鎌倉時代に登場した「一遍上人」の生家でもあったのが、伊予水軍の河野一族でした。古代から戦国時代にかけて瀬戸内海の水軍として活躍した一族でした。
南北朝時代から室町時代には、伊予国(現・愛媛県)の守護を歴任し、戦国時代には大名の立場でもあったようです。
しかし、戦国時代末期に断絶し、大名としての河野一族は滅亡してしまうのです。今回は、その滅亡の経緯をお話したいと思います。
秀吉の四国攻め
まず、滅亡への道の切っ掛けは、「羽柴(豊臣)秀吉」による「四国攻め」でした(1585年(天正13年)6月〜8月)。
当時の秀吉は、「大坂城」を築き、京都の朝廷との結びつきを強め、天下に号令をかける権力を持ちつつありましたが、秀吉に従わない大名・豪族たちが、四国も含めて日本各地に数多くいました。そんな中で、四国攻めが開始されたのです。
秀吉が四国を制圧するため、弟の「羽柴秀長」を総大将にして大軍を差し向けました。
当時、四国では、土佐国(現・高知県)の「長宗我部元親」が、最大勢力の大名として幅を利かせていたようなのですが、四国全土を完全に統一していた訳ではなかったという説が近年目立ってきている印象です。この時点では、伊予国において、河野一族が名目上ですが、守護の立場を守っていたようです。(ただ、実質的な領地は、「中予」と呼ばれる地域、現在の松山市・今治市近郊に限定されていたようです。)
さて、羽柴秀長を総大将とする四国攻めの軍勢は、総勢10万を超える兵力で、3方面から進軍していきました。阿波国(現・徳島県)、讃岐国(現・香川県)、伊予国です。伊予には、安芸国(現・広島県)の毛利一族を中心とした軍勢、特に、「小早川隆景(毛利元就の三男)」の指揮下の軍勢が主力で、3万前後の兵が、進軍していったのです。
今治浦付近から上陸し、河野一族の本拠地の湯築城(現在の松山の道後温泉の側にある)に迫ったと言われています。
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「関白秀吉」の誕生
そして、この四国攻めの最中、1585年(天正13年)7月、秀吉は、「関白」に就任するのです。関白といえば、朝廷において、天皇に次ぐ権力を持っていると言える役職でした。このときから、京都の朝廷の帝に成り代わった、関白に従わない、朝敵になった四国を攻めるという形になったと言えるでしょうか。
これにより、四国勢の各大名や家臣たちは、降伏せねばならない流れになったと思われます。【また、秀吉が、当時の帝の「正親町天皇」から豊臣姓を賜り、豊臣秀吉となるのは、その翌年1586 年(天正14年)です。】
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毛利一族との強い縁と毛利の野望?
ここで、注目すべきこととして、河野一族と毛利一族との関係は、元々良好で婚姻関係により、強い結びつきがあったということです。例えば、河野水軍の最期の当主・通直の母は、「天遊永寿」と呼ばれる人物ですが、「毛利元就」の孫にあたります。また、通直の妻の「矢野局」は、「毛利輝元」の姉「津和野局」の娘でした。(毛利輝元は、通直にとっては義理の叔父にあたるわけです。)
そのため、「四国攻め」では、親戚同士の争いにもなっていました。毛利側と河野側の双方に、戦を避けたいという気持ちが強くあったかもしれません。
結果、伊予国内にて幾度か戦闘はあり、本拠地の湯築城内では、家臣たちの間で、籠城か開城かの話し合いで揉めたそうですが、当主の通直は、小早川隆景の説得により、約1ヶ月の籠城の末、城を明け渡しました。1585年(天正13年)8月末のことでした。その後、小早川隆景が湯築城に入城してきたのです。
ただ、この時点では、元当主として、通直は健在で、城を明け渡したとはいえ、通直は、城の近くの「道後」地域に滞在していたようです。お家再興を通直も家臣たちも、希望していたようです。さらには、小早川隆景もそれを承知していたようです。ただ、それは小早川家の主家である毛利一族の思惑もあったとも言われています。毛利の勢力を四国の伊予国まで伸ばしたいという意図もあって、親戚の河野一族が伊予国当主として復活するのは問題ないと考えたかもしれません。
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おわりに
ところが、僅か2年後、秀吉の命で、小早川隆景は国替えとなり、九州平定に向かわされることになったのです。
代わりに、秀吉の家臣で従兄弟でもあった「福島正則」が入城してきます。このあたりは、秀吉による策略を勘ぐってしまうところです。毛利一族と河野一族を引き離し、毛利一族を強大化させないという意図があったという説が有力視されています。これにより、大名としての河野家の再興の道は絶たれたと言えます。
(了)
【主要参考】
・戦国期の権力と婚姻(西尾和美 著)清文堂
・愛媛県生涯学習センター『えひめの記憶』
・歴史人Webサイト記事より『伊予に覇を唱えた河野氏の本城として君臨した湯築城【愛媛県松山市】』
など