明治維新後、日本の政治は討幕に功績があった薩摩、長州、土佐、肥前の四藩の人材と薩長に協力して維新に貢献した一部の公家によって独占されました。
これを藩閥政治と言い日本の政治よりも派閥の利害を優先したやり方が非藩閥の政治家から批判され、藩閥を越えた政党政治が叫ばれる事になるのですが、藩閥政治はいつ頃始まりそしていつ頃終結したのでしょうか?
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王政復古の頃はそこまで藩閥ではない
維新を主導したのが、薩長土肥である事から、最初から政府は藩閥政府だったのかと思っていましたが、初期はそうでもないようです。例えば、徳川慶喜と会津藩を排除した王政復古の大号令の後に発表された三職制では、以下のような面々が重職に就いていました。
総裁 | 有栖川宮熾仁親王 |
議定 | 仁和寺宮嘉彰親王 |
山階宮晃親王 | |
中山忠能 | |
正親町三条実愛 | |
中御門経之 | |
島津茂久(薩摩藩) | |
徳川慶勝(尾張藩) | |
浅野茂勲(芸州藩) | |
松平春嶽(越前藩) | |
山内容堂(土佐藩) | |
参与 | 岩倉具視 |
大原重徳 | |
万里小路博房 | |
長谷信篤 | |
橋本実梁 | |
丹羽賢(尾張藩) | |
田中不二麿(尾張藩) | |
荒川甚作(尾張藩) | |
中根雪江(越前藩) | |
酒井十之丞(越前藩) | |
毛受洪(越前藩) | |
辻将曹(芸州藩) | |
桜井与四郎(芸州藩) | |
久保田平司(芸州藩) | |
後藤象二郎(土佐藩) | |
神山左多衛(土佐藩) | |
福岡孝弟(土佐藩) | |
西郷隆盛(薩摩藩) | |
大久保利通(薩摩藩) | |
岩下方平(薩摩藩) |
三職制の頃は、鳥羽伏見の戦い以前であり、薩長も自分達が官軍である事を示す必要から、皇族や公家が多く配置され、その下にクーデターに賛同した、薩摩、尾張、土佐、芸州、越前の五藩の人材が並んでいます。
この段階では、薩長の独占という状態は出現していません。長州藩の面々の名前がありませんが、これは長州藩主の赦免が、王政復古の大号令が発せられた慶応3年12月9日の前日だったので間に合わなかったのです。
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太政官制になり薩長土肥揃う
三職制はクーデターに向けた暫定的な政体だったので、慶応4年閏4月21日になると政体書が公布され太政官を中心に三権分立制をとる太政官制が発足。翌年、明治2年7月になると、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制に改変され、人事も大幅に刷新されました。
輔相 | 三条実美 |
議定 | 岩倉具視 |
徳大寺実則 | |
鍋島直正 | |
参与 | 東久世通禧 |
木戸孝允 | |
大久保利通 | |
後藤象二郎 | |
副島種臣 | |
板垣退助 |
太政官制の時代になると徳川慶喜を完全に破った事で錦の御旗としての皇族が不要になって除外され、公家が4名に大名は鍋島直正1人だけ、参与は薩摩、長州、土佐、肥前と薩長土肥が揃うようになりました。
ここに西郷隆盛がいないのは、戊辰戦争終結後に自分の役目は終わったとして鹿児島に戻って隠居したからです。
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明治六年政変時の太政官制
版籍奉還後に廃藩置県が断行され、江戸260年継続した藩が消滅し、明治政府を頂点とする中央集権制が確立すると太政官制のポストは、さらに薩長土肥の人材が多く配置されるようになります。
太政大臣 | 三条実美 | |
右大臣 | 岩倉具視 | |
参議 | 西郷隆盛 | 陸軍大将 |
江藤新平 | 司法卿 | |
木戸孝允 | ||
大久保利通 | 大蔵卿 | |
大隈重信 | ||
大木喬任 | 文部卿 | |
後藤象二郎 | 左院議長 | |
副島種臣 | 外務卿 | |
板垣退助 |
この時代になると公家は太政大臣の三条実美と右大臣の岩倉具視のみで、それ以外の9人の参議は全て薩長土肥から選出された士族階級になります。
出身藩の内訳を見ると、薩摩が2名、長州が1名、肥前が4名、土佐が2名と意外にも肥前が最多の人材を輩出していますが、この辺りで藩閥は固まったと言えるでしょう。
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薩長閥の誕生
明治六年の政変では、西郷、板垣、江藤、後藤、副島の5人が征韓論が覆った事を不服として辞表を書き下野しました。9人から5人の参議が辞めた事で大久保は、外務卿の寺島宗則と工部卿の伊藤博文、そして海軍卿の勝海舟を参議とし、大木喬任は文部卿と司法卿を兼任します。その後、大久保は警察権力を配下に収めた内務省を創設して内務卿となり、長州閥の山縣有朋を参議に就任させます。
政府に残留していた木戸孝允は台湾出兵に反対して政府を去り、伊藤博文は親分格の木戸ではなく大久保利通に接近していき、大久保は山縣、伊藤を子分として参議の最大多数を薩長が牛耳る体制が確立しました。
大久保は西南戦争で西郷を葬った翌年、紀尾井坂の変で暗殺されますが大久保死後は、子分格だった黒田清隆と大久保の懐刀の伊藤博文が薩長閥を引き継ぎます。
明治14年には、肥前出身で独自の勢力を築いていた大隈重信が政争に敗れて下野した事により、政府はほとんど薩長の藩閥が牛耳る事になりました。
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自由民権運動が打倒派閥を叫ぶ
明治7年に民選議院設立建白書を出した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣等は、藩閥と官僚が牛耳る有司専制を廃して、政治は国民による投票により選ばれた代議士によっておこなわれるべきと主張。これは自由民権運動となり、藩閥打倒を叫ぶ国民運動へと発展していきました。
西南戦争後は武力による政府打倒が不可能だと広く知られた結果、言論による戦いである自由民権運動が盛んになり、明治14年に下野した大隈重信も政党を組織。板垣退助と共に強力な藩閥批判を繰り広げていきます。
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予算先議権を政党に握られ藩閥政府が崩壊
明治23年に国会が開設され選挙で選ばれた代議士が誕生します。しかし、当時の総理大臣の黒田清隆は政党の存在を認めるが、政党の意向に政府は左右されないと憲法発布の式典で訓示。
超然主義を宣言して、政党と対決する姿勢を明確に示しました。ところが、日清戦争前後から藩閥政府の超然主義の運営は苦しさを増します。
衆議院に予算の先議権が認められていたので民権派の政党が議席を伸ばした事で、政府提出の予算案が拒絶され、政権運営が不可能になってきていたのです。
このジレンマに対し、伊藤博文派官僚は政党とも妥協して政治の運営を図ろうとします。しかし、同じ長州閥の山県有朋派官僚は反対し超然主義の態度を取り続けます。
藩閥の親玉の対応が割れた事は、結局は藩閥の弱体化を意味するものでした。かくして藩閥政治は国民の支持を完全に失い、選挙の度に民権派が議席を伸ばすようになると予算を単独で通せなくなった超然主義は行き詰まります。
1898年、第三次伊藤内閣は財源不足を補う地租微増案を出しますが、自由党、進歩党の反対で否決。政権運営に行き詰まった伊藤は衆議院に解散を命じますが、この流れで自由党と進歩党は憲政党を組織。
次の選挙で勝機を見いだせない伊藤内閣は総辞職し、後継首班に憲政党の幹部である大隈重信と板垣退助とを推薦します。こうして、日本憲政史上初の政党内閣である隈板内閣が発足、僅か4カ月で崩壊するものの藩閥支配の終わりを象徴する出来事になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、藩閥について解説してみました。最初から、薩摩と長州が政府を牛耳っているのかと思えば、そこまでには紆余曲折が存在していたんですね。
明治政府が樹立された頃は、有効に機能した藩閥も議会政治が始まると自分達の利益を優先する既得権益集団の側面が強くなり、国民の激しい反発を受ける存在になり政党が勢力を伸ばすと予算案の可決権を握られ妥協するしかなくなり、やがて元勲たちの死去により大正末には消滅しました。
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