日本史の明治の部分で駆け足で習うのが、岩倉遣欧使節団ではないかと思います。
岩倉遣欧使節団は国家予算の1%を費やし、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文のような明治政府の首脳が1年9カ月も日本を留守にして欧州視察をしたものですが、政治的空白と莫大な予算を費やした成果はあったのでしょうか?
岩倉使節団の大義名分は?
明治時代でも、国民の税金が使用される事業には周囲を納得させられる大義名分が必要です。
岩倉遣欧使節団は、政府首脳を含む留学生、随員を含め107人が参加し国家予算の1%が費やされました。2021年の日本の政府歳出は106.6兆円なので現在に直すと1兆6000億円を投下した計算になり、その巨額ぶりが分かります。
それも、これから西洋技術を導入し富国強兵に突き進もうという弱小国家が大金をはたくわけですから、しっかりした大義名分がないと暴動ものの無駄遣いです。
もちろん明治政府も国民の反発を考慮して、3つの大義名分を立てていました。
一、不平等条約を結んでいる各国を歴訪して政府が変わりましたと連絡する事
二、江戸幕府と結ばれた不平等条約改正のための予備交渉
三、西洋文明を調査して日本の発展に活かす
この3点が岩倉遣欧使節団の表向きの大義名分でした。それでも税金の無駄遣いだと避難する声は国民からも政府内部からもありましたが、政府首脳は、えいや!と押し切り出発の準備を整えてしまいます。
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明治4年11月12日横浜出航
明治4年11月12日、岩倉遣欧使節団はアメリカ太平洋郵船会社の蒸気船アメリカ号で横浜港を出発。太平洋を横断してカリフォルニア州サンフランシスコに向かいます。そして、アメリカ大陸を大陸横断鉄道で移動しワシントンDCに訪問して8ヵ月滞在。
その後、キュナード社の蒸気船オリムパス号で大西洋を渡り、明治5年8月17日にイギリスのリバプールに到着しました。
以後、ロンドンからブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かい、グラスゴー、エディンバラを訪問。イングランドに戻って、ニューカッスル、ボルトン、アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れてロンドンに戻り、同年12月5日にはウインザー城でヴィクトリア女王に謁見。世界随一の工業先進国の実情をつぶさに視察し、明治6年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主宰の鑑定晩餐会に参加します。
岩倉遣欧使節団は、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスの12カ国の欧州諸国を巡り、帰途では開通したばかりのスエズ運河を通過して紅海を経て、アジア各国のヨーロッパの植民地、セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海を視察し当初の視察予定を大幅に超過し、1年10カ月を経て明治6年9月13日に帰国しました。
政府首脳がここまで長い期間、日本を留守にした事は岩倉使節以前も以後もなく、日本史上、空前の大視察旅行になっています。
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当初の目標を果たせない岩倉使節団
では、岩倉遣欧使節団は、3つの目的を全て果たせたのでしょうか?
答えは残念ながらノー!岩倉使節は一の諸外国への政府交代のあいさつと三の西洋文明を調査して日本の発展に活かす事には成功しましたが、二の江戸幕府と結ばれた不平等条約改正の予備交渉には、全く成果が出せませんでした。
では、岩倉遣欧使節はどうして、不平等条約改正の予備交渉に失敗したのか?
身も蓋もない話ですが、当時の日本が特に軍事力で西洋列強の足元にも及ばない程に弱いので、ろくろく交渉も出来ずに門前払いされたのです。特に、岩倉使節団が軍事力の必要を痛感したのは、ドイツに3週間滞在した時に、鉄血宰相と呼ばれたビスマルクの主宰する官邸晩餐会に招待された時でした。
ビスマルクは正直な人で、誠意をもって取り組めば不平等条約を改正できると考えている使節団に、「ヨーロッパ諸国は自国に利益があれば条約を守るが、利益がないと思えば武力に訴える。我がプロイセンも弱小国だったが富国強兵を達成して、こうして独立を勝ち取る事が出来た。日本も条約改正より富国強兵に全力を投入するがよい」
このようにズバリと真理を突いて日本人の認識の甘さを指摘しました。使節団に随行していた大久保利通は、ビスマルクに強く感銘を受け大先生と呼び、ビスマルクを真似てヒゲを蓄えるようになった程です。
この後、帰国した大久保は征韓論争で盟友の西郷隆盛を追い落とし、士族反乱を武力で鎮圧して明治政府の頂点に立ち、ビスマルク流の富国強兵を強力に推進。結局、日本が不平等条約の1つ、治外法権の撤廃に漕ぎつけたのは日清戦争で当時の大国清を破った後、明治30年で岩倉使節団の帰国から24年の歳月が流れていました。
外交ウンヌンより富国強兵に邁進せよというビスマルクの指摘は全く正しかったのです。
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西洋文明の吸収では成果を挙げた
不平等条約の改正では、完全にガキの使い扱いで追い返された岩倉使節団ですが、三の西洋文明を調査して日本の発展に活かすという点では目覚ましい成果を挙げます。
特に岩倉遣欧使節の留学生として参加した人の中には、
フランス、パリへ留学しルソーの社会契約論を翻訳。自由民権運動の理論的指導者になった中江兆民。アメリカに留学しハーバード大学で法学を学び、大日本帝国憲法の起草にも参画した金子堅太郎。
アメリカ、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営者になり三井財閥の総裁になった団琢磨。使節団最年少の8歳で渡米し帰国後に津田塾大学を創設して日本の女子教育を拡充推進した津田梅子。
アメリカヴァッサー大学を卒業し帰国後は赤十字篤志看護婦会など社会福祉活動に尽力した山川捨松。二等書記官として使節団に参加し、日英同盟締結時の駐英公使を務めた林董三郎。
このように、メインの不平等条約改正では失敗だった岩倉遣欧使節団ですが、明治から昭和にかけての日本を牽引する多くの人材を育てる事に成功していて、長い目で見れば、1兆6000億円の元は取ったと言えるかも知れません。
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岩倉遣欧使節の舞台裏
広く世界を視察し、有為の人材を育てる事には成功した岩倉遣欧使節団ですが、その派遣の裏には薩摩閥と長州閥の政治方針を巡る対立や大蔵省の主導権を巡る対立があったとも考えられています。
特に、薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允の政治方針を巡る対立が深刻で放置しておくと維新政府が分裂しかねないので中核にいる2人を国外に出す事によって対立を緩和し問題を先送りするという思惑もありました。
ただし、それだけが理由ではないようで、最近の研究では木戸孝允が海外使節を派遣する意義について、「国内にばかり集中している国民の目線を海外に向けさせ日本の大きな課題が不平等条約改正にあるという事を認識させるためである」と語っていた事が分っています。
その証拠に岩倉遣欧使節団は、随行員の久米邦武に命じて遣欧使節の全スケジュールについて、詳細な記録を残し「米欧回覧実記」という全百巻の報告書を明治11年に発行していて、国民の目線を意識して行動していた事実が分かります。
ここから見ても、岩倉遣欧使節が決して遊び半分や薩長閥の厄介払いの為だけに企画されたものではない事は間違いないでしょう。
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日本史ライターkawausoのまとめ
今回は岩倉遣欧使節団について、分かりやすくまとめてみました。
条約改正に失敗し税金の無駄使いと批判された海外視察ですが、一面では多くの優秀な人材を育て、日本の近代化に多大な影響を与えたとは言えるでしょう。
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