中世の西国の守護・戦国大名として真っ先に名前が出てくる大内氏、毛利氏にとってかわるまでは将軍と共に上洛するなど圧倒的な力を持っていました。最盛期には中国地方だけでなく北九州にまで力を伸ばしていた大内氏の三代(政弘、義興、義隆)について紹介しましょう。
この記事の目次
大内一族は山口県から発祥した
大内というのは、元々深く入り込んだ地形や盆地の意味があり、そのためこの地名が日本各地にあります。その地名の豪族は自然と大内を名乗るため、実は全国にいろんな大内氏が存在しました。
その中でも周防国(山口県)に中世から戦国にかけて勢力を持っていた周防大内氏がとくに有名で、今回も周防大内(以下大内)を取り上げます。大内氏は古代朝鮮半島の国家、百済の聖明王の第三王子だった琳聖太子の子孫とされます。彼は百済から周防国の多々良浜に上陸。
聖徳太子から領地と多々良姓を賜ったとか。ただし伝承の域を出ていません。系図では琳聖太子七世の孫とされる正恒から多々良の姓を使ったとか。平安時代末期には初代正垣から9代目にあたる多々良盛房が初めて大内を名乗りました。
盛房は現在の山口市大内に移住したと伝わります。鎌倉時代には周防の支配者となり、鎌倉幕府御家人として活躍。京都にあった六波羅探題評定衆に任じられています。南北朝の時代になっても大内氏の地位は安泰で、後醍醐天皇や足利尊氏から周防守護職を命じられました。
18代当主の義弘は、室町幕府に功績を立て周防のほか長門、石見、豊前、和泉、紀伊の守護を任されていました。ただあまりにも領国が多かったために、3代将軍足利義満に目を付けられ応永の乱で敗れ去ります。
その弟で20代目となる盛見は有名な瑠璃光院の五重塔を建立しました。その後、23代目で政弘の父・教弘の時代まで引き続き数か国の守護職を兼ねた西国一の守護大名として勢力を保ちます。ちなみに教弘は大内宗家の22代目当主持世の婿養子で、その父は盛見と言われています。
戦国大内氏の初代大内政弘
初代で、大内家24代目に当たる大内政弘は、1446(文安3)年に誕生しました。幼名は亀童丸。大内教弘の子として生まれます。
元々から後継者としており、元服の際には父から名を一字「弘」、時の将軍8代義政からも偏諱「政」を賜り、政弘と名乗ります。1465(寛正6)年に父・教弘の死により20歳で家督を相続。同時に、周防・長門・豊前・筑前の守護も継承しました。
また別の説として1457(康正3)年ごろに、幕府により、この時点で亀童丸が当主に建てられたという研究があります。これは教弘が武田信繁の居城佐東銀山城と己斐城を攻めたのですが、幕府はこの行為に反発。毛利ら安芸の国人勢力を使って、阻止します。これで教弘の作戦は失敗しますが、この際に幕府が教弘の当主の地位をはく奪したとか。
1463(寛正4)年にはく奪処分が取り消され、死ぬまで当主として復帰しています。
応仁の乱に乗じて九州に勢力を伸ばす
父・教弘の代から幕府の中枢にいた管領の細川勝元と日明貿易をめぐって対立していました。同様に勝元と対立していた伊予の河野通春を支援。これに対して勝元が父・教弘の時同様に安芸の守護の武田や国人衆に命じて政弘を攻撃させます。
まだ応仁の乱がおきる前でしたが、すでに周防を中心としたこの地域は戦が続いていました。その後に起こった応仁の乱では、勝元と戦うことになった対立する山名宗全に加勢します。これは宗全の養女が父・教弘に嫁ぎ、その子が政弘という関係、反細川の関係が構築されていました。
1467(応仁元)には1万ともいわれる大軍を率いて上洛すると、西軍(山名側)として畿内各地を転戦します。この転戦は10年にも渡りました。当時東軍側にいた義政が朝敵として政弘に懲罰を命じたため、政弘の居ない周防への侵攻や叔父・道頓の反乱がおきました。
しかしこれは留守を守っていた重臣たちにより鎮圧されています。1473(文明5)年に乱の首謀者だった宗全、勝元が相次いで死亡したものの、政弘は京に残り小さな戦いは続いていました。
義政は政弘の懐柔にのりだし、河野通春の赦免と大内領の攻撃を禁止する条件で、東西の和睦が成立。政弘が周防に帰国することで、応仁の乱はようやく終息しました。
領内では反乱を鎮圧した陶弘護が実権を握っており、一時対立していましたが、弘護が吉見信頼に殺害され、政弘は家中の権限を掌握、九州の少弐氏と戦い、豊前・筑前を手に入れたり、安芸・石見の国人たちや瀬戸内の海賊たちを制圧するなどさらに勢力を強化しました。
細川氏に目の敵にされ苦しんだ2代目大内義興
二代大内義興は、政弘の子として1477年(文明9)年に生まれます。幼名は父と同じ亀堂丸、家督相続が約束されていました。1488(長享2)年に元服する際には9代将軍義尚から「義」の字を賜り義興となります。
このような経緯から義興が跡を継ぐことは決まっていました。しかし父・政弘の時代1492(明応元)年に父の命で、近江の六角高頼討伐の際に管領細川正元が将軍足利義材を幽閉する事件が発生します。
この影響で義興の妹が誘拐されたり義興の側近が政弘の命で切腹させられることなどが関係し、父政弘と義興の関係が悪化しますが、その2年後に父が病により隠居、義興が後継者となりました。
上洛し天下人にもなった義興
家督継承の直後には重臣の陶武護が不穏な動きをします。突然出奔して出家したかと思えば、代わりに陶家を継いだ弟の興明を殺害。次に権勢を誇っていた内藤弘矩を殺害させるように義興に仕向けて、それを信じた義興が内藤親子を殺害するなどの不安定な状況が続きました。
最終的に武護も殺害されます。一連の流れて大内家の重臣(陶・内藤)が一時的に没落した結果、義興の地位が安定します。その後、義興は一時九州の大友と手を組み九州に進出して少弐氏を攻撃、九州の領地を手に入れました。
九州をめぐっての戦いをしているさなか、10代将軍だった足利義尹が将軍位をはく奪され京を追われ、山口に義興を頼ってきました。義尹は「今も将軍である」といって山口に幕府を開きます。
義興は義尹と共に上洛を計画しますが、逆に「朝敵」の汚名を着せられてしまいました。その状況の中、九州の勢力と和睦し力を温存。11代将軍を立てながら幕府の実権を握っていた細川政元が暗殺。
その後に起こったのが細川家の内部抗争です。これを機会とみた義興は、義尹と共に上洛します。こうして上洛した義興は義尹を将軍職に復帰させ、管領細川高国とともに管領代幕府を支えます。
しばらくして義興は山口に戻ろうとするものの、高国に対抗している細川澄元らが京と奪還を目指しているため帰国できず、畿内での戦いに巻き込まれます。それでも義興の活躍により従三位の地位を得て公卿になり、娘を足利家に嫁がせるなど、将軍家との親族になりました。
さらに日明貿易の特権ももらい、事実上の天下人のような状況でしたが、その頃山陰地方を中心に尼子氏の勢力が強くなっていました。義興は尼子との戦いのために管領代を辞任、国元に戻ります。義興の晩年は尼子経久らとの戦いに費やしました。
ボンボンとして誕生した3代目大内義隆
1507(永正4)年に義興の子として誕生した大内義隆の幼名は父や祖父と同じ亀童丸。つまり大内家の後継者の地位が約束されていました。家督相続までの間は、尼子氏との戦いが繰り返されました。父の死により家督を相続しますが、これにより内部で問題が起こることはありませんでした。
養子が尼子氏との戦いで戦死しやる気を失くす
義隆は家督を継ぐと、山陰の尼子氏を意識しつつ九州を攻め、大友氏や少弐氏を攻めていきます。このころから少弐氏の重臣だった隆造寺氏の存在感が現れ始め、義隆は龍造寺家兼を調略。さらに九州探題の地位にあった北肥前の渋川氏を滅亡させます。
義隆は九州を攻略するため大宰大弐への叙任を調停に求めますが、これはうまくいきませんでした。また12代将軍足利義晴により幕政に加わるよう上洛要請がきたものの、尼子の存在が邪魔をして断念。領国経営に専念します。
義隆は寵愛していた養嗣子の大内晴持がいましたが、尼子晴久との戦いで晴持を失ってからは政治的な関心や領土拡大の野心が急速に失われてしまい、文治派を重用することになります。
これは領土拡大のために義隆と戦ってきた陶隆房や内藤興盛らとの武断派との対立が深まりました。その後1550(天文19)年このときにフランシスコザビエルが宣教の許可を得ようと山口に来ます。1度目は許可をしませんが、翌年の2回目の際には不況の許可を与えました。
その後、1551(天文20)年、重臣で周防守護代でもあった武断派の陶隆房が義隆と険悪だったことでついに謀反を起こします。もうひとりの重臣で長門の守護代だったの内藤興盛も黙認。義隆は逃亡しますが暴風雨のため身動きが取れず長門深川の大寧寺で立てこもり、陶隆房により殺害されました。
大内三代の有力家臣
大内三代の有力家臣は次の通りです。
初代:政弘
大内政豊、大内弘豊、麻生弘家、柿並弘慶、陶弘護、門田弘胤、内藤弘矩、杉弘相、平賀弘保、右田広詮
二代:義興
大内興豊、冷泉興豊、陶興房、陶興明、杉興相、飯田興秀、内藤興盛、仁保興貞、沼田興国、野田興方、右田興俊、山崎興盛、鷲頭興盛
三代:義隆
伊佐隆光、飯田隆時、太田隆道、小原高言、雑賀隆利、陶隆房、杉隆相、内藤隆春、弘中隆包、仁保隆在、細川隆是、冷泉隆豊、杉並隆正、町野隆風、右田隆次
食ったり食われたりの尼子氏との関係
尼子氏との関係は二代義興の時代から関わってきます。1511(永正8)年に義興が将軍を伴い上洛した際にはまだ当主の尼子経久は出雲守護代に過ぎず、それに従っていました。
義興が京にいる間に、石見の守護だった山名と手を組み攻撃を開始していましたが、本格的な戦いは、尼子市が出雲西部の支配を確立してからの事でした。
1521(大永元)年以降に、本格的に尼子は大内領に進出、安芸の国人毛利氏らを利用して大内と戦います。義興のあと義隆の時代には尼子の勢力は巨大化し、義隆の上洛を断念せざるを得なくなっていました。それでも尼子の攻撃から安芸を勢力下におくなど。大内氏が健在の時に尼子から必要以上に攻められることはなかったようです。
勢力を分家筋の陶隆房に乗っ取られる
義隆の死後、大内家当主は義興の甥にあたる大内義長が継ぎますが、陶晴賢(隆房)が大内家の実権を握ります。ところが晴賢の方針に反発した毛利元就と戦うこととなり、安芸の国が元就に取られます。
晴賢は安芸の奪還に向かいますが、逆に元就に厳島で奇襲に会い、晴賢は討ち死に。晴賢を失った義長には力がなく、大内家が衰退。それを見た元就は山口に侵攻し大内氏は滅亡します。
その後大友氏の下にいた大内政弘の孫・輝弘が反乱軍を起こしますが、元就により滅ぼされました。大内氏の嫡流はこれで滅亡しましたが、大内政弘から見て曽祖父にあたる弘世までさかのぼると、庶流としての血筋が残りました。弘世の子で大内家10代当主だった義弘の子つまり弘世の孫にあたる大内持盛の家系が山口氏を名乗ります。
持盛から数えて七代の後に登場した山口重政は、江戸時代に牛久藩を立藩し、そのまま牛久山口氏として明治時代まで大名として生き残りました。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
大内氏は室町時代から戦国後期まで大きな勢力を持っていました。山口・湯田温泉で再現されている大内御膳は、前将軍足利義尹が山口に頼った時に振舞ったという会席料理を再現したもの。今でも山口市内にある瑠璃光院の五重塔など大内文化が色濃く残っています。
最終的に毛利氏により滅ぼされるとはいえ、それは家臣の陶晴賢による謀反が原因となったもの。謀反をもし無事に防いでいたら、毛利が本当に大内の領土を取れていたかどうかはわかりません。
例えば信長や秀吉、家康の時代まで大内家が残っていたら歴史がどうなったかとかいろいろ想像を掻き立てられます。
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