栗本鋤雲は幕末の医師、外交官、行政官、そして明治以後はジャーナリストになった多彩な経歴を持つ人物です。NHK大河ドラマ青天を衝けにも登場し小栗忠順の盟友として幕府存続の為に奔走していました。
今回の「ほのぼの日本史」では、これまでの大河ドラマでは、あまり取り上げられることがなかった栗本鋤雲。どういう人物なのかを解説してみましょう。
この記事の目次
幕府の典医の三男として誕生
栗本鋤雲は幕府の典医を務めていた喜多村槐園の三男として誕生します。鋤雲とは晩年の名前で幕末には鯤と名乗り、初名は哲三、後に瑞見と名乗り通称は瀬兵衛と言いました。
生母は三木正啓の娘で長谷川平蔵宣以の姪にあたります。鋤雲は、安積艮斎の私塾見山楼を経て天保14年(1843年)幕府の学問所である昌平坂学問所に入学し優秀な成績を治め褒賞までされました。
嘉永元年(1848年)奥医師の家系である栗本氏の家督を継いで奥詰医師となります。しかし、今でもそうですが医師の世界は極めて閉鎖的で年功序列が当たり前の退屈な場所でした。
将来を嘱望された鋤雲ですが、退屈な奥詰医師で一生を終わるつもりはなく医学館で講書を勤めながら、こっそり習得を禁止されていた蘭学にも触れ、広い世界を夢見て、幕府の練習艦である観光丸の試乗員に応募し西洋式軍艦に足を踏み入れます。
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蘭学を学んだ事がバレ蝦夷地へ左遷
ところが、観光丸に搭乗した事が御典医の岡櫟仙院の知る所となり問題視されます。
「上様の医師ともあろうものが蘭学などとは怪しからん、ましてや異人の船に乗り込むなど言語道断」と櫟仙院は大激怒したのです。
こうして鋤雲は奥医師の仕事をクビになり、1年間謹慎させられた上に、安政五年(1858年)江戸から蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任する事になります。
これも岡櫟仙院の讒言のようで35歳を過ぎていた鋤雲には痛手でした。鋤雲の妻は左遷だと嘆き、鋤雲の気持も沈みます。強気の鋤雲も、この時ばかりは「もしかして、二度と江戸に戻れず北の果てで死んでいくのかな」と悲壮感に駆られたかも知れません。
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蝦夷地開発に手腕を発揮
しかし、渡ってみると蝦夷地は江戸とは違う別天地でした。江戸のちまちました身分のしがらみがなく、能力主義でドンドンやりたい事がやれる蝦夷地は才能豊かな鋤雲にとっては天国のような場所だったのです。
蝦夷地の気候は本州と違い、珍しい薬草も多く鋤雲が江戸に送った薬草が将軍の使用する薬草に選ばれました。調査した結果、七重村が気候も地質も申し分ないとの事で鋤雲はここに七重村薬園を開いて運営を開始します。
鋤雲は蝦夷に少ない松や杉の苗木を植え、五稜郭周辺の道路や湯の川街道や七重街道にも植樹して景観を整えていきました。
さらに、箱館の山の上町遊郭の梅毒駆除のための箱館医学所建設。久根別川を浚って箱館までの船運開通させ、食用牛の飼育事業、八王子千人同心を移住させて養蚕に従事させるなど6年に渡り地域の発展に尽力しました。
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左遷から一転、外国奉行に栄転
その功績が幕府にも認められ、鋤雲は41歳にして医籍から士籍に格上げされて箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられます。この逸話から鋤雲が身体頑強で非常に意志が強い人であった事が窺えます。
文久3年(1863年)探検から戻ると即座に幕府より江戸に戻るように命令が出て、七百石取りで昌平坂学問所の頭取に任命されます。蝦夷地への左遷が鋤雲の人生にスポットライトを当てたのです。
さらに鋤雲は目付に登用、次に横浜詰となり盟友である小栗忠順の右腕として横須賀製鉄所御用掛を経て外国奉行に昇進。ここでは下関賠償金談判にも参加しました。
その後、勘定奉行、函館奉行を兼任し慶応2年(1866年)正月14日に従五位下・安芸守に叙任されて諸大夫となり勘定奉行小栗忠順と親交を結びます。小栗忠順とは安積艮斎の私塾見山楼時代からの同窓で盟友と言ってよい関係でした。
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小栗忠順とロッシュを繋ぐ
鋤雲はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務めるメルメ・カションと箱館時代に面識があり、その経緯からロッシュとも親しくなります。そこで幕府はフランスとの橋渡しを鋤雲に期待し外国奉行に命じ、幕府による製鉄所建設や軍事顧問団の招聘に尽力しました。
慶喜の異母弟である徳川昭武が慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に訪問していた時、鋤雲は昭武の補佐を命じられて渡仏。
しかし、渡仏中の鋤雲は薩摩藩がパリ万国博覧会に薩摩琉球国として参加している事態に遭遇。また通訳であったカションが徳川昭武家庭教師の仕事をキャンセルされた事で怒り、フランスの新聞に「幕府は日本の主権者ではない」と投稿。
それを真に受けたフランス政府が幕府との間で結ぼうとしていた借款を中止するなど幾多のトラブルに見舞われつつ、欧州各国の君主や元首と徳川昭武を会見させる事になります。
そして、トラブルの総仕上げが外国奉行、川勝広道からもたらされた大政奉還と江戸幕府の滅亡でした。
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明治政府には仕えずジャーナリストに
慶応4年3月になるとフランスの新聞にも鳥羽伏見の戦いの報が掲載され、随行していた鋤雲等十数名は帰国。徳川昭武をはじめとする7名はそのまま残留しました。
しかし、鋤雲が横浜港に上陸した慶応4年5月17日はすでに江戸は無血開城されて新政府の手に落ち、上野寛永寺に立て籠もった彰義隊も壊滅しています。戊辰戦争の混乱の中、盟友だった小栗忠順も同年閏4月4日には東北へと攻め上る東山道軍により捕らえられ、取り調べもないままに処刑されました。
鋤雲の才能は新政府からも評価されていたので出仕の誘いがありましたが、幕臣として重用された鋤雲は幕府に忠誠を誓い新政府に仕えませんでした。その後、鋤雲は仮名垣魯文の推薦で明治5年(1872年)に横浜新聞社に入り、以降はジャーナリストとして活躍、1897年(明治30年)に気管支炎のため76歳で死去します。
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勝海舟を怒鳴りつける
鋤雲は在野のジャーナリストとして、郵便報知新聞社に主筆として入社し東京日日新聞の福地桜痴、朝野新聞の成島柳北など、同じく幕臣の言論人と識見・文才を競い、また犬養毅や尾崎行雄などを入社させて養成しました。
作家の島崎藤村も晩年の門人の1人であるようで、小説夜明け前では栗本鋤雲を喜多村瑞見の名前で登場させています。
鋤雲は、同じ幕臣でも盟友の小栗忠順と対立し恭順派として江戸無血開城を成し遂げ、盟友小栗忠順が殺される切っ掛けとなったとして勝海舟を憎んでおり、ある旧幕臣の会合で海舟が顔を出すと「下がれ」と怒鳴りつけ、場の空気が凍りついたと言われています。
幕府が一番大変な時に日本に居なかった鋤雲に当事者としてギリギリの交渉をしていた海舟が怒鳴られるのも気の毒ですが、鋤雲としては戦う事も出来なかった無念さを海舟や榎本武揚にぶつける以外に仕方がなかったんでしょうね。
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日本史ライターkawausoの独り言
栗本鋤雲には登山家の一面もあり、渡仏中に日本人では初めてアルプスに足を踏み入れています。また痔主でもあったようで、わざわざ渡仏中にカションに紹介された医者に外科手術を受けています。
日本で痔の手術をしなかった理由は当時の日本の医療技術では手術が出来ず、かつ、医師として見た場合、フランスの外科手術が優れていると確信した上での行動だったようです。このように鋤雲はなかなか面白い人物でした。
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