戦国の風雲児織田信長、元々、尾張半国も領有していなかった信長が天下統一の一歩手前まで進んだのは、優れた経済センスと共に身分にとらわれずに実力のある人材を積極的に登用したからである…と私達はテレビや書籍で教えられてきました。
しかし、実際の信長は初期を除けば、実力よりも地縁を重視した極めて狭い範囲で人材登用をしていました。
今回の『ほのぼの日本史』は、菊地浩之著 「織田家臣団の系図」より、なんだか夢が壊れそうな織田家の縁故採用の実態を見ていきましょう。
織田家臣団で大名クラスになった部将
織田家が実力主義ではなく縁故主義だったという点をこちらのグラフで見てみましょう。
グラフの上部になればなるほど初期からの織田家の家臣なのですが、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、河尻秀隆、前田利家、池田恒興、佐々成政、塙直政とお馴染みの面子が揃っています。
それ以外では、美濃からの面々で森長可、蜂屋頼隆、金森長近、ギリで近江甲賀郡?の滝川一益辺りまでが国持ち大名です。
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大名まで出世した織田家臣の分類
織田家に所属した部将で大名クラスまで出世したのは、
①清須織田家を統一した頃までに臣従した家臣
②敵将が没落する契機になった(斎藤、三好、浅井・朝倉、武田、足利義昭)投降者
③それ以外(明智光秀、筒井順慶)
このように分類されます。
①は織田信長が敵国を攻略する際に大きな功績を挙げた部将で大きな褒美が必要になり、国持大名まで昇進した人材ですが、
その後は波乱万丈で、松永久秀、朝倉景鏡、前波吉継、荒木村重、穴山信君、氏家直元のように討死、謀反、追放等であらかた居なくなり、
本能寺後を生き残ったのは、細川藤孝や不破光治、木曾義昌程度です。
こうして見ると国持大名として残ったのは織田家縁故の部将が多いと言えます。
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同じ出身階層で婚姻を結ぶ
織田家では、同じ階層に属する部将同士で婚姻して縁続きになり閨閥を築いていました。特に柴田家と佐久間家、前田家の関係は緊密で以下のように繋がります。
1 | 佐久間盛政は柴田勝家の甥 |
2 | 佐久間盛政と佐久間信盛は遠縁(盛政の父と信盛は従兄弟) |
3 | 佐久間信盛と前田与十郎は義兄弟 |
4 | 前田与十郎と前田利家は遠縁(利家の父と与十郎は従兄弟) |
5 | 前田与十郎と滝川一益は従兄弟 |
6 | 滝川一益と池田恒興と従兄弟 |
7 | 滝川一益と柴田勝家は義兄弟 |
逆に古い時期から織田家に仕官している丹羽長秀や羽柴秀吉は、柴田、佐久間、前田、滝川等の閨閥に絡んでいません。これは、羽柴秀吉ばかりではなく丹羽長秀も柴田勝家や佐久間信盛の階層よりも、低い出身階層であるためと考えられます。
織田信長も丹羽長秀の出身階層を気にし、自分の姪を丹羽長秀に嫁がせ血筋で箔をつけた上で抜擢し、柴田や佐久間のような閨閥の嫉妬を回避するよう配慮しているようです。
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隠された清須会議の意図
明智光秀を山崎の合戦で破り、織田信長の後継者になった羽柴秀吉ですが、織田家の方針について話し合う清須会議までに織田家中に少しでも近づこうとしていました。
秀吉は、清須会議の前年には池田恒興の三男を養子に迎えて、丹羽長秀に対しても清須会議と同時期に長秀の三男を異父弟、羽柴秀長の養子に迎えて関係を強化しています。
映画清須会議では、柴田勝家派のように描かれた長秀ですが、織田家では勝家の家格よりは下であり、むしろ秀吉の家格に近い可能性もあります。
こうして考えると清須会議は、柴田勝家1人に対して羽柴秀吉には丹羽長秀、池田恒興の3名が付いていた事になり、秀吉の根回し工作の周到さが垣間見られるでしょう。同時に秀吉が織田家は実力主義(ばかりでなく)縁故が重要だと認識していたからこそ、丹羽長秀や池田恒興と養子を通して縁組をしていたわけです。
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与力として配属されると国持大名は難しい
信長が初期を除き、実力主義を採用しなかった理由は面倒くさかったからではありません。短期間で急激に拡大した織田家では、1人、1人の人材を見ている暇がなかったのです。上記の事情から信長は、新しく征服した大名の家臣をそのまま与力として子飼いの部将の下につけていく方式を採用しました。
こうして一度与力に配属されてしまうと上司になる部将の上に昇進するのは容易ではなく身分が押さえつけられてしまう事になります。つまり、信長に仕える時期が早いほど、昇進には有利になるわけです。
上役の部将が討死したり、追放されたり、病死するような事でもない限り下位の部将が、与力の地位を抜け出し国持大名になるのは難しい状態でした。
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日本史ライターkawausoの独り言
ここまでで述べたように実力主義であったかに見える織田政権は、永禄元年頃までに信長に臣従した家臣が中核となった集団であり、その狭い範囲内で血縁が結ばれ、国持大名にまで昇進できる格が形成されました。
信長が排他的な人物であったとは思いませんが、上洛後からの領土拡大は急激であり、次々と従属してくる家臣団を信長が1人、1人見ている余裕は無かったと考えられます。
また、国持大名となれば、仮に叛かれるとダメージも外への衝撃も大きいので、余程の大功を立てた外様の家臣以外は迂闊に任命できず、それが織田家初期からの部下が集中的に国持大名になる状況を産んだと言えるでしょう。
参考文献:織田家臣団の系図 菊地浩之 角川新書
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