戦国時代でも屈指の名勝負と言われる川中島の戦い。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が5回にわたり激突し決着がつかない激闘でした。この戦いで両者は勢力をすり減らし東海の織田信長の台頭を許したとも言われますが、武田信玄はどうしてそうまでして上杉謙信と激突したのでしょうか?
最近の学説では、それは信玄が日本海を手に入れる為だったらしいのです。
この記事の目次
信玄が上杉謙信と戦った動機は日本海?ズバリ!
では、最初に信玄が上杉謙信と戦った動機は日本海についてザックリ説明します。
1 | 甲斐は海がなく農地も少なく河川氾濫も多く貧しかった |
2 | 信玄は治水工事や軍勢の維持の為に領民から重税を絞っていた |
3 | 領民の不満を解消すべく信玄は海を持つ越後の上杉謙信を標的にした |
4 | 謙信は信玄に追い出された村上義清を保護、非道の信玄を討つ政治宣伝に利用 |
5 | 川中島では五次の合戦が起きるが決着はつかず |
6 | 今川義元が桶狭間で織田信長に討たれ信玄は駿河に侵攻して海を入手。 |
7 | 上杉謙信と敵対する理由が消えた信玄は和睦を模索する |
以上がザックリした信玄が謙信と戦った理由になります。以下では、さらに詳しい内容について解説していきましょう。
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従来の学説
従来の学説では武田信玄が上杉謙信と衝突した理由は、以下のようなものです。
甲斐の周辺国は東海の今川、関東の北条が君臨していて信玄が容易に手を出せなかった。しかし、信濃は一枚岩ではなく信玄の食指は自然に信濃に向かう事になり、諏訪(すわ)、木曾(きそ)、仁科(にしな)、小笠原(おがさわら)などの中南信(ちゅうなんしん)を征服。次に信玄は東北信(とうほくしん)に進軍するが、坂城を根拠地とする村上義清に二度も撃退されるなど苦戦した。
そこで信玄は以前より内応していた真田幸綱を使って村上義清勢力の切り崩しを図り成功。義清は越後に逃れて上杉謙信を頼った。義の武将謙信は武田信玄の行動を非道と詰って徹底抗戦の構えを取り、ここに川中島の戦いが幕を開ける。
ところが最近の学説では武田信玄の狙いは最初から直江津の港を持つ越後の上杉謙信であり、謙信は義の為というより、正当防衛で武田信玄と戦ったのだそうです。
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貧しい信玄、裕福な謙信
武田信玄を川中島の戦いに駆り立てたもの、それは甲斐国の貧しさでした。山国の甲斐は耕作に適していない土地も多く、河川の氾濫も頻繁に起きていたので、土木工事のような公共事業も不可欠ですし、隣国に攻められない為に軍事力も維持する必要がありました。
そのため甲斐では領民に重税を課しており、搾取された領民や国人は常に提供した労働力の見返りを信玄に要求していたのです。一方で、ライバルの上杉謙信は直江津や柏崎のような港からの交易収入や領内の金山、それに麻織物などの特産品があり、武田家に比べて相対的に裕福です。
上杉謙信はこれらの富を使い、二度も上洛し多額の金品を将軍や公家、天皇に寄進して関東管領の職まで手に入れていました。
貧しい信玄は、何とか上杉謙信を打倒して直江津、柏崎の良港を手に入れて南蛮交易のルート開拓などをして領民や国人衆に富を分配する必要があったのです。
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義の為というより正当防衛で信玄と戦う謙信
しかし狙われる謙信としては、はいそーですかで港を明け渡すわけにはいきません。村上義清を庇護し、さらに上杉の家臣に組み込んだのは、1つには非道な武田信玄に神罰を下す大義名分が欲しかったからと考えられます。
さすがに「信玄が俺の越後を狙っているので撃退する、皆、協力してくれ!」では、「お前の領地なんだからお前が守れ」と言われ、周辺勢力の理解を得るには弱いですからね。こちらの大義名分が後世ではクローズアップされ、領地を奪われた村上義清を守り非道な信玄と戦う上杉謙信のイメージに昇華したのだと考えられます。
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海への執着が信玄を狂わせる
川中島の戦いは永禄7年(1564年)の第五次合戦まで継続し終結しました。その大きな理由は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれてしまい、東海の今川氏の勢力が減退した事が影響しています。
織田信長は今川義元を討った後に尾張を統一して、さらに美濃を併合し、武田氏と境界線を接するようになりました。そこで、信玄は織田氏と縁組して安全保障を得ようとしますが、これが織田家にやられた今川氏から見ると信玄の裏切りに見えたのです。
しかし、弱体化する今川氏に信玄は遠慮しなくなり、今川から正室を迎えた武田義信を殺害。今川に正室を帰して同盟を破棄すると永禄11年(1568年)12月に駿河に侵攻して今川氏真を追い出してしまいました。
この駿河には海があり、ようやく念願の海を手に入れた信玄は、周辺の海賊を懐柔して武田水軍を設立したり、港湾の整備を急ピッチで進めていきます。
こうして、甲相駿三国同盟は崩壊し、北条氏は上杉氏と結んで武田を圧迫していき、信玄は織田や徳川と結んで、それらに対抗していく事になりました。
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上杉謙信との融和を模索する武田信玄
念願の海を手に入れた信玄は、もう上杉謙信と戦う必要がなくなります。甲陽軍鑑によると信玄は臨終の際勝頼に上杉謙信を後見に頼れと遺言を残しました。
川中島で散々に戦いながらなんと虫の良い遺言と考えてしまいますが、信玄は謙信について個人的な憎しみは無く、ただ海が欲しかったのだとすれば納得がいきます。
「もう海は手に入ったので、君と喧嘩する必要は消えたよ。これからは仲良くやろう、川中島では意地悪してごめーんね by信玄」
事実、武田氏は勝頼の代になると、織田信長を仲介して上杉謙信との和睦を望み、長篠合戦の後、謙信は勝頼と和睦しているのです。海が手に入り、武田氏は上杉氏と喧嘩する必要が消えていたのでした。
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日本史ライターkawausoの一言
貧乏で港を欲しがった信玄と、天然の良港を2つも保有していた金持ち謙信。信玄は港が欲しい一心で、手強い北条・今川を避けて北陸へと日本海へと軍を進めていき、川中島の激闘が開始されました。
しかし、強敵だった今川義元が桶狭間で横死すると方針転換し、三国同盟を破棄してまで、太平洋に面する駿河の港を手中に収めます。こうして、信玄は日本海側への関心を急速に失い謙信とも和睦しようとしたのです。
なんと虫が良いと言えば、それまでですが、信玄は貧しさから抜け出す為に、なりふり構わず海が欲しかったのでしょうね。
参考文献:経済・戦争・宗教から見る 教養の日本史 西東社
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