三島彌太郎は薩摩藩に生まれた日本の銀行家です。
父は警視総監も務めた政治家三島通庸で、弟には日本人として初めてストックホルム五輪に参加したアスリート三島弥彦がいます。また、最初の妻は陸軍大将大山巌の娘、信子という華麗な経歴を誇る人物です。
今回は徳富蘆花の悲恋小説「不如帰」の登場人物のモデルにもなった三島彌太郎について解説します。
この記事の目次
三島彌太郎は鹿児島城下高麗町上の園に生まれる
三島彌太郎は、慶応3年4月1日(1867年5月4日)薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町上の園に誕生します。各地の県令を歴任した父の仕事の都合で、7歳で東京神田の小川町学校に入学、その後すぐに同人社分校に通い、13歳でまた転校して山県師範学校へ15歳で同校を卒業すると、17歳で駒場農学校へ入学し18歳で成績主席により官費生として渡米します。
西フィラデルフィア中学を経て、マサチューセッツ農科大学に入学して農政学を学び卒業後にコーネル大学大学院で害虫学を学んで修士の学位を受けますが、ここで神経痛を発症して退学しました。父親の仕事で転校が多いにも関わらず、彌太郎が成績優秀な人物であった事が分かります。
安全保障の目的から鉄道国有化を推進
三島彌太郎は、アメリカから帰国した後、1897年(明治30年)の第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選。桂太郎内閣の後押しで院内最大会派研究会の代表者を務め桂太郎が主導する鉄道国有化を実現させます。明治時代の日本政府は西南戦争の戦費で財源が枯渇し、日本全国にくまなく鉄道を通す予算がなく路線を私鉄に切り売りしていました。
それにより民間の鉄道会社が30以上も設立され、鉄道の整備は急速に進んだのですが、日露戦争に臨んでは当時の輸送の大動脈である鉄道を多く民間企業が握っているのは、国防の観点から懸念が表明されてもいました。
また、私鉄の株主には外国人もいたので敵国の株主が私鉄にいた場合、軍の線路利用を拒否するなど妨害工作に利用される恐れもあったようです。三島彌太郎は、桂太郎の意を受けて多数派工作で国鉄反対派を切り崩し、15の私鉄を買収し鉄道国有化を実現させました。
また、鉄道の国有化は、当時の国家予算5.4億円の20倍以上113億円という多額の外債を低利外債に借り換える担保資産として利用されました。
日銀総裁として対外債務の圧縮に取り組む
大正2年、横浜正金銀行頭取を経て、三島彌太郎は第8代の日銀総裁になります。当時の日本は日露戦争の後遺症に悩んでいました。戦争には勝利したものの辛勝であり賠償金は一円も取れず、国家財政を圧迫する外債の償還に加えて輸入の増加による国際収支の赤字に苦しんだのです。しかも、軽工業ばかりで国際競争力が弱い、当時の日本の工業力では、急に輸入を増やして国際収支の黒字を産むのは難しい状態でした。
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大戦景気で一転して金融引き締めに
ところが、ここで日本の状況を一変させる大事件が起こります。第一次世界大戦です。
世界経済の中心、欧州で起きた大戦により欧州の輸出は途絶し日本は工業製品を世界中に輸出する機会が生まれたのです。戦争は勃発国と周辺を不幸にしますが、遠く離れた日本とアメリカの経済を飛躍的に伸ばしました。
当初、日本では軽工業の輸出が盛んでしたが、欧州からの重化学工業品の輸出が途絶えた事で重化学工業品の生産が促進し産業構造が変化しました。軽工業国だった日本は戦争景気を追い風に重化学産業国に転換したのです。それに従い、対外債務はみるみる解消し、11億円の赤字を抱えた日本は、1920年(大正9年)には28億円の対外債権国になります。
大戦景気の引き締めに尽力中病死
しかし、好景気は激しいインフレを呼び起こすリスクが出てきたので、三島彌太郎は金融の引き締めに入ります。政府に対して国庫剰余金や特別公債資金による日本銀行保有外貨の買い入れを働きかけてこれを実現した他、高い金利を謳い放漫経営をしていた銀行に対し、金利高騰を防ぐべく、日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力しました。しかし、第一次世界大戦の激務の中で彌太郎は体調を崩し、大正9年3月7日、51歳で病死しました。
実は結核になった妻を一方的に離婚した傲慢な人物
絵に描いたようなエリートの生涯を送った三島彌太郎は、徳富蘆花の小説、不如帰の登場人物である海軍軍人、川島武夫のモデルです。
不如帰は若くして結核に冒された主人公、浪子がいじわるな姑により強引に夫の川島武夫と離婚させられ実家に戻されますが、実家でも薄情な継母に冷たくされ、実父が建てた離れで、最愛の夫の事を思いながら、女の身に生まれた事を恨み千年も万年も生きたいと悲痛な言葉を残して死んでいく悲恋物語です。
しかし、小説では姑により理不尽に仲を割かれたとされている浪子ですが、モデルになった大山巌の娘、大山信子が結核に罹患した時に、これを一方的に離婚したのは三島彌太郎と姑でした。
逆に、実家に帰された信子を継母の大山捨松は冷淡に対処するどころか、自ら献身的に看護していました。ところが不如帰を真実と信じ込んだ読者から、捨松を冷たい継母と誹謗中傷する手紙が届き、晩年まで悩んでいたそうです。
作者の徳富蘆花は、姑と継母を悪者にしないと不如帰は成立しないと言い、捨松の最晩年にようやく謝罪したそうですが、逆に良く書かれた三島彌太郎には、何の抗議もなかったのですから、人生は理不尽ですね。
日本史ライターkawausoの独り言
三島彌太郎を悪く書く形になってしまいましたが、当時の結核は不治の病で、伝染する事から世間には根強い偏見があり、妻が結核になったから離婚したという事例は、別に三島彌太郎だけではありませんでした。不如帰は当時の社会で弱い立場に置かれた女性と、その女性に結核という病が加わった悲劇を描いた名作だったのです。
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