直義を尊氏との権力闘争に敗れた悲劇の英雄と捉える研究もありました。近年は、英雄か逆賊かではなく、古文書を研究する事で直義の内面を探り、兄を支え同時に反発した人間としての足利直義について評価する動きも出てきています。
足利直義を描いた作品
足利直義は、征夷大将軍足利尊氏の弟として、多くの小説、絵画、映像作品に登場しています。小説では安部龍太郎「兄の横顔」や垣根涼介「極楽征夷大将軍」テレビドラマでは、1991年のNHK大河ドラマ「太平記」漫画では、河部真道「バンデット -偽伝太平記-」湯口聖子「夢語りシリーズ 風の墓標」。
最近、アニメ化もされた松井優征「逃げ上手の若君」があります。ただ、尊氏の知名度が圧倒的であるためか、足利直義を主人公に据えた作品はあまり見られません。この点は豊臣秀吉の弟として秀吉の天下を補佐した豊臣秀長にも似ていますね。
足利直義に殺害されたのは誰ですか?
足利直義に殺害されたのは、後醍醐天皇の皇子で建武の新政で征夷大将軍に任命された護良親王です。護良親王は鎌倉幕府を倒すのに功績を挙げましたが、足利尊氏と仲が悪く、父である後醍醐天皇とも対立した為、征夷大将軍を解任され、鎌倉に幽閉されていました。そんな時に中先代の乱が勃発し、直義は護良親王が北条時行に味方して反乱に正当性を与えてしまう事態を恐れ、側近の淵辺義博に命じて殺害したと言われています。ただ護良親王殺害は直義単独の犯行ではなく後醍醐天皇も了承済みであったようです。
尊氏と直義が対立した原因とは?
足利尊氏と直義が対立した原因は、直義が尊氏の側近である高師直と政治方針を巡って対立したせいでした。直義は鎌倉幕府の政治を理想として重要ポストを足利一門で占め、鎌倉時代以来の武士を重視した中央集権を目指しますが、高師直の支持基盤は建武親政以来の成り上がりの悪党のような新興武士でした。尊氏は弟と信頼する側近との間の抗争に巻き込まれ、結果として高師直に味方したために直義と対立する事になったのです。
観応の擾乱の勝者は?
観応の擾乱は、足利直義と高師直の間で起こり足利直義が師直に勝利して終わります。しかし、兄の尊氏は当初、師直に味方していた事もあり、乱が終結しても兄弟仲が修復する事はなく、最終的には直義が尊氏の軍勢に敗れて幽閉され急死して終わりました。では、乱の勝者は尊氏なのか?と言えば、有能な行政能力を持つ直義と師直を失った事で室町幕府は大ダメージを受ける事になります。一方で観応の擾乱は、南朝の寿命を延命させたので観応の擾乱の勝者は南朝政権かも知れません。
足利直義の最期は?
足利直義は、薩埵峠の戦いで足利尊氏に敗れ、1352年1月5日に鎌倉へと追い詰められ、武装を解除されました。その後、浄妙寺境内の延福寺に幽閉されます。そして、翌月の2月26日に急死します。彼の突然の死について「太平記」では病死とされたものの、実際には毒殺ではないかという噂が広がったと伝えられています。
足利直義はどんな人柄だったのでしょうか?
足利直義は真面目で誠実な人柄であり、賄賂にあたるからと人からの贈り物を受け取りませんでした。また南北朝の戦乱に苦しんだ庶民のために救済策を考えていた節もあり、慈悲深い一面もあったようです。一方で直義は源氏の棟梁としての兄のイメージを守るため、護良親王を暗殺したり、後醍醐天皇を欺くような汚れ仕事を率先して引き受けてもいました。
逃げ上手の若君の足利尊氏は何者?
逃げ上手の若君における足利尊氏は圧倒的な武勇を持ち、大勢の敵を一瞬で返り討ちにするチート能力の持ち主です。そのため敵対勢力から何度、暗殺を仕掛けられても成功しません。しかし、チートな武力を上回る尊氏最大の武器はカリスマ性で、穏やかな微笑で人を惹きつけ民衆や武士、後醍醐帝までもが尊氏に魅了されます。
ところが尊氏には二面性があり、普段は温厚で寛大ながら何気ない一言に腹を立て、あっさりと殺人を犯したり、野望があるようには見えないにもかかわらず、鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切るなど矛盾に満ちた行動をします。尊氏の心には欲しがりの鬼という鬼が住んでいて、あらゆるものを寄こせと呻いて、尊氏を瞬間的に矛盾した行動に駆り立てるのだそうです。尊氏にとっては、討幕も室町幕府創設も繰り返される悲惨な戦も、心の中に住む欲しがりの鬼の衝動に従っているだけの楽しい「お遊び」なのかも知れません。
逃げ上手の若君の足利高氏の声優は誰ですか?
逃げ上手の若君で足利尊氏を演じているのは小西克幸さんです。代表作には「鬼滅の刃」の宇髄天元役やゴールデンカムイの鯉登少尉役、「ヘタリア」のアメリカ役、チ。ー地球の運動についてーのオグジー役など人気アニメ作品のキャラクターを多く演じています。
足利尊氏と直冬の関係は?
足利直冬は足利尊氏が側室の越前局との間に産ませた子どもだと言われています。しかし、尊氏は直冬を認知せず、やむなく直冬は朝廷や武家の間に出入りして学問の講義をしていた独清軒玄慧法印の所で勉強しつつ京都で暮らしていました。その後、独清軒玄慧法印は直冬を見所があるとして、尊氏の弟、直義と面会させました。
子どもがいなかった直義は直冬を養子として育てます。南朝との戦いで功績を挙げた直冬ですが、尊氏は直冬を認知したものの親愛の情を見せる事はありませんでした。この事を直冬は恨み、観応の擾乱では自分を育ててくれ養子にした直義に味方し、直義の死後も九州で直冬党を組織して北朝と戦い続けました。
足利直冬は何をした人ですか??
足利直冬は足利尊氏の側室、越前局との間に生まれた子ですが、正室の子でなかったので任地されず紆余曲折を経て、尊氏の弟で子供がいない直義の養子となりました。直冬は武将として立派に成長し南北朝の騒乱でも手柄を立てますが、尊氏はあまり認めませんでした。
そのため直冬は尊氏を恨み、観応の擾乱では叔父である直義について尊氏と戦い、直義が急死した後も中国地方に拠点を築いて、南朝に降り、斯波高経、桃井直常、山名時氏、大内弘世等の後援を受けて尊氏と戦い、1355年には楠木正儀と共に尊氏を破って京都を奪い返しますが、間もなく北朝方の足利義詮、佐々木道誉の軍勢に京都を奪い返されました。1358年に尊氏が死去した後も戦い続けた直冬ですが、その頃には北朝の攻勢によって南朝勢力は衰退、直冬も1366年に出した書状を最後に消息不明となりました。
kawauso編集長の独り言
今回は、足利尊氏の弟で室町幕府創設の功労者であり、観応の擾乱の当事者でもある足利直義を解説しました。兄を支え室町幕府を開いた直義ですが、一方で観応の擾乱を引き起こして内乱となり、瀕死の南朝が息を吹き返してしまう切っ掛けを与える等、功罪が半ばの人物です。良くも悪くも歴史を大きく動かしたのが直義の特徴でしょう。
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