この二人、意外なところで、似ている点があります。浅井長政と武田信玄のことです。世代も違えば、出自も違い、置かれていた状況もまた違うはずの、この二人。
まして浅井長政といえば、織田信長の妹を妻に迎え、信長に実弟に等しいほど可愛がられながら、突然その信長を裏切り、滅ぼされた人物。その裏切りが現代でもいまだに「動機がイマイチ不明」な印象もあり、武田信玄と比較すると、どちらかといえば長政は「しくじり大名」と見られがちです。
そんな二人のどこに類似点があるのかと言いますと、そのココロは、
「どちらも父親がクーデターで追放され、期待の後継者として担ぎ上げられた」です。いろいろ違いすぎるこの二人を比較しても仕方がないとは思いつつ、あえて浅井長政を武田信玄と比べてみました。
この記事の目次
前半生の展開が実は似ている信玄と長政!
武田信玄が、父の信虎が追放されたことにより、若くして家督を相続したことは有名ですが、実は浅井長政も、父の浅井久政がクーデターで追放されたことで、家督を若くして相続した人物です。
年齢的にも、それぞれ十代後半から二十歳くらいの頃にこのようなかつがれ方をしたということで、二人の人生は(途中まで)似ています。
このようにして家臣たちの期待を集めて家督を継いだ長政は、織田信長と姻戚関係を結ぶという、後世から見ればこの上なく正しい判断を行います。この同盟をもって、織田信長は安全に京都に上洛をすることができ、浅井長政は信長の後ろ盾で、長年の宿敵である六角氏を撃退することに成功しました。
双方にとってよいことだらけの判断でした。
織田信長もよほどこの同盟を重要視しており、浅井長政を実弟のように可愛がっていたといいますから、このまま信長についていけば、織田政権の中でのナンバーツーやナンバースリーくらいの大物に出世する可能性すらあったかもしれません。
それが朝倉家と唐突に手を組んで信長に反旗を翻し、それでどうなるかと思えば、信長の怒りの猛攻を受けて敗退を重ね、浅井家の滅亡にまで追いやられたのですから。後世から見れば、「途中まで完璧な戦略だったのに、なぜとつぜん信長を裏切った?」と戸惑いを隠せません。
ここが信玄との分かれ道?一度追放したはずの父親がなぜか偉そうにしていた浅井家の事情
実はこの長政の裏切りについては、ある背景が囁かれています。
このときの浅井家では、
「このまま信長に忠義を貫くべし」
という派閥と、
「信長は信用できないので、朝倉と手を組んで今のうちに信長を潰すべし」
という派閥に意見が割れていました。
そして「アンチ信長派」にかつがれ、これを強烈に推進していたのが、長政の父親の久政だったようです。そうです、クーデターで追放されたはずの浅井久政です。このあたりの事情は史料が乏しく謎が多いのですが、なぜか浅井久政はその後領国に返り咲いていたようです。
のみならず「ご隠居」という身分ながら、浅井家の城下で影響力を持ちながら暮らしており、息子の方針に口を出したり、家臣たちに意見を吹き込んだり、自由に振る舞っていたようです。
そんな父親に対して当主の浅井長政はどういう立場だったのかも不明なのですが、どうも、こうして意見が割れた家中を統制できず、やがては久政の主張する「アンチ信長」路線に引きずられるように動き出してしまったようです。
他人様の家の事情なのでうかがい知れないことも多いのですが、印象論でいうと、やはり浅井長政は武田信玄と比べ、どうも処断に切れ味がない印象にはなります。
信玄は、父の信虎を追放した後、その信虎が帰国することなど絶対に許しませんでしたし、その後、自分の嫡男である武田義信が謀反の動きを見せた際には、実の息子であっても死に追いやる冷酷さを見せています。少なくとも戦国時代という時代においては、信玄型の冷酷果断なリーダーのほうが強いのでしょうか。
切れ味の悪さがどうも目立つ浅井長政の最期
その後の浅井長政、何度か信長軍をピンチに追い込むチャンスがありながら、ここぞという時に攻撃に踏み切らず、みすみす信長に逃げられたり、朝倉家との同盟を切り崩されたり、いいようにやられてしまいます。
もはや長政本人にどれだけ本気で信長と対決するつもりがあったのか自体、かなり疑問が残ります。
このような受け身の戦い方で、追いつめられた浅井長政は、妻と娘たちの助命だけを引き換えに、最期は自害して果てたのでした。少なくとも武田信玄の生涯には、部下や後世からみて「意図がそもそもわからない」行動はありませんでした。比較するとなおさら、浅井長政の判断の鈍さは目立ってしまいます。
まとめ:そんな浅井長政が武田信玄に勝っていたかもしれない点
ただし、ひとつだけ、長政が信玄に勝っていたかもしれない点があります。これは有名な話となりますが、浅井長政と妻のお市の方は、殺伐とした戦国時代の中で随一と言われるほどの仲良し夫婦だったと伝えられています。また、長政とお市の方の娘たちが、有名な茶々、初、江の美人三姉妹として育つことになります。
戦国史ライター YASHIROの独り言
自身は悲運の死を遂げつつも、最後の最後に妻と娘たちの助命には成功した長政。
「家族だけは守りぬく優しい父親」としては、戦国一のレベルだったのかもしれません。
「父親も仕事だけでなく家庭をかえりみるべき」という現代社会では、今後、浅井長政のこの一面が好意的に受け止められ、人気が上がってくるかもしれません。最強の軍神と、よき家庭人とは、そもそも両立しないということなのかもしれませんね。
武田信玄「な、なんじゃと! それじゃ、わしがよき家庭人ではなかった、とでもいうのか!」
という怒りの声がどこかから聞こえてきましたが、この評価については、読者の皆様にお任せします。
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