戦国時代と言えば、合戦のシーンや謀略のシーンがメインとなりがちです。しかし、戦国大名も家族にとっては夫であり、子供がいれば父という事になります。では、戦国時代の大名と子供の関係はどんなものだったのでしょうか?
戦国大名と子供の関係
戦国大名と子供達の関係について、一枚の図解イラストで解説してみます。以上のように、戦国大名にとっては、長男と次男・三男までが後継ぎであり、4男以降は、分家して嫡男の家来とするか、養子に出すか、人質にする。娘の場合には政略結婚、他国との同盟、有能な家臣と縁組して家中の結束を強化するなどがありました。
ただ、長男と言えども、戦国大名と反りが合わない事も珍しくなく、その場合には謀反が発生しますし、仮に大名が後継ぎを明確にしない間に病死したり、討ち死にすると、次男・三男までが長男と家督争いをする事になりました。
戦国大名 長男
戦国大名の長男は、多くの場合嫡男として戦国大名の後継ぎとなるべく養育され、出来得る限りの最大の教育が与えられます。しかし、戦国大名が弱小の場合には、より力が強い大名に従属の証として人質に出されるケースもありました。
一番有名なケースでは、最初は織田、次は今川家に人質に出された徳川家康がいますし、毛利元就の嫡男隆元は、若い頃、大内義隆の下に送られて人質として生活しています。
しかし、戦国大名と嫡男の関係は必ずしも良好とは限らず、斎藤道三と嫡男の義龍のように、父子で武力衝突が起きる事もありましたし、武田信玄の嫡男、武田義信のケースのように信玄の戦略が変化した結果、疎んじられ廃嫡されてしまう事もあったのです。嫡男だからと言って、人生安泰とは限らなかったのですね。
戦国大名 次男・三男
戦国大名の次男と三男は嫡男が夭折したり、能力的に家督を継げないと戦国大名に判断された場合の補完として、嫡男に次ぐ教育を施されました。もっとも無用な家督争いを回避すべく、嫡男に問題がない限りは幼少期に髪を落として寺に入れる事が一般的でした。
海道一の弓取りと謳われた今川義元も、元々は仏門に入っていたのが、兄達の急死により今川家の家督を継ぐ事になったケースです。しかし、嫡男がしっかりしていても、戦国大名が急死したり、討ち死にしたりすると、嫡男と次男、三男との間で家督争いが起こる事もあります。
有名なケースでは、本能寺の変で織田信長と家督を継いでいた織田信忠が同時になくなったために、織田家の家督を争った神戸信孝、織田信雄の兄弟がいます。
逆に、毛利元就の次男・三男である吉川元春や小早川隆景は、有力な豪族の養子に入って、毛利本家の相続者になった嫡男の毛利隆元を守り立てるなどプラスに作用しています。
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戦国大名四男以下
戦国大名の子供でも、四男以下は嫡男の家来として位置づけられ後継者としての教育は施されませんでした。一族の結束が固かった子煩悩な毛利元就でさえ、三男より下は「むしけら以下」と記しており、家督争いがない限り、四男以下は分家するか人質として出されるか、他家の養子になるという選択しかなかったようです。
しかし、家督を継げる目が薄いと言う事は、命を狙われる事もないという事ですから、割り切りさえ可能なら、そんなに悪くない立場かも知れません。
もっとも、武田勝頼のように四男ですが、兄義信が失脚し、次男信親は盲目で家督を継げず、三男信之は幼くして死亡した結果、後継者の御鉢が回ってくるケースもあるので例外はあるのですが…
徳川家康の四男には、松平忠吉がいますが、後継者争いには絡む事なく、幼くして東条松平家を継いで徳川の親藩大名として本家を支えました。
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