相馬義胤は天文17年(1548年)相馬氏十五代当主、相馬盛胤の嫡男として誕生します。その頃、東北では伊達稙宗の東北ハプスブルグ家計画(仮)により、有力な大名に植宗の息子や娘が送り込まれ伊達氏の姻戚化が進んでいました。
相馬氏も当然例外ではなく義胤の母は伊達氏の娘で、父盛胤の母もまた伊達氏から輿入れ、おまけに義胤の正室も伊達稙宗の末娘、越河御前です。これなら相馬氏は親戚の伊達氏と歩調を合わせそうですが、そうはなりませんでした。今回は、伊達政宗の宿敵、相馬義胤について解説します。
この記事の目次
天文17年に嫡男として誕生
相馬義胤は天文17年(1548年)15代当主の相馬盛胤の嫡男として誕生します。奥州相馬氏は、盛胤の父の時代から3代に渡り、奥州探題伊達稙宗と婚姻関係を結んでいましたが、稙宗と晴宗の領土争いに端を発する天文の乱後、晴宗遺言の解釈を巡り、植宗隠居地、伊具郡・宇多郡領有を争いました。
その中で、相馬氏は領国の背後に位置する三春城主の田村氏と和睦する事で所領の基盤を固め、伊達氏との抗争に邁進していきます。
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稙宗隠居地争奪戦を和睦で解決
相馬義胤は、同じく戦上手で知られた父、盛胤と共に幼い頃から欧州各地を転戦。天文の乱での弱体化を乗り越え、奥州覇権を求める伊達輝宗・政宗の圧迫に対し伊達氏近隣の諸大名・小名と複雑な合従連衡を繰り返しながら対抗しました。
特に、義胤から見て義父にあたる伊達稙宗の隠居領、伊具郡・宇多郡の領有を巡る争いでは、一進一退の攻防を繰り返しますが、次第に不利になり伊達氏の優勢が確定します。
そこで、相馬氏は、伊達政宗に正室愛姫を送り込んで縁戚になった共通の同盟相手である田村氏を仲介し伊達氏に2郡を返還して和睦しました。
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反伊達氏に舵を切る
しかし、南奥州で伊達氏と双璧だった蘆名盛氏が死去し家督争いで弱体化。そして、近畿では関白に就任した豊臣秀吉の権勢が強まって関東まで及ぶと、伊達輝宗は危機意識を持ち、それまでの洞(武家)連合による支配体制を分解し、伊達家を中心とする中央集権体制に切り替えようと画策。
親戚である蘆名氏の家督相続に口を出し、同じく介入しようとする佐竹義重と対立しました。
やがて、伊達家の当主が伊達政宗に代わると相馬義胤は、当初は中立を守っていましたが、人取橋の戦いの後は、岩城常隆、佐竹義重と連合軍を形成、反伊達グループのリーダー的存在になっていきます。
伊達vs相馬の戦いは、戦国的武家連合による東北支配を望む相馬氏と、伊達氏による奥州勢力の統制を狙う伊達氏の戦いでもあったのです。
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絶体絶命の窮地で奇跡が起きる
しかし、人取橋の戦い以降、伊達政宗の働きは目覚ましく、1589年頃には、相馬氏の領地である小狭井、金山、丸森、駒ケ峰、新地が政宗に奪われているという状態になってしまいます。
義胤は新地城を取り戻そうと出陣しますが、伊達勢の亘理元安斎の軍に包囲され、家臣の奮戦で命からがら逃げのびるという有様でした。さらに、この戦いの後で、政宗サイドから盛胤に宛てて、降伏勧告の使者が送られます。
これを受けて軍議が開かれますが、盛胤は「もはや、奥州は政宗の手に落ちており、相馬家を守る為にも伊達氏の軍門に降るしかない」と主張します。
しかし、義胤は
「父上の考えも分るが、わしは汚名を残してまで家名を存続させる位なら1人の武士として潔く討死する事を選ぶ。わしは1人でも戦うが、わしと同じ意見の者がいるなら、わしは彼らと共に政宗の大軍に飛び込んで戦うつもりだ」と言いました。
義胤は内心、自分と共に立つものはほとんどいないだろうと腹を括っていましたが、予想に反し、傷ついた将兵までが涙を流し義胤と共に死ぬ事を選び、盛胤も
「話は決まった」と降伏を中止しました。
こうして、覚悟を決めた義胤と相馬勢に奇跡が起きます。1585年以来、天下統一に邁進していた豊臣秀吉の勢いが関東の小田原にまで届き、政宗は小田原征伐に参加する為に、相馬氏との戦いを中止して引き上げたのです。相馬氏はギリギリで滅亡の運命を免れました。
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何故か石田三成の口添えで許される
豊臣秀吉の小田原攻めへ参陣せよとの命令は政宗だけではなく義胤にも届いていました。ところが義胤は、政宗以上に参陣が遅れ、2カ月も遅延した挙句に小田原に到着します。
政宗でさえ白装束で出たのですから、相馬義胤はその場で切腹では…と思いきや、石田三成が、どういうわけか秀吉をとりなし、義胤は罰せられる事もなく済みました。
小田原攻めが終わると、義胤は秀吉と共に京都に赴き、妻子を京都に置くように命じられ受け入れます。それにより1591年義胤は小高城への帰還を許されました。
さて、翌年、天下を統一した秀吉は朝鮮出兵の軍を起こし九州の名護屋に全国の諸大名の軍勢を招集します。ところが義胤は生憎病に倒れて、「申し訳ないが病で参陣に間に合わない」と病欠届を秀吉に提出しました。
同じ頃、島津歳久も中風で倒れ朝鮮出兵に応じませんでしたが、秀吉は激怒して、島津義久に命じて討伐しています。これは、いくらなんでも義胤の運命もここまでか…と思いきや、またしても石田三成が秀吉にとりなし許されてしまいました。
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こうして2カ月後、病が癒えてから名護屋に参陣した義胤に秀吉は
「病み上がりじゃと言うに、はるばる奥州から参陣とは、でらあご苦労なことだぎゃ」と褒め称え、
上機嫌で数々の労いの品々を与えたそうです。
義胤はその後、京都に在住し1596年に小高城へと戻りました。そして、1598年には牛越城を築城して、新たな居城としています。
関ケ原で中立を貫いた罰で領地没収
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いが勃発します。
この戦いで伊達政宗は東軍につき、相馬義胤にも東軍から誘いがかかりましたが、義胤は石田三成と仲が良かったので、最後まで中立の立場を取り戦争に参加しませんでした。
それから暫く、東軍の徳川家康からは、何の沙汰もなかったのですが、1602年に佐竹義宣から家康の命令を記した書状が届きました。
「私は石田三成と結んでいたので、所領を没収され秋田への転封を命じられました。そして、義胤殿については佐竹氏の親戚一門であるという理由で領地全てを召しあげるとの命令が出ています」
これを見た、義胤と家臣は大いに驚きますが、いまさら叛く事も出来ず、家臣と協議した結果、会津の蒲生秀行の下に身を寄せる事にします。
この頃、義胤は蒲生秀行と面識は無かったようですが、少し話し合っただけで秀行は義胤の人格に魅了され入魂の間柄になってしまったそうです。
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嫡男、利胤の活躍で領地が戻る
しかし、ここから義胤の嫡男、利胤の活躍が開始されました。江戸の幕閣に何のツテもない利胤ですが、義胤の古い友人を訪ね歩いて大身旗本の島田重次を紹介してもらい、これに頼って何とか本多正信に繋ぐ事に成功します。
利胤は直接、家康の懐刀である本多正信に書状を出し、
「義胤は三成と懇意であり、太閤にも恩義があったので、西軍についても不思議はない状態でした。それでも義胤は義理を立てて西軍には加担していません。
義胤が西軍に参加しないだけでも東軍には計り知れないメリットがあったのではありませんか?そのような義胤の心情を少しも考えずに領地没収などとやられては、同じく関ケ原で中立を貫いた諸大名は徳川を見限り忠勤に励む事はないでしょう。」このように遠慮なく家康の非情さを非難しました。
実は本多正信も、相馬義胤を東北に残し、伊達政宗に備えるようにしたいと考えていて、家康や秀忠にもその点を強調し、家康も政宗を抑えられるなら宜しいと相馬氏の領地没収を取りやめたのです。
ここでは義胤の長年の伊達家との確執が相馬氏を生き延びさせる事に繋がりました。
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嫡男利胤の死を乗り越え87歳で大往生
領地を安堵された義胤は1608年に家督を利胤に譲り隠居します。その後も1615年の大坂夏の陣では、70歳を超えた老体に鞭打って大坂へと出兵しますが東北から近畿は遠く、義胤が到着する前に大坂夏の陣は終結していました。
しかし、義胤の悲劇は続きます。嫡男の利胤が義胤よりも早く1625年に病死してしまったのです。そのため義胤は僅か6歳の孫、虎千代の家督相続を江戸幕府に要請しました。
この時代、幕府は外様大名の改易を頻繁に行っていて急な家督相続は取り潰しの対象でしたが、義胤については認められます。
すでに77歳になった義胤は幼い虎千代の後見人として、さらに10年もの間、現役で政治を見続けました。そして1635年、ようやく16歳になった虎千代と家臣たちに遺言と訓戒を残し、87歳で大往生を遂げたのです。
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戦国を男気で切り抜けた一級の武人
相馬義胤は戦争には滅法強いものの謀略が全然出来ず、その為、戦で勝利し謀略に負ける形で、権謀術数が多い伊達政宗に追い詰められていきました。
それでも義胤は、何度政宗の謀略に煮え湯を飲まされようと、汚い事をして勝つくらいなら討死した方がマシという態度を貫いたそうです。
天正16年(1588年)相馬義胤が、伊達派と相馬派に分裂した田村氏を掌握しようと、田村氏の本拠地、三春城に入城しようとして、伊達派の田村月斎等の銃撃により阻止され、多くの家臣を失って船引城まで退却し、さらに伊達政宗の軍勢に窮地に追い込まれた時がありました。
この時、相馬派の田村家臣大越顕光の小舅にあたる甲斐守が、「伊達派の田村月斎や橋本顕徳の妻子を城下で人質に取れば、必ず三春城を明け渡すはず」と進言します。
しかし義胤は納得せず
「男のいない屋敷に押し入り女子供を人質に取るなど卑怯で恥ずべき振る舞いだ
敵がこのまま襲ってこれば、潔く切腹するまでである」と言って進言を退けました。
いかな窮地にあろうと、正々堂々とした態度を失わなかった義胤らしい逸話です。融通の利かない頑固で損な性格ですが、こんな性格だからこそ、裏表がない義胤に好感を持ち便宜を図る石田三成や、蒲生秀行、本多正信のような人も出てきたのでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
武士道精神を絵に描いたような武将、それが相馬義胤と言えるでしょう。その長い生涯を見ても、計略らしい計略を用いた様子もなく、ひたすらに己の武勇を頼んで、それでダメなら腹を切るというシンプルな人生を貫きました。
普通に考えれば、こんな単細胞なお人好しはすぐに滅亡してしまいそうですが、戦の神に愛されたのか、多くの徳を積んだのか窮地にあっても様々な人物に救われ、とうとう天寿を全うしてしまいます。ここも戦国時代の面白い点ですね。
参考:Wikipedia
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