佐々成政は、貧しい尾張の土豪の三男坊に生まれ、織田信長の親衛隊、黒母衣衆の筆頭として活躍し、越中や肥後の大名になった人物です。しかし天は二物を与えずで、成政は武勇以外では不器用すぎ、ついにその不器用のせいで戦国の生き残り競争から脱落していく事になります。
今回は戦国一の不器用男、佐々成政を解説しましょう。
この記事の目次
貧しい土豪の三男坊として誕生
佐々成政は尾張の土豪、佐々成宗の三男として尾張国春日井郡比良城に誕生します。
成政の上には兄が2名いましたが、2人とも稲生の戦いと桶狭間の戦いで相次いで戦死。生き残った成政が永禄3年(1560年)に父、成宗から家督を譲られ25歳で比良城主になります。
翌年、成政は森部の戦いで敵将稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を挙げました。
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黒母衣衆筆頭へ
佐々成政が数々の武功を立て続けた理由には、織田信長の親衛隊である黒母衣衆にいた事が大きく影響していました。織田信長は天文21年(1552年)3月に父、織田信秀より家督を継ぎ、林秀貞、平手政秀、青山与左衛門、内藤勝介の4人の重臣を与えられます。
しかし、これらの重臣たちは信長が頼りにするには全く足りず、切腹したり、戦死したり、叛いたりでいなくなり、信長も重臣を見限りました。
代わりに信長は、土豪階級の次男・三男坊を、津島や熱田からの関税収入にモノを言わせて多く雇い入れ、自分の身辺を守る旗本としたのです。
経済的に裕福でもなく次男、三男で家を継げる見込みもない土豪の次男・三男坊は、いくさ働きで信長に認められ、立身出世しようと貪欲かつハングリーに、すべての戦場において大活躍しました。佐々成政も上の兄弟が死んで家督を継いだものの、元々は貧しい土豪の三男坊で、嫡男当主の下で手駒になる運命でしたから、信長に馬廻り衆に引き立てられると獅子奮迅の働きをして、信長の期待に応えようとします。
こうして、成政は黒母衣衆の筆頭へと成り上がって行ったのです。
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成政鉄砲隊
佐々成政は、その後も、信長上洛途中の観音寺城の戦いに従軍。姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正、中条家忠と少数の馬廻衆を率いて最後尾の殿に参加し鉄砲隊を利用して活躍しました。
天正2年(1574年)の長島一向一揆との戦いでは長男、松千代丸を失うものの、翌年の長篠の戦いでは前田利家らと3000名の鉄砲隊を指揮し武田勝頼軍を壊滅させる手柄を立てました。
度々、鉄砲隊を率いている様子がうかがえるので、成政は鉄砲術に長けた人物であったのかも知れません。
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柴田勝家の配下兼遊撃隊時代
天正3年(1575年)信長が朝倉氏を滅ぼして越前国を制圧すると柴田勝家に支配を任せます。そして、勝家の下に佐々成政、前田利家、不破光治を配置し府中三人衆としました。成政は小丸城を築いて居城とし、勝家の与力ながら半ば独立した遊撃隊として、何度も上方と北陸を往来します。
基本は上杉氏と対峙しつつも、それが落ち着くと畿内に呼び戻され、石山合戦や播磨国平定、荒木村重討伐と多忙でした。
明智光秀も遊撃隊扱いで、激務が祟って過労死しそうになりましたが、佐々成政は身体頑強なのか一度も倒れず、黙々と織田軍団としての激務をこなし続けます。
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神保氏に代わり越中国主に
天正8年(1580年)以降、成政は神保長住の助勢として一向一揆、及び、上杉景勝に対する最前線の越中国平定に参加。同年には治水工事にも着手し富山城下を守るために富山市内を流れる常願寺川沿いに「佐々堤」と呼ばれる堤防を築きました。
その後、越中守護、神保長住は旧臣に叛かれて富山城を襲撃されて捕らわれます。その後、織田軍の巻き返しで長住は助けられますが、信長は長住を不甲斐なしとして追放。
二番手の佐々成政が繰り上がりで越中一国守護となりました。成政は喜び勇んで富山城を居城として城下を整備しますが、この時が成政の黄金時代となります。
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本能寺の変で運命が暗転
しかし、佐々成政が所属する北陸方面軍が上杉景勝の越中最後の拠点である魚津城を攻略し、上杉氏の拠点春日山城に迫る途中、京都では本能寺の変が勃発します。
北陸方面軍にも動揺が走り、地元の国人領主が勝手に領地に引き上げ、佐々成政は反撃に来た上杉軍に防戦一方となり身動きが取れませんでした。
大将格の柴田勝家は、なんとか上洛を図りますが、羽柴秀吉が先に明智光秀を討ち主導権を失います。清州会議においては、成政は秀吉ではなく北陸攻めで苦楽を共にした柴田勝家につき、一応は越中国を安堵されました。
ところが、前線にいる大名の哀しさで上杉景勝に対抗する必要性から成政は、秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは、僅か600人の援軍しか勝家に送れませんでした。そして、合戦は前田利家の裏切りや上杉景勝の圧力もあり柴田軍は潰走し、勝家は北ノ庄に退却、そこで自刃しました。
戦争には参加しなかった成政ですが、秀吉に娘を差し出すと頭を丸めて降伏し、再び越中一国を安堵されます。
しかし、ほぼ、何もせずに秀吉に降伏したかに見える成政の評判は畿内では悪く、成政の裏切りで勝家が滅んだとの風説があったと多聞院日記には出てくるそうです。
この場合、上杉景勝に備える必要から成政が兵力を出せないのは仕方ないと思うのですが、不器用な人なのか、運が悪いのか、どうも成政は悪評判を立てられがちのようです。
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1人で意地を張り豊臣軍10万に城を包囲
秀吉に恭順したかに見えた成政ですが、徳川家康が織田信雄を担いで秀吉と対決姿勢を明らかにすると家康に接近します。
こうして成政は秀吉サイドについたかつての盟友、前田利家の朝日山城を攻撃。さらに利家の領国である加賀国と能登国の分断を図ろうと宝達山を越えて坪山砦に布陣して15000の軍勢で前田家の末森城を包囲するも、金沢城から急遽引き返した利家が佐々軍の背後から攻撃、成政は敗北しました。
この時、成政は上杉景勝とも交戦中で二正面作戦を強いられ、全力で前田利家に集中できませんでした。なんというか不器用な攻め方をしている印象です。
さらに最悪な事に、秀吉と家康が和睦の準備に入り、孤立を恐れた成政は冬の飛騨山脈、立山山系を越えて浜松に入り家康を説得。織田信雄や、滝川一益にも考え直すように説得しますが、全員が成政の説得には応じませんでした。
失意の成政は、再び飛騨山脈を越えて越中富山城に帰りますが、ここから意地になり頑なに反豊臣、反前田の姿勢を崩しません。もう、勝ち目ないんだから、また頭を丸めたら?と思うのですが、以前以上に不器用さがパワーアップした成政は秀吉軍10万に富山城を包囲されて窮地に陥ります。
そして、自分を裏切った織田信雄の仲介で秀吉に二度目の降伏をしました。これにより成政は、越中東部の新川郡を除くすべての領地を没収され、富山城も破壊、成政は反乱を警戒されて越中在住を許されず妻子とともに大坂に移住させられました。
また、この裏切りで成政が前回秀吉に人質に出した次女と乳母は京都粟田口で磔に処されたそうです。それでも秀吉は成政が嫌いではないようで、お伽衆に加え羽柴の姓を与えるなど、なかなか厚遇しています。
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欲を出して破滅した成政
これで終わりかと思いきや、佐々成政に再びチャンスが巡ります。九州征伐で功績を挙げた事が評価され、九州分国で肥後一国を与えられたのです。
その際に秀吉は、肥後国人は保守的なので、急激な改革をするなと注意したそうですが、成政は病を得ていた事もあり、性急に検地を開始して隈部親永を中心とする肥後国人の反発を受けて一揆を招きます。
成政は、これを自力で鎮圧できず秀吉の手を煩わせ、激怒した秀吉によって切腹を申し付けられました。この時、成政は腹を横一文字に割いて、内臓を引きちぎって天井にぶちまけると言う壮絶な死に方をしたそうです。
成政の辞世の句は、
「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」で
肥後国人一揆という災厄について、色々思い悩み、言いたい事もあるが、内臓もろともぶちまけて身体ごと破壊し、何も言うまいという意味だそうです。やっぱり、どこまでも不器用な成政は言いたいことを飲み込んで、死んで全てを終わらせようと思ったのでした。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は豪勇無双だけど、どこまでも不器用で頑固なせいで転落の人生を歩んでしまった佐々成政について書いてみました。
成政は武勇の士を求め、例えば5000石で召し抱えても、実際には6000から7000石与えたりしたそうで、その気前の良さに武勇の士が成政の陣営に殺到したという話があります。
また、成政を切腹させた秀吉も、成政の武勇にはずっと敬意を払っていて、小田原征伐で蒲生氏郷が成政の馬印、三階菅笠の使用を願い出ると、「三階菅笠は武勇で聞こえた成政の馬印であり、ちょっとやそっとで与えるわけにはいかぬ」と難色を示したそうです。
不器用で権謀術数が似合わない佐々成政、もし本能寺の変がなければ、ずっと信長の忠実な軍団長として戦場で活躍して生涯を終えていたかも知れませんね。
参考:Wikipedia
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