【遊行上人】一向俊聖とはどんな人?一遍智真と間違われてきた僧侶

11/02/2026


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

一遍上人(坊主)

 

鎌倉時代中期、蒙古襲来により日本国内が混迷を極める中、不安に陥っていた人々を救済しようと活動した僧侶が幾人も登場しました。その中に「一向俊聖(いっこうしゅんしょう)」という僧侶がいました。この人物は、謎が多く、長い間、その存在自体を疑われ続けましたが、近年の考古学の研究成果により、実在したと証明されたようです。

 

ただ、一向の生涯や思想などを知るためには、伝記資料を中心に頼るしかないのが現状のようですが、その中で浮かび上がってくる人物像がとても興味深いので、ご紹介します。是非ご一読ください。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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一向と一遍は同一人物と見られていた?

book-saiyuki(西遊記-書類)

 

まず、「一向俊聖」は、遊行上人で有名な「一遍智真」とよく間違われてきたということです。それもそのはず、一遍と一向は生まれた年が同年であり、亡くなった年もほぼ変わらないのです。

 

一遍智真(1239年〜1289年)

一向俊聖(1239年〜1287年〈あるいは1285年〉)

 

しかも、一向は、一遍と同様に、「踊り念仏」と諸国行脚するという「遊行」をしていた人物だったと伝わっているのです。そのため、混同されても致し方ないと言えるかもしれません。

 

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一向の出生は?武家の出身で伯父は神主であり僧侶だった!

 

しかし、一向の出生を見てみると、一遍との明らかな違いが分かってきます。まず、出生地は、筑後国(現在の福岡県南部)の竹野荘西好田という地で、「草野家」という武家の出身だったとのことです。

 

※一遍の場合は、伊予国(現在の愛媛県)の武家・河野水軍の出身でした。

 

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

一向の父は「草野永泰」という人物で、その兄(つまり、一向の伯父)の「永平」は、源平合戦において「源頼朝」の源氏方に組みして、鎌倉幕府成立に貢献したようです。その後、御家人となり、神社の「宮司(ぐうじ)」の職も勤めたということです。さらに、「浄土宗」開祖の「法然」の弟子「弁長(聖光)」に帰依し、「善導寺(福岡県久留米市)」という寺院を建立するのにも貢献したようです。

 

一向は、その伯父・永平の影響なのか、1245年(寛元3年)に出家したと言われています。ただ、初めは天台宗の僧侶を目指して、播磨国(現在の兵庫県南西部)の「書写山」に登り、修行したのですが、そこでの修行には納得がいかなかったようです。1254年に山を降りて、「南都」(古都の奈良)へ向かったというのです。しかし、そこでも一向の納得のいく修行ができず、師にも巡り会えなかったようです。奈良の南都の仏教宗派は、「聖道門」と言って、様々な厳しい修行を通して自力で悟りを得るという教えが一般的で、それが求められたのです。

 

書写山における天台宗の修行でも同様で、一向にとっては違和感があったようです。その「聖道門」の教えに対するのが、「浄土門」という考え方です。浄土門では、自力で悟りを得るのは難しいので、他力により、極楽浄土へ達する考え方です。つまりは、「他力本願」であり、信じる者は救われるという考え方として知られています。それは、大乗仏教の宗派の「浄土宗」に繋がります。多くの大乗仏教の宗派では、この考え方が一般的のようです。

 

一向の伯父の永平は、「浄土宗(浄土門)」の僧侶でしたので、浄土門の方が、一向の肌に合っていたのかもしれません。そこで、伯父が師事した「弁長(聖光)」の弟子の「良忠」を訪ねて、鎌倉へと向かったとのことです。鎌倉で良忠の教えを受けて修行したのですが、浄土門の教えのみでは納得いかないところがあったようです。つまり、浄土門の教えでは、念仏を唱えることのみに集中すれば良いとのことですが、一向は、それだけではなく、各地を周り伝導活動すべきと考えたようなのです。

 

つまり、諸国行脚を意味する「遊行」をするべきと考えたということです。さらに、そこに「踊り念仏」の要素を加えます。と、ここまで書くと、一遍の活動とほとんど変わらないのでは?との感想を持ってしまいますね。では、一遍とどう違うのでしょうか?次の章では、一向の遊行活動の経路を見ていきたいと思います。

 

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元寇

 

 

一向の遊行活動

鎌倉仏像

 

鎌倉での修行後、浄土宗(浄土門)と決別し、一向が遊行活動を始めたのは、1273年(文永10年)だったということです。一遍が遊行を始めたのは、1274年と言われていますので、一向は一遍よりも1年早く遊行を始めたことになるようです。

 

蒙古襲来絵詞

 

そして、その1274年に、大陸より蒙古軍が襲来し、日本国内は大混乱に陥るのです。「文永の役」の勃発です。一向の遊行の旅の最初の目的地は九州だったようです。これは偶然とは言えないでしょう。蒙古襲来が関係している可能性は強いのです。

 

攻め寄せる蒙古兵(モンゴル軍)

 

しかも、一向の出身地は、筑後国(現在の福岡県)ですから、蒙古襲来による激戦地の博多から近い距離にありました。一向の故郷が、蒙古軍により攻め滅ぼされるかもしれないという恐怖心は確実に強かったでしょう。

 

伝記資料によると、一向は、1回目の蒙古襲来(文永の役)の脅威が去った翌年、1275年(建治元年)に九州の薩摩国(現在の鹿児島県)の「大隅八幡宮(現在では、鹿児島神宮)」に参詣したと伝わっています。次に豊後国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮(現在の宇佐神宮)」に参詣し、そこで、四十八夜も連続で、踊り念仏を行ったと伝わっています。

 

ちなみに、この宇佐八幡宮は、全国の八幡神社の総本社でした。祀られている八幡神は、古来、武神として武家の人々から強く崇敬されていました。特に、蒙古襲来の国難のときには、蒙古軍に立ち向かっていった鎌倉武士たちの精神的支柱だったと考えられます。その八幡宮の境内で、一向は、四十八夜連続で踊り念仏を行った訳です。蒙古襲来による庶民たちの不安を取り除くため、さらには蒙古軍の脅威を退けたい、その一念で、念仏と踊りを続けたように思われるのです。

 

さて、一向は、九州遊行の後、四国や中国地方の諸国を周ったようです。その途中、一番弟子の「礼智阿」を始め、帰依し、仲間に加わった人々がたくさんいたようなのです。その後は、日本海側を周り、1283年(弘安6年)には京の都へ入り、仏教(仏道)の教えを広め歩いたと言われています。

 

蒙古兵を弓矢で追い払う鎌倉武士

 

このときは、2回目の蒙古襲来である「弘安の役(1281年)」を乗り切った後ということになりますね。ただ、日本国内では、未だに、さらなる蒙古襲来の不安があったに違いありません。その不安に陥る人々を救う活動を、一向も一遍同様に行っていたと考えられます。そして、一向の遊行の足跡は、京の都から北陸の加賀国(現在の石川県南部)の金沢へと至ります。1284年(弘安7年)春頃とのことです。そこで、踊り念仏を行ったようですが、旧来の仏教宗派の僧侶たちからは、かなりの反発を受けたということです。

 

それで、金沢での遊行は諦めたのか、その年の夏頃には、「江州【近江】(現在の滋賀県)」まで戻り、坂田郡の馬場(番場)米山という地にある辻堂に入りました。「蓮華寺(現在の滋賀県米原市)」という寺院です。そのお堂は雷により焼失していたのですが、再建するために、一向は大いに貢献したと伝わっています。

 

一向は、それから遊行の旅に出ることはなかったようです。それから数年内の1287年(弘安10年)【近年では1285年の説が浮上】にその生涯を終えます。伝記では、立ったまま念仏を唱えながら、息絶えたということです。

 

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源頼朝

 

 

おわりに・一向と一遍の思想の違い

 

最後に、一向俊聖と一遍智真の考え方の違いについて、簡単に説明します。まず、一向については、一番弟子の「礼智阿」が記した『礼智阿消息』によると、「念仏一行」を頼りにしていたとのことです。

 

「無量寿仏(阿弥陀仏)」のみを信じ、『無量寿経』という大乗仏教の経典の中の念仏の部分を、

「一向に(ただひたすらに)」唱えるべきだと主張したようです。

 

比べて、一遍智真は、念仏の中の「南無阿弥陀仏」の六文字のみを唱えればよいという簡単な行を勧めたようです。また、一遍は念仏札を配るという「賦算」をしましたが、一向は、それを行わなかったとのことです。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

日本史ライターコーノの独り言

コーノ 日本史ライター

 

踊り念仏の仕方にも違いがあり、一向は、念仏を唱えるとき、かなりのスピードで唱えていたようです。生き急ぐようなところがあった印象を見受けられます。そのためか、一向は一遍より、数年早く、その生涯を閉じることになったのです。

 

 

(※今回は、簡単に、一向と一遍の、それぞれの思想の違いについてご紹介しました。しかし、遊行経路についての違いについても深く考察すると、興味深いことが分かってくるのです。またの機会に御紹介できればと思います。)

 

【主要参考文献】

・『日本の歴史 8 蒙古襲来』黒田俊雄 著(中央公論新社)

・『一遍仏教と時宗教団』長澤昌幸 著(法蔵館)

・『踊念仏』大橋俊雄 著(筑摩書房)

など

 

 

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一遍上人

 

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コーノ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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