人の不幸は蜜の味と言いますが、戦国時代においては、ライバルの不幸は精神的な快楽だけでなく、実質的に領地が増える事を意味していました。強力なライバル大名の失墜は、他の大名にとってのかきいれ時だったのです。
今回は関東の大名、武田信玄と北条氏政で、不幸に乗じた勢力拡大を見てみましょう。
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桶狭間を契機に100万石大名になった武田信玄
武田信玄と言えば、赤一色の武田騎馬軍団を連想しますが、1541年から執政を開始した信玄の当初の領土拡張は信濃侵攻がメインでした。
こうして、1554年頃には北の1/3を除いて信濃を領有しますが、その残りの1/3の境目で起きたのが五次にわたる川中島の戦いです。
最近の研究では信玄の本当の狙いは信濃ではなく、その先にある越後の良港、直江津と柏崎だったとも言われますが、上杉謙信は強力で川中島で膠着状態になり、合戦多くして利益少なしの状態が続きました。
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桶狭間後、駿河、遠江、上野を支配
しかし、永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると状況は一変。徳川家康が織田信長と結んで三河を回復して遠江に侵攻すると、武田信玄も三国同盟を破棄して、駿河に攻め込んでいきます。
信玄は名将、長野業盛の死去に付け込んで上野も制圧。念願だった駿河の海を手に入れて、武田水軍を創設し、石高も100万石に到達しました。
信玄の勢力拡大は、ある程度、織田信長のクリティカルHITのお陰とも言えます。もちろん、だから信玄が卑怯だというわけではありません。油断のあった今川義元の失敗だったのです。どれだけ同盟を強調しても、隙があれば食われるというのは、今川義元だって重々承知していた事だったでしょう。
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本能寺の変に乗じた北条氏政
相駿甲三国同盟を締結していた後北条氏ですが、北条五代で最大版図を築いたのは、3代目の北条氏康…ではなく、何故か暗君扱いされる事が多い北条氏政です。イラストは、桶狭間直後の北条氏の版図ですが、上野の半分と武蔵、相模、伊豆の3.5ヶ国です。
これでも100万石以上ありますが、豊臣秀吉が小田原征伐に出て来た時期に比較すると、まだ版図が小さい状態である事に気が付きます。
北条氏政はこの状態から、本能寺の変を利用し、さらに3ヶ国以上も領地を拡大していくのです。
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天正壬午の乱で勢力を拡大
北条氏政が勢力を拡大したのは、天正10年(1582年)本能寺の変で信長が横死した後でした。
それまでに織田家の武将、滝川一益は武田勝頼を滅ぼして、その広大な領域を織田領とし、関東管領として振る舞っていたのですが、信長の死でその地位が危うくなります。
表面的には、本能寺の変後も滝川一益と協力していた氏政ですが、やがて対立関係となり、滝川一益を大軍で攻撃。敗走する一益を追って碓氷峠から信濃に侵攻し、真田昌幸、木曾義昌、諏訪頼忠を味方に取り込んで支配を固めました。
さらに、氏政は徳川家康傘下として旧武田兵を集めて決起した依田信蕃等を討って小諸城に駐屯、信濃東部から中部にかけて支配しました。
徳川家康も滝川一益の敗走を受けて、旧武田領を支配しようともくろみ、真田昌幸を調略するなどして、北条氏政と対立。天正壬午の乱が起きます。
天正壬午の乱は、次第に氏政の形成不利となり、結局、氏政は甲斐と信濃を徳川領、上野国を北条領とする事で合意しました。その後も氏政は天正13年(1585年)下野国の南半分を支配し、常陸南部にも勢力を拡大、本能寺の変を契機とした火事場泥棒的な勢力拡大で、氏政は相模、伊豆、武蔵、下総、上総、上野、常陸、下野、駿河の一部に及ぶ240万石の最大版図を得たのです。
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戦国大名最大石高を誇った氏政
小田原征伐で豊臣秀吉の軍門に降り、評判が落ちた氏政ですが、本能寺の変という千載一遇のチャンスを逃がさず、武田や織田の不幸を電撃的征服により、北条氏の幸福とした点に、非凡な名将の素質を感じます。北条氏政の石高、240万石は天下人豊臣秀吉の220万石を上回っていて、石高だけ見れば、後北条氏は戦国のチャンピオンでした。
だからこそ、秀吉は懐柔して機嫌を取らずに武力で屈服させて、領地を大幅に削ろうと意図したのでしょうが、それは、それだけ北条氏政の力量を恐れていたという事だと思います。
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日本史ライターkawausoの独り言
戦国時代は100年以上も続き弱者は淘汰され、強者同士で合従連衡と血みどろの戦いが繰り返されました。このような状況では一気に勢力の拡大を目指すのは難しいので、隣国大名の討死や後継者争いのような人の不幸を、いかに利用してのし上がるかで、戦国大名の力量が試されます。
その中で上手くやったのは武田信玄と北条氏政ですが、信玄に関してはなりふり構わない調略で三国同盟を破綻に追いやり、嫡男義信を死に追いやるなど悪名を拭う事が出来ず、それが武田家滅亡の遠因にもなったので、やはり一番の火事場泥棒は北条氏政という事になるかも知れません。
参考文献:お金の流れで見る戦国時代 kadokawa
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