幕末

郷中教育とは?明治維新の原動力となった答えを見つける教育

西郷隆盛と大久保利通

 

明治維新(めいじいしん)において、維新(いしん)三傑(さんけつ)と呼ばれた3名の中で、西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)は薩摩藩の出身である事が知られています。この2名以外にも薩摩藩は明治維新から日露戦争に掛けて多くの人材を輩出して日本の近代化に大きな貢献をしました。

 

それは偶然ではなく、薩摩藩において長く続いた郷中教育が下地にあると言われています。多くの有為の人材を育てた郷中教育とは、どんなものだったのでしょう?

 

島津忠良が始めた「咄」が郷中教育のルーツ

 

郷中という言葉が使われるようになり、郷中教育が完成を見るのは江戸中期の安永(あんえい)年間(1772~1781年)です。しかし、薩摩の若き子弟を教育するという考えは今から500年近く前の島津氏中興の祖、島津日新斎(しまづじっしんさい)(忠良)に始まります。

 

文武両道の名将だった日新斎は、神道、仏教、儒教を良く学び、自ら薩摩学、日学を提唱して薩摩独特の士風と文化を築き、日新公いろは歌を作って、子供にも忠孝仁義を分かりやすく説いています。そんな日新公は武士の子弟の教育にも熱心で、毎月5,6度、部下の子弟を城中に召集して、四書の講義をし義理の(はなし)、忠義人の(はなし)などを話して聞かせました。歴史上の英雄豪傑や、情に厚い慈愛の人について子弟に教えて、立派な人になりなさいと諭していたのです。

 

新納忠元が二才咄を組織

名古屋城

 

日新公の咄は、公の逝去(せいきょ)で中断してしまいますが、その後、秀吉の朝鮮出兵が起き薩摩からも1万余騎の精鋭が朝鮮に渡り10年近くも戦いが続きます。これにより、年長の教育者を失った薩摩では残留した青少年の風紀が乱れてきました。

 

留守居役を任されていた新納忠元は、その事に責任を感じ、日新公の咄を復活させる事を決意したのです。新納忠元は、青少年の間に集団を結成してそのメンバーが何事でも話し合える組織をつくり、これを二才咄(にせばなし)と名付けました。さらに、日常守るべき数条の規約を定めて二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)と名付けて実践させます。

 

薩摩の青年は二才咄に従い、それぞれ集団を組織して研鑽(けんさん)に励みましたが厳しい統制はなく二才咄への出入りは比較的に自由で日常生活におけるメンバーの行動はそれぞれの自立した意志に任されていました。

 

 

しかし、戦国時代が終わり元禄時代頃になると、太平の風潮は薩摩にまで及び、再び風紀は乱れてきます。そこで、二才咄メンバーの生活と行動は厳しい規律で制約され、第4代藩主の島津吉貴(しまづよしたか)は、宝永4年(1707年)に「御袖判条々(おそでばんじょうじょう)」という布達を出し二才のグループが交友で遠方に出かける事を禁じました。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

郷中の完成

Changan(長安)

 

こうして、青少年が遠方に行けなくなった結果、薩摩藩の各地には方限(ほうぎり)と呼ばれる区割りを単位とする自治組織が生まれました。方限では数十戸が1郷中となり、幕末頃までには30余りの郷中が存在したと言われています。

 

郷中では、青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分けていました。稚児はさらに6歳から10歳の小稚児(こちご)と11歳から15歳頃までの稚児に分けられ、それぞれ稚児頭(ちごがしら)というリーダーを置きます。さらに、二才にも二才頭というリーダーがいて、二才と稚児の面倒を見る仕組みです。こうして郷中の内部には大人を置かず、子供達や青年が、それぞれで協力して知恵を出し合い自己を鍛錬していくのが郷中の特徴です。

 

稚児の日常

 

稚児と呼ばれる武士の子弟は毎日早朝に郷中内の先生の家に走って通い、本読みを習い、家に帰ると朝食までそれぞれ本読みの復習をして過ごします。面白いのは、どの先生に就くかは、稚児の自主性に任されていた事で自分が学びたいと思う人から学ぶ事が可能でした。

 

朝食後は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内に集い、馬追いや降参(こうさん)言わせ、相撲、旗取りや登坂競争(とうはんきょうそう)で心身を鍛え、さらに、午後は共に誘い合って先輩や先生の家に集まり読み書きの復習をし、その後稽古場に行き夕方まで剣や槍、弓、馬術など武芸の訓練をしました。

 

少し成長した長稚児は、夕方から二才が集まっている家に行き、郷中の掟を復唱したり、自分達の生活を振り返り反省したりします。その振り返りで、武士として恥ずかしい振る舞いがあれば二才達から注意を受け、時には厳しい罰を与えられたりしたようです。

 

薩摩の稚児たちは、一日のほとんどを同じ年頃や、少し年上の人たちと過ごし、心身を鍛え、(しつけ)や武芸を身につけ勉学に勤しむと同時に、年長者は年少者の模範として、これを指導し年長者を尊敬する事や、負けるな、嘘をつくな、弱い者をイジメるなと人生の根本を教えていたのです。

 

二才の日常

Tears-saigo-takamori(涙する西郷隆盛)

 

一方、二才同士は、互いに戒めあいつつ、常日頃から自己を修練すると同時に、二才頭を中心にして互いに議論して郷中に起きる問題の一切を処理しました。

 

二才達の手にどうしても余る時には、長老を尋ねて適宜指導(てきぎしどう)を仰ぎますが、基本は自治であり教師を置かず、年齢の異なる青少年で行われる自治的な教育だったのです。特に二才頭は、全員の意見をまとめ、問題を具体的に処理する能力と責任感が求められ、やがて城に出仕するようになっても、二才頭を務めた青少年は力量があるとされ重んじられました。

 

nariakira-simazu(島津斉彬)

 

西郷隆盛は、腕の怪我で剣を振れませんでしたが、厚い人望と行動力で二才頭を務め、名二才頭として評判の少年でした。その縁もあり島津斉彬に登用されたのです。また、二才同士の付き合いは成人しても続くものであり、同じ郷中の者同士が連帯して事に当たっていくので、高い団結力も育まれていきました。

 

日本の南端で国史を学んだ薩摩藩士

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

また郷中教育では多量の書物を読みましたが、その中には国史、つまり日本の歴史についての書物もありました。現在の義務教育では、日本史の授業は小学生からありますが、江戸時代は藩の時代であり、日本全体の歴史を勉強する藩は少なかったのです。

 

その為、日本の南端にありながら薩摩藩士は、早くから日本全体という視野から社会を見る経験が身につきました。幕末の風雲で薩摩藩が最も激しく攘夷をやりながら、イギリスに敗北すると、すぐさま国の独立を目指して西洋文明を取り入れる方向に舵を切れたのは、薩摩藩という小さな枠組みではなく、日本全体を視野に入れていたからでしょう。

 

答えを当てるのではなく見つける教育

 

郷中教育には先生がいません。従って、これが答えという決まったモノはありませんでした。薩摩の二才達は、それぞれが問題解決について自分の意見を出し相手の意見に反論しながら、少しずつ問題解決の方法を磨いて「答え」を見つけていったのです。

 

それは、時によっては先生が用意した答えよりも、さらに素晴らしいものかも知れません。これは、最初から先生がいて用意された答えを解く、現代の教育と違い、答えは一定ではなくケースbyケースで変化しうるという柔軟で大胆な発想を薩摩藩士に与えました。

 

不確実性の時代と呼ばれる現在は、絶えず答えは移り変わっていきます。教師が用意した答えを当てるのではなく、自分達で答えを見つける郷中教育は、もしかして、21世紀の現在にこそ学ぶべき点が多いかも知れません。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

日本における近代教育は、一日も早く近代国家を担う人材を育てようと、1人の教師に40名余りの生徒を受け持たせる詰込み型になっていました。これは、短期間に多くの近代人を産み出すのには最適でしたが、個人の自主性や創造性を伸ばす事では、江戸時代の寺子屋よりも不十分であり、没個性のマニュアル人間を産み出す事に繋がっています。

 

21世紀になり、旧来の詰め込み教育に大きな弊害が出てきている現在、維新の原動力になった薩摩藩の自主性を強く重んじる郷中教育には、学ぶべき点が多いのではないでしょうか?

 

参考文献:VUCA時代のリーダー育成を薩摩藩の郷中教育に学ぶ

参考文献:幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話 Exciteニュース

 

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