織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を表す狂歌として、ホトトギスが登場するものがあります。その中で織田信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」に当てはめられており、その短気とされた性格が強調されています。
でも、それって本当なのでしょうか?
信長は本当に短気なんでしょうか。
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実際の織田信長は粘り強い性格
人間五十年の謡曲敦盛が好きだった信長は、48年の生涯を本能寺で閉じました。しかし、その生涯を見てみると、大きな声で怒鳴るような事はあるものの、事に当たっては非常に辛抱強い一面が見えてきます。
「嘘だぁ!ブチ切れて比叡山延暦寺を焼き討ちしたじゃないか」
そんな風に思う人もいるでしょうが、信長はブチ切れて比叡山を焼いたのではありません。比叡山焼き討ちの前年、信長は朝倉義景と志賀の陣を戦っていますが、この時に義景は比叡山に立て籠もり、比叡山も義景をバックアップしています。
信長はこの時、比叡山に対していきなり恫喝するのではなく
「織田方につくならば織田領の荘園を回復する、それもできないならせめて中立を保て、もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と記した朱印状を出しています。
ところが比叡山は、信長の丁重な申し入れを黙殺し朝倉義景を庇い続けました。これは、信長に中指を立てているも同然であり、コケにされた信長は朱印状の文言通りに比叡山を焼き討ちしたのです。感情的にカッとなってはいません。
ただ、信長は自分をコケにした比叡山の再興について許す気持ちはなかったようで、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したものの、信長が握りつぶしたと日吉大社の記録にはあるようです。
少年時代から粘り強い織田信長
そもそも、信長はうつけと呼ばれた少年時代から一面では真面目で辛抱強い部分がありました。信長公記には以下の通りに書かれています。
信長は、16、17、18歳の頃までは、特にこれといった遊びにふけることなく、馬術を朝夕に稽古し、また3月から9月までは川で水練をした。泳ぎは達者であった。その頃、竹槍の訓練試合を見て、「いずれにせよ、槍は短くては具合が悪いようだ」と言って柄の長さを5mから、6.4mに揃えさせた。
このように、信長は馬術と水泳の稽古に長年根気強く取り組んでいましたし、竹刀訓練もつぶさに見物して、槍は長いほうがいいと改良するなど創意工夫も取り入れています。
また、派手な衣装を着るようになった後も、市川大介を召し寄せて弓の稽古、橋本一巴を師匠にして鉄砲の稽古、平田三位を師匠に兵法、さらに鷹狩りを定期的に行い心身を鍛え、ただ、うつけとして遊び歩いてはいませんでした。
今風に言うと、鎖をジャらつかせた服でハーレーに跨り高速を飛ばした後、帰宅して、シャワーを浴び、紺のスーツに着替えてポルシェに乗り換え重役会議に向かう感じです。こういうキチンとした基礎がある人だから、延暦寺に対してもいきなりブチ切れたりしないわけです。泣かぬなら殺してしまえホトトギスとはひどい偏見です。
そもそもホトトギスの狂歌の正体は?
でも、そもそも、鳴かぬなら殺してしまえホトトギスって、一体誰が詠んだ句なんでしょうか?そもそも、5・7・7の狂歌は、室町や戦国時代ではなく江戸時代に盛んになったので、このホトトギスが戦国時代に詠まれたものではない事は分かります。だとすれば、誰が、鳴かぬなら殺してしまえホトトギスを信長に当てはめたかが分かると、この狂歌の意図も分かってくるのかも知れません。
ホトトギスの狂歌の元ネタは甲子夜話にある
実は、このホトトギスの狂歌の逸話が記されたのは、江戸後期の平戸藩9代藩主松浦静山が著わした甲子夜話という随筆の中でした。それは、どんな話だったのか?肝心の甲子夜話には以下のようにあります。
夜話の時、ある人が言った。これはたとえ話に過ぎない事ではあるが上手く人の性格を現わしていると思う。
ホトトギスを贈物にした人がいた、しかし鳴かなかったので三英傑は、
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
鳴かぬなら鳴くまで待よ郭公 大権現様
以下略
このように松浦静山の所に、人が訪ねてきて戦国の三英傑の性格について上手い事言った詠み人知らずの狂歌があったので紹介したいと言い、それぞれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仮託して詠んだ狂歌を書いたというそれだけの話です。
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ホトトギスは天保の改革の風刺?
しかし、それだけの事であれば、訪ねてきた人の姓名を伏せる必要はない筈です。おそらく、松浦静山は訪ねて来た人が幕府の大物で名前を出すと政治批判をしたと揚げ足を取られる事を警戒し、敢えて名前を伏せたかも知れません。そうして考えると、ホトトギスを殺すという意味をリストラと考えると天保の改革の頃の水野忠邦の政治に対する批判とも取れるかも知れません。
実は織田信長は、晩年になると働きが悪いとか、過去の失敗を理由に佐久間信盛や安藤守就、林秀貞のような重臣を容赦なくリストラしています。
それと同様に天保の改革の時の老中、水野忠邦も、大御所徳川家斉の下で腐敗を謳歌した汚職役人、水野忠篤、林忠英、美濃部茂育、田口喜行、中野清茂等に、所領や屋敷の没収、減俸、左遷などの厳しい処分を課しそれ以外にも旗本で68人、御家人で894人がリストラされたそうです。
この水野忠邦を織田信長に例えたとすると、松浦静山と幕府重臣は、鳴かないホトトギスも使いようだよ、殺すばかりが能じゃないよと暗に水野忠邦を批判する内容になります。ホトトギスの狂歌の真相は、案外、それかも知れません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
結局、水野忠邦の改革は行き詰まり、生活が苦しくなり、規則、規則で雁字搦めにされた江戸庶民は憤り、老中をクビにされた忠邦の屋敷を大勢で襲撃したそうです。本能寺のように屋敷が燃やされはしませんでしたが、腐敗役人に対し厳しくし過ぎた事が大きな反発を招いた可能性もありますね。
文:kawauso
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