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源頼朝はなぜ流罪に?死罪にならなかった理由とは?

08/07/2022


鎌倉を拠点にした源頼朝

 

源頼朝(みなもとのよりとも)」は鎌倉幕府(かまくらばくふ)を築いた人物ですが、実は幼いころに「流罪」になっており、その流された伊豆の地で一生を終える可能性もありました。

 

源頼朝活躍の陰に北条義時あり

 

しかし、のちに北条(ほうじょう)一族の支援を得て武士の棟梁になることができたのです。そもそも、なぜ源頼朝は流罪になったのでしょうか。また、なぜ死罪にならなかったのでしょうか?

 

今回の記事では「源頼朝がなぜ流罪になったのか?」考えてみようと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源氏の名門に生まれた頼朝

源義朝 鎌倉殿の13人

 

源頼朝は「源義朝(みなもとのよしとも)」の3男です。義朝は天皇の地をひく「河内源氏(かわちげんじ)」の棟梁として尊敬を集める人物でした。頼朝は3男ですが、母親の身分が低い兄たちより昇進が早かったことから、嫡男として育てられていたと考えられます。

 

源義朝とは?

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頼朝の運命を変えた「平治の乱」

太政大臣に任命される平清盛

 

朝廷で順調に位を得た頼朝でしたが、そこで運命を変える出来事があります。それが「平治(へいじ)の乱」でした。これは藤原氏(ふじわらし)ら朝廷での争いで、武士たちはどちらかの派閥に属して戦いました。

 

朝廷すら意のままに操る平清盛

 

その中心になっていたのが「平氏(へいし)」と「源氏(げんじ)」で、争いの中で「平清盛(たいらのきよもり)」率いる平氏が「官軍」、頼朝の父、義朝率いる源氏は「賊軍」となってしまいました。追われる身となった源氏軍は壊滅し、義朝らは追われる身となってしまいます。

 

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元寇

 

父、兄弟が次々に死す

源義朝と一緒に戦うも敗北する源行家

 

源氏らは京都から逃亡し、東国で再起を図るべく東海道を下ります。しかし、厳しい追手や、落ち武者狩りの餌食にあい、次々と同志や兄たちは捕まっていきます。

 

頼朝も近江(おうみ)の国(現在の滋賀県)で捕らえられ、京に送られてしまいます。頼朝は当時13歳でした。義朝は馬も失ったため徒歩で逃亡し、家人であった「長田(おさだ)父子」の家に保護を求めました。

 

しかし、義朝を捕えれば平氏から大きな恩賞を貰えることは確実でした。長田父子は恩賞目当てで義朝が入浴しているときに襲撃し、命を奪ってしまいます。

 

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はじめての鎌倉時代

 

頼朝、清盛の前に引き出される

京都御所

 

頼朝は平清盛のいる「六波羅(ろくはら)」に送られ、そこで裁きを受けることになります。頼朝は源氏の嫡男ですから、将来の禍根(かこん)を絶つために、平氏の未来のためには死罪にする必要がありました。当時の人たちも「頼朝の死罪は当然」と考えていたのでしょう。

 

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源頼朝

 

 

助命嘆願

 

頼朝を捕えたのは「平宗清(たいらのむねきよ)」という人物でした。彼は清盛の異母兄にあたります。他の異母兄弟に「平家盛(たいらのいえもり)」というものがいたのですが、彼は若くして亡くなっていました。宗清は頼朝と幼き頃の家盛が似ていることに気が付いたのです。

 

そして平清盛の継母(ままはは)「池禅尼(いけぜんに)」にその事を伝え、頼朝の助命を願いました。

 

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源義経

 

 

頼朝、流罪となる

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

池禅尼は清盛の息子「重盛」を通じて、清盛に頼朝と会わせてくれるように頼みました。自分の亡くなった息子と頼朝が似ているとなれば、命を助けたいと思うのも当然かもしれません。

 

池禅尼は何度も嘆願をしますが、受け入れられず、彼女は抗議のために断食を行います。これには清盛も参ってしまい、ついに頼朝の死罪を取りやめ、伊豆の国に流刑にすることに決定したのです。

 

初代・征夷大将軍、源頼朝

 

命を助けられた頼朝は後に挙兵し、最終的には平氏を滅ぼすことになります。

 

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頼朝の流罪のわけには異説もあり

平家物語 書類

 

清盛の母が、亡くなった我が子に似ているから頼朝の助命嘆願をしたということですが、これには異説があります。頼朝が過去に仕えていた「上西門院(じょうさいもんいん)後白河法皇(ごしらかわほうほう)の姉)」の働きかけがあった説や、頼朝の母方の親族で、大きな力を持っていた「熱田神宮(あつたじんぐう)」の「大宮司(だいぐうじ )」一族からの圧力もあったという説もあります。

 

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恩を忘れなかった頼朝

 

頼朝は池禅尼に命を助けられたのですが、結果的には平氏を滅ぼしました。しかし、池禅尼の恩は忘れなかったようです。彼女には「平頼盛(たいらのよりもり)」という息子がいたのですが、頼朝は彼を優遇し、平氏を滅ぼす前に鎌倉側に受け入れたのです。

 

平家の水軍(壇ノ浦の戦い) 平清盛

 

そのため、「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で平氏が滅亡した後にも頼盛は生き残り、平氏から没収した領地を返還されたりもしています。頼盛の子孫は「池氏(いけし)」に改姓し、鎌倉幕府に御家人として仕えています。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

源頼朝が流罪になったのは池禅尼の助命嘆願のおかげでした。平氏はすっかり公家のようになっていましたから、もしその時頼朝が死罪になっていたら武士の時代は来なかったのかもしれませんね。

 

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北条政子

 

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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