忍びはどうして夜中に活躍するの?【素朴な疑問】

06/01/2021


戦う忍者

 

戦国時代の主役が武士たちであるとすれば、その背後にいる影の主役が忍びでしょう。一般に武士が昼に活躍するのが多いのに対し、忍びは大体、夜にしか出てきません。あるいは昼に姿を現す時には、正体を偽っています。

 

では、どうして、忍びは昼間に活躍しようとしないのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国の夜は斬り捨て御免の世界

石垣を登る忍者

 

どうして、忍びは昼間に活躍しないのか?

 

その理由は戦国時代の夜が現在とは違い、斬り捨て御免の無法世界だった事に由来しています。例えば、戦国大名、結城氏の分国法、結城氏新法度(ゆうきうじ・しんはっと)の10条と20条には、当時の夜についての衝撃の内容が書かれていますので、現代語訳しながら紹介します。

 

一、夜中に他人の田畑に忍び込む、または人の耕作物を刈り取って持ち主に殺害された。

このような場合、容疑者の遺族の冤罪(えんざい)の訴えは受理しない。

それならば、なんの用事で他人の田畑に入ったのか?

 

一、夜中に他人の屋敷の木戸や垣根を乗り越えて侵入し屋敷の者に発見され殺された者。

これも遺族の一切の恨み言を許さず、そもそも、夜中に他人の家に入り込もうという人間は盗人(ぬすっと)以外考えられない。

自業自得でしかあるまい。

 

 

このように、戦国時代の結城氏の分国法では、夜中に人の田畑や屋敷に入り込んで殺された者については、過剰防衛も冤罪の訴えも認めないとしています。戦国時代は、夜中の8時から朝の6時頃まで、理由なく外を出歩く人間は妖怪でないなら、盗賊や犯罪者の類であり、殺されても仕方がないというのが常識だったのです。

 

夜中に蠢く忍びの群れ

服部半蔵

 

このように戦国の昔の夜は、法律に守られない治外法権の世界でした。それは、現在のように警察組織が整備されていない昔、夜中は特に賊の捕縛が難しかったからです。しかし、問答無用で殺害される賊や不審者に対し、戦国大名に夜中に活動する事を公認された特異な集団が存在しました。

 

上杉謙信

 

それが、上杉謙信が「夜技鍛錬之者(よぎたんれんのもの)」と呼び結城政勝(ゆうきまさかつ)が「一筋(ひとすじ)ある物」と呼んだ。(くさ)乱波(らっぱ)透波(すっぱ)(ふせ)という忍びだったのです。

 

忍びは、元々犯罪者であったものが捕らえられ、助命の代わりに戦国大名の手先となった存在で、日没と同時に姿を現し、敵の領地で火付けや略奪、殺人を行い、また敵から送り込まれた忍びを領内で殲滅(せんめつ)する役割を義務付けられました。

 

三国志のモブ 反乱

 

そうして得た戦利品を忍びはボーナスとしてそのままポケットに入れていたようです。領国内では犯罪行為の火付けや略奪、殺人ですが、忍びが敵国でやる分には、むしろ奨励されていました。

 

上杉謙信特集

 

軍勢の案内

馬にのり凱旋する将軍モブ

 

戦国時代劇などでは、大名の軍勢が一列になって進軍していくシーンが描かれます。しかし、実際には、その周辺には忍びが(うごめ)いており、敵の伏兵が隠れやすい場所に先回りして安全を確保し、もし敵が存在すれば斬り合いを演じてこれを取り除きました。大名の軍勢が、ある程度安心して敵地を進軍できるのは忍びがいたからなのです。

 

そして、陽が落ちると、武士と交代して忍びが陣営の警備に入りました。変則的な攻撃を得意とする忍びは、同じ忍びでないと対応できない面が多々あったのです。

 

三国同盟を潰したあの男

 

 

忍びも使えないようでは良い大将にはなれない

 

忍びについては、これを積極的に活用できた戦国大名ほどメジャーな存在になりました。つまり、忍びの活躍いかんが大名の勢力に関係していたのです。その理由は、北条五代記に、このようにあります。

 

「この忍びは、我が国にあり盗人をよく探し出して捕え、首を切る。

そして、己は他国へ侵入し、山賊、海賊、夜討、強盗などして盗みが上手だ」

 

このように忍びが国内では警察の役割を果たし、他国においては強盗行為をして、敵の経済と人命にダメージを与える事を書いています。真の大将はこうして戦を避け、忍びを多用した攪乱工作(かくらんこうさく)で、敵に地道なボディーブローを喰らわせて弱らせ、戦わずして勝つ事が最上とされたのです。

 

また、江戸初期の軍学者の小笠原昨雲(おがさわらさくうん)は、

 

「大名の下には、忍びの者がいなければ、上手くいかないものだ。大将がいかに戦に強くても、敵と自分の足場を知らねば、どんな計略も成功する筈がない。その上、陣営や城や監察の仕事は、忍びの心得がある人が適任だ」

 

このように述べ、忍びが情報収集ばかりではなく、大名の領国経営全般に関わっている事を指摘しました。特に武田信玄は忍びを活用していた事が知られ、後継者の勝頼も、その点は踏襲しています。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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勝海舟、西郷隆盛、織田信長

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