「源頼朝」は鎌倉幕府を築いた人物ですが、実は幼いころに「流罪」になっており、その流された伊豆の地で一生を終える可能性もありました。
しかし、のちに北条一族の支援を得て武士の棟梁になることができたのです。そもそも、なぜ源頼朝は流罪になったのでしょうか。また、なぜ死罪にならなかったのでしょうか?
今回の記事では「源頼朝がなぜ流罪になったのか?」考えてみようと思います。
この記事の目次
源氏の名門に生まれた頼朝
源頼朝は「源義朝」の3男です。義朝は天皇の地をひく「河内源氏」の棟梁として尊敬を集める人物でした。頼朝は3男ですが、母親の身分が低い兄たちより昇進が早かったことから、嫡男として育てられていたと考えられます。
源義朝とは?
-
源義朝とはどんな人?頼朝に鎌倉と坂東武者を残した陰の功労者【鎌倉殿の13人】
続きを見る
頼朝の運命を変えた「平治の乱」
朝廷で順調に位を得た頼朝でしたが、そこで運命を変える出来事があります。それが「平治の乱」でした。これは藤原氏ら朝廷での争いで、武士たちはどちらかの派閥に属して戦いました。
その中心になっていたのが「平氏」と「源氏」で、争いの中で「平清盛」率いる平氏が「官軍」、頼朝の父、義朝率いる源氏は「賊軍」となってしまいました。追われる身となった源氏軍は壊滅し、義朝らは追われる身となってしまいます。
こちらもCHECK
-
源頼朝はどうして平治の乱後に処刑されなかったの?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
父、兄弟が次々に死す
源氏らは京都から逃亡し、東国で再起を図るべく東海道を下ります。しかし、厳しい追手や、落ち武者狩りの餌食にあい、次々と同志や兄たちは捕まっていきます。
頼朝も近江の国(現在の滋賀県)で捕らえられ、京に送られてしまいます。頼朝は当時13歳でした。義朝は馬も失ったため徒歩で逃亡し、家人であった「長田父子」の家に保護を求めました。
しかし、義朝を捕えれば平氏から大きな恩賞を貰えることは確実でした。長田父子は恩賞目当てで義朝が入浴しているときに襲撃し、命を奪ってしまいます。
こちらもCHECK
-
源行家とはどんな人?関わる人に不幸をもたらす頼朝・義経の叔父の生涯【鎌倉殿の13人】
続きを見る
頼朝、清盛の前に引き出される
頼朝は平清盛のいる「六波羅」に送られ、そこで裁きを受けることになります。頼朝は源氏の嫡男ですから、将来の禍根を絶つために、平氏の未来のためには死罪にする必要がありました。当時の人たちも「頼朝の死罪は当然」と考えていたのでしょう。
こちらもCHECK
-
平清盛の死因は?本当に文覚に呪い殺されたの?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
助命嘆願
頼朝を捕えたのは「平宗清」という人物でした。彼は清盛の異母兄にあたります。他の異母兄弟に「平家盛」というものがいたのですが、彼は若くして亡くなっていました。宗清は頼朝と幼き頃の家盛が似ていることに気が付いたのです。
そして平清盛の継母(ままはは)「池禅尼」にその事を伝え、頼朝の助命を願いました。
こちらもCHECK
-
平清盛とはどんな人?八方美人はなんで独裁者に変貌した?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
頼朝、流罪となる
池禅尼は清盛の息子「重盛」を通じて、清盛に頼朝と会わせてくれるように頼みました。自分の亡くなった息子と頼朝が似ているとなれば、命を助けたいと思うのも当然かもしれません。
池禅尼は何度も嘆願をしますが、受け入れられず、彼女は抗議のために断食を行います。これには清盛も参ってしまい、ついに頼朝の死罪を取りやめ、伊豆の国に流刑にすることに決定したのです。
命を助けられた頼朝は後に挙兵し、最終的には平氏を滅ぼすことになります。
こちらもCHECK
-
島流しって何?南の島に流されたら楽しそうだけど、どうしてみんな嫌がるの?
続きを見る
頼朝の流罪のわけには異説もあり
清盛の母が、亡くなった我が子に似ているから頼朝の助命嘆願をしたということですが、これには異説があります。頼朝が過去に仕えていた「上西門院(後白河法皇の姉)」の働きかけがあった説や、頼朝の母方の親族で、大きな力を持っていた「熱田神宮」の「大宮司」一族からの圧力もあったという説もあります。
こちらもCHECK
-
吾妻鏡とは?鎌倉幕府の公式歴史書はあとづけで書かれたものだった!【鎌倉殿の13人】
続きを見る
恩を忘れなかった頼朝
頼朝は池禅尼に命を助けられたのですが、結果的には平氏を滅ぼしました。しかし、池禅尼の恩は忘れなかったようです。彼女には「平頼盛」という息子がいたのですが、頼朝は彼を優遇し、平氏を滅ぼす前に鎌倉側に受け入れたのです。
そのため、「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡した後にも頼盛は生き残り、平氏から没収した領地を返還されたりもしています。頼盛の子孫は「池氏」に改姓し、鎌倉幕府に御家人として仕えています。
こちらもCHECK
-
壇ノ浦の戦いの源氏の勝因は?ホントは範頼の活躍が大きかった?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
日本史ライターみうらの独り言
源頼朝が流罪になったのは池禅尼の助命嘆願のおかげでした。平氏はすっかり公家のようになっていましたから、もしその時頼朝が死罪になっていたら武士の時代は来なかったのかもしれませんね。
こちらもCHECK
-
壇ノ浦の戦いの勝因は?潮の流れが変わったから源氏が勝ったのではない?
続きを見る