戦国時代

豊臣秀次は秀吉に殺されたのではなく抗議自殺した!

豊臣秀次

 

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の姉の子で秀吉の甥にあたります。低い身分の出身で先祖代々の家臣を持たない秀吉は天下を取ると身内を重用して引き立て、特に秀次は秀吉の身内では最年長という事もあり、秀吉に関白を譲られるなど大きな役割を担いました。

 

しかし、その後、秀吉に1人息子の秀頼(ひでより)が誕生すると秀次の立場は微妙になり、最後には秀吉の命令で切腹に追い込まれたとされています。ところが、最近の研究では、秀吉は秀次を高野山に押し込んだだけで切腹までは命じていないという説もあるのです。

 

豊臣秀次事件をザックリ!

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

では、豊臣秀次事件について、ザックリと解説します。

 

1 豊臣秀次は子供がいない秀吉の後継者だった
2 秀吉に秀頼が誕生したが秀頼が成長して官位が上るまで

秀次には関白としての中継ぎが期待された。

3 秀吉には身内が少なく秀次を失うのはダメージだった
4 秀次の死の3カ月前、

大和国を秀次の子に統治させるとする書状があり
秀吉と秀次の間に確執は見られない

5 切腹を命じた秀吉の命令書は江戸初期の偽物
6 実際の書状には高野山に住めとしか書かれていない
7 キャリアを奪われ濡れ衣をきせられた秀次は抗議の切腹
8 秀吉は秀次が謀反したと事実改変し豊臣家の威信を守る

 

簡単に言うと、こんな感じです。以下の文章では、より詳しい内容を解説します。

 

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関白秀次切腹を巡る3つの事件

切腹する豊臣秀次

 

豊臣秀次は文禄(ぶんろく)4年(1595年)6月末、突如として謀反の疑いをかけられます。聚楽第(じゅらくてい)にいた秀次は伏見城にいた秀吉の元に出頭を命じられ、そのまま高野山へ蟄居します。これが「秀次失脚事件」です。

 

次に7月15日、秀次は高野山で小姓たちとともに切腹しました。これは「秀次切腹事件」と呼ばれていました。

 

そして、8月2日の早朝、京都の三条河原で、秀次の子女、側室、侍女、乳母にいたるまで眷属(けんぞく)39名が斬首されます。こちらは「妻子斬殺事件」と呼びます。このように秀次事件と言うのは、この3つの事件をまとめたものなのです。

 

しかし御覧の通り、これだけの情報では、どうして秀次が切腹し、秀吉が激怒し眷属にいたるまで秀次の一族を皆殺しにし、聚楽第まで破却したのか、その理由が見えてきません。

 

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様々な豊臣秀次排除説

戦国時代の密談

 

秀吉没後の天下人とまで目された秀次の突然の切腹は、事件当時から様々な憶測を呼びました。その代表的な説を見てみましょう。

 

秀吉に秀頼が誕生し、秀次が邪魔になった秀吉が殺した
蒲生氏郷(がもううじさと)が死んだ後、その遺領の扱いを巡り秀吉と秀次が対立した。
豊臣秀次は悪行・乱行が多く、やがて秀吉の勘気に触れて殺害された。
秀次が秀吉の側室に入る女性に惚れて横取りし、石田三成(いしだみつなり)が秀吉に讒言した。
豊臣秀次が秀吉を聚楽第に招き暗殺しようとして失敗し逆に殺された。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)の死後、秀次が喪に服さず鶴肉を食べ狩猟したので秀吉の怒りを買った
豊臣秀次謀反の風聞が流れ、そこから秀吉と不和になり殺された

 

秀次切腹には、大体以上の説がありますが、逆にこれだけの説があるという事自体、事件が非常に不可解である裏返しとも考えられます。

 

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秀次を殺しても秀吉にプラスはない

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

従来の説として、秀吉が秀頼の誕生により秀次を疎んじ排除したというものがありますが、実際のところ、この説には無理があります。というのも、関白というのは天皇を補佐する仕事であり臣下として最高位です。ですので、そこまで無位無官だった人が、いきなり関白という訳にはいきません。

 

公家同士の会議

 

秀頼も成長に従って手順を踏んで昇進させ関白まで登らせる必要がありました。事実、秀吉は秀次の死後、秀頼を関白に推す事なく空位のままにしています。

 

つまり、秀吉としては、秀頼がある程度成長し官位を上げるまでは、秀次に関白を続けてもらい、そこでバトンタッチというのが理想であり、秀頼が産まれたからと言って、すぐ秀次を排除するというのは辻褄が合わないのです。

 

もちろん、秀次以外に関白に適任の身内がいるのなら、排除出来ない事もありませんが、秀吉の身内は少なく秀次のウエイトは重くなっていました。それを考えると、秀吉が秀頼の為に秀次を排除するとは考えにくいでしょう。

 

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秀吉と秀次に確執はあったのか?

暗殺(寝ているシーン)モブ

 

秀次は秀吉にとって身内でしたし、幼い秀頼がある程度成長するまで中継ぎとして必要な人材ではありました。それでも、秀次が極端に無能であるとか、無能を通り越して暗愚(あんぐ)であれば、秀吉も自分の死後を考えて秀次排除を考え、秀次との間に確執が発生する可能性はあります。

 

果たして秀吉と秀次の間に確執はあったのでしょうか?

 

最近、秀吉と秀次の関係を物語る発見がありました。文禄4年4月、つまり秀次切腹の3カ月前の日付の書状が発見されたのです。内容は、大和国の国主だった豊臣秀保(とよとみひでやす)が病死したので後釜に秀次の息子、恐らく庶長子の仙千代丸(せんちよまる)を据えるというものでした。

 

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長

 

大和国は京都に隣接した重要エリアで、過去は秀吉の弟の羽柴秀長(はしばひでなが)が治めていた土地でした。そこに秀次の息子を据えるというのは、もし秀次と秀吉の間に確執があれば考えられない事でしょう。もちろん、秀吉は秀次を基本は信用しつつも、秀頼が成長するより先に自分が死ねば、秀次が豊臣の当主となり、息子の仙千代丸を後継者にして、秀頼が排除されるのではという不安と恐れがあったかも知れません。

 

実際、当時仙千代丸は6歳であり、秀吉は仙千代丸の後見に秀次を任命して大和に入れ関白から下ろすつもりだったとも考えられます。だとしても、関白を下ろすのと殺害するのとでは大きな差があります。これをもって、秀吉が秀次を殺すつもりだったとは、ちょっと言えないでしょう。

 

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秀次に切腹を命じた書状は偽物

西遊記巻物 書物_書類

 

豊臣秀次が文禄4年7月15日に高野山で切腹したのは事実です。その秀次に秀吉が切腹を命じたという形跡は文書の形で残っていました。

 

石田三成

 

文書には石田三成らの奉行が秀吉の切腹命令を秀次に伝え自殺に追い込んだと書かれ、伊達家の文書にも、秀吉の命令で秀次に切腹の命令があったので腹を切ったと書いてあり、これは真実であると考えられていたわけです。

 

しかし、ここには大きな問題がありました。

 

SB新書 新説の日本史の矢部健太郎(やべけんたろう)氏の説によると、切腹命令を記した文書は江戸初期に書かれた後世の偽物であり、切腹命令の日付では実際の秀次切腹には間に合わないそうなのです。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

そして、実はその前日に秀吉から秀次に出された文書も残っていて、そこには秀次に対し「高野山に住むように」と秀吉の命令が記してあります。この文書ならば、秀次の切腹には間に合います。つまり、秀次が生前に最後に見た書状は切腹命令ではなく、秀吉からの高野山に住むようにという内容だったのです。

 

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秀次は無実を叫び抗議のため自殺した?

織田信長が亡くなりショックを受ける豊臣秀吉

 

秀吉が秀次を殺すつもりはなかったとしても、高野山追放と言えば、現世と縁を切り、財産も地位も家族も失い、残りの人生を失意の中で過ごすしかない事を意味していました。

 

織田信長に追放される佐久間信盛

 

織田家重臣の佐久間信盛(さくまのぶもり)が突如として信長の勘気を蒙り、息子と共に身分も財産も剥ぎ取られて送り込まれ、失意の中で病死した場所として知られています。

 

山に追放され亡くなる佐久間信盛

 

高野山が、当時の貴人のキャリア終了の場である事は秀次も当然知っていたでしょう。それでも謀反が事実なら仕方ありませんが、冤罪(えんざい)だったとしたらどうでしょうか?

 

27歳の若い秀次は怒りと哀しみと屈辱で絶望し「わしは無実だ!死んで潔白を証明する」と叫んで、小姓と共に命を絶ったという事も十分に考えられます。

 

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秀次の死により秀吉は秀次を謀反人とするしかなくなった

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

秀次の自殺を知った秀吉は顔面蒼白になった事でしょう。

 

もし、秀次が抗議の自殺をした事が世間に広まれば、讒言に騙された秀吉が実の甥を高野山に追放して自殺に追い込んだ事になり豊臣家の威信が地に落ちます。

 

そこで秀吉は、秀次が謀反を企んだので切腹を命じたという事に事実を改変しました。秀次を謀反人にした以上、謀反人の家族を生かしておく事はできないので、秀次自殺から、半月以上経過してから、秀次の眷属を謀反人の家族と39名も斬首にし、謀反人が政務を執った場所だとして、聚楽第も徹底的に破壊したのです。

 

謀反人秀次にかかわる全てを汚らわしき残滓(ざんさい)として地上から徹底破壊する。それだけが豊臣家の威信を守る秀吉の唯一の道でした。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

豊臣秀次は一流の教養人であり、小牧(こまき)長久手(ながくて)では大敗して大勢の部下を失い、秀吉に激怒されますが、紀伊雑賀(きいさかい)征伐や、四国征伐では手柄を立てリベンジしています。

 

小田原(おだわら)攻めでも戦争が終わるまで滞陣していて、その後奥州仕置きにも出ていました。軍の采配は、もちろん秀吉には及びませんが愚将ではありません。

 

そもそも天下は秀吉が平定しているので、秀次には軍事面の才能はさほど必要ではなく、むしろ京都に滞在して情報収集し朝廷とのパイプを円滑にする事こそが秀吉の希望でした。秀次を自害で失ったのは秀吉に取っては痛恨事であり、苛烈な処分とは裏腹に本当は悲しかったのではないかと思います。

 

参考文献:SB新書 新説の日本史

 

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