戦国時代の主役が武士たちであるとすれば、その背後にいる影の主役が忍びでしょう。一般に武士が昼に活躍するのが多いのに対し、忍びは大体、夜にしか出てきません。あるいは昼に姿を現す時には、正体を偽っています。
では、どうして、忍びは昼間に活躍しようとしないのでしょうか?
戦国の夜は斬り捨て御免の世界
どうして、忍びは昼間に活躍しないのか?
その理由は戦国時代の夜が現在とは違い、斬り捨て御免の無法世界だった事に由来しています。例えば、戦国大名、結城氏の分国法、結城氏新法度の10条と20条には、当時の夜についての衝撃の内容が書かれていますので、現代語訳しながら紹介します。
一、夜中に他人の田畑に忍び込む、または人の耕作物を刈り取って持ち主に殺害された。
このような場合、容疑者の遺族の冤罪の訴えは受理しない。
それならば、なんの用事で他人の田畑に入ったのか?
一、夜中に他人の屋敷の木戸や垣根を乗り越えて侵入し屋敷の者に発見され殺された者。
これも遺族の一切の恨み言を許さず、そもそも、夜中に他人の家に入り込もうという人間は盗人以外考えられない。
自業自得でしかあるまい。
このように、戦国時代の結城氏の分国法では、夜中に人の田畑や屋敷に入り込んで殺された者については、過剰防衛も冤罪の訴えも認めないとしています。戦国時代は、夜中の8時から朝の6時頃まで、理由なく外を出歩く人間は妖怪でないなら、盗賊や犯罪者の類であり、殺されても仕方がないというのが常識だったのです。
夜中に蠢く忍びの群れ
このように戦国の昔の夜は、法律に守られない治外法権の世界でした。それは、現在のように警察組織が整備されていない昔、夜中は特に賊の捕縛が難しかったからです。しかし、問答無用で殺害される賊や不審者に対し、戦国大名に夜中に活動する事を公認された特異な集団が存在しました。
それが、上杉謙信が「夜技鍛錬之者」と呼び結城政勝が「一筋ある物」と呼んだ。草、乱波、透波、伏という忍びだったのです。
忍びは、元々犯罪者であったものが捕らえられ、助命の代わりに戦国大名の手先となった存在で、日没と同時に姿を現し、敵の領地で火付けや略奪、殺人を行い、また敵から送り込まれた忍びを領内で殲滅する役割を義務付けられました。
そうして得た戦利品を忍びはボーナスとしてそのままポケットに入れていたようです。領国内では犯罪行為の火付けや略奪、殺人ですが、忍びが敵国でやる分には、むしろ奨励されていました。
軍勢の案内
戦国時代劇などでは、大名の軍勢が一列になって進軍していくシーンが描かれます。しかし、実際には、その周辺には忍びが蠢いており、敵の伏兵が隠れやすい場所に先回りして安全を確保し、もし敵が存在すれば斬り合いを演じてこれを取り除きました。大名の軍勢が、ある程度安心して敵地を進軍できるのは忍びがいたからなのです。
そして、陽が落ちると、武士と交代して忍びが陣営の警備に入りました。変則的な攻撃を得意とする忍びは、同じ忍びでないと対応できない面が多々あったのです。
忍びも使えないようでは良い大将にはなれない
忍びについては、これを積極的に活用できた戦国大名ほどメジャーな存在になりました。つまり、忍びの活躍いかんが大名の勢力に関係していたのです。その理由は、北条五代記に、このようにあります。
「この忍びは、我が国にあり盗人をよく探し出して捕え、首を切る。
そして、己は他国へ侵入し、山賊、海賊、夜討、強盗などして盗みが上手だ」
このように忍びが国内では警察の役割を果たし、他国においては強盗行為をして、敵の経済と人命にダメージを与える事を書いています。真の大将はこうして戦を避け、忍びを多用した攪乱工作で、敵に地道なボディーブローを喰らわせて弱らせ、戦わずして勝つ事が最上とされたのです。
また、江戸初期の軍学者の小笠原昨雲は、
「大名の下には、忍びの者がいなければ、上手くいかないものだ。大将がいかに戦に強くても、敵と自分の足場を知らねば、どんな計略も成功する筈がない。その上、陣営や城や監察の仕事は、忍びの心得がある人が適任だ」
このように述べ、忍びが情報収集ばかりではなく、大名の領国経営全般に関わっている事を指摘しました。特に武田信玄は忍びを活用していた事が知られ、後継者の勝頼も、その点は踏襲しています。
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