皆様は、有名人物の座右の銘や、口癖のようなものに興味を持つことはないでしょうか?
自分でも口癖にしてみたり、もしくは自分自身の座右の銘にしてみたり、そんな経験はありませんか?
成功した人の、先達の言葉に感銘を受け、更にそれを自分の向上心として取り込むのは素晴らしいことです。さて、最近良く聞かれるのが「武田信玄の座右の銘は?もしくは武田信玄の口癖は?」というもの。
元々戦国時代を代表する有名な歴史上の人物ですが、近年は更に注目を浴びている武田信玄。今回はその信玄公の名言を踏襲しつつ、それとどう向き合うか、お話したいと思います。
この記事の目次
武田信玄の戦に関する名言の一つ!その意味とは?
「もう一押しこそ慎重になれ」
この言葉は武田信玄が自分自身に言い聞かせたとされる名言の一つです。意味は「もう少しで物事を成し遂げるという時にこそ、慎重になるべきである」という意味。物が出来上がる、目標が達成される、そういう時にこそ気が緩み、大きなミスを犯してしまいがち。そんな時に気を引き締めるためにも使いたい言葉ですね。しかしこの言葉、どんな時に生まれた言葉なのでしょうか?
「もう一押しこそ慎重になれ」は一体どんな戦いの中で生まれた?
「もう一押しこそ慎重になれ」と言う言葉は、天文17年、1548年に起こった上田原の戦いの後から、武田信玄が己自身に刻み付けるようになったという名言の一つです。
この上田原は信濃国の上田原、現代の長野県上田市にて行われたとされる、武田信玄と村上義清との戦いです。実は武田信玄は家督を継ぐに当たっても実父とのあれそれがあったのですが、何とか家督を相続してからは信濃の制圧を目指していました。瀬沢の戦い、桑原城の戦い、宮川の戦いなどの戦いを繰り広げつつも、そのどれもに勝利した武田信玄は連戦連勝、その中で起きたのが上田原の戦いです。
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負け戦を経験した武田信玄が言った言葉とは?
この上田原の戦いで武田信玄は敗北、自身も負傷をし、更には武田家の忠臣家老とも言える板垣信方、甘利虎泰を失ってしまいました。もちろん村上義清の方にも被害は出ていましたが、筆頭格の重臣を失った武田方、武田信玄の心痛はいかほどのものだったでしょうか。ここで生まれたのが「もう一押しこそ慎重になれ」。何かを成し遂げられると思った時こそ、己を戒めるべきである。武田信玄は身をもってそれを知ったのかもしれませんね。
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あの織田信長も自分を戒めていた?残した言葉から察する心中
ここでちょっと触れたいのが織田信長の名言
「絶対は絶対にない」
というものがあります。これは「物事に絶対などということはない、絶対に大丈夫、そんなことを思った時点で隙ができる」という意味とされ、武田信玄同じく自分を戒めるための言葉。同じ時を生きた戦国武将、常に油断との戦いだったのかもしれません。
とはいえこの言葉「絶対」をどうとらえるかによっても変わってくるように、実は
「絶対にできないなんてことはない!」
という己への鼓舞ともされています。どちらの場面で使うか、それによってその人の性格が少し見えてきそうです。
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武田信玄の名言や格言は他に何がある?努力に関する格言!
さて武田信玄の話に戻りまして。この武田信玄、もちろん様々な名言を残しています。その全てが戦に関するものという訳ではなく、寧ろ日常、日々の過ごし方に付いて大事なことである「努力」に関する名言も残しています。その内の一つが
「一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳ばかり出る」
という言葉です。この言葉はどのような意味なのでしょうか。
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「一生懸命だと知恵が出る」とはどういう意味?現代でも通じる名言!
「一生懸命だと知恵が出る」とは、何かに真剣に取り組むことで、その目的を達成するために様々な知恵が湧き、より物事を成し遂げる一歩を進みやすくなること。「中途半端だと愚痴が出る」とは、物事に向かう姿勢が中途半端なものであると、達成されないことへの不満や辛さから愚痴ばかり湧き出てしまうこと。「いい加減だと言い訳ばかり出る」とは、その姿勢がいい加減であると成し遂げられなかったことに対して周囲へ言い訳ばかりしてしまう……ということですね。
これは現代にも十分に繋がる言葉です。何かを成し遂げるためには、それに対する姿勢、努めて力を手向けること……つまり、物事に向かう努力こそが何よりも大事だと言っているのです。
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武田信玄の大事にした努力に関する名言「実力の差よりも努力の差」
さて、正範語録には同じく武田信玄の努力に関する名言があります。その一部が「実力の差より努力の差」……これはどういう意味でしょうか。何かを成し遂げた人を見ると「実力の差が大きい」なんてことを思うことはないでしょうか?「そもそも生まれ持った力が違うのだ」と言い訳をしていませんか?
重要なことですが、成功した実力のある人が「努力をしていない」ということはほぼありません。実力のあったとしても、成功した人はみんな努力をしています。もっと言うと、実力の差があるというならば、尚のことその差を努力で埋めることが重要とも言えるのです。
武田信玄は名家、武田家に生まれ、更に長子、家臣も認めた優秀さ……にも拘わらず、実父に冷遇され、やっとのことで武田家を継ぎました。恵まれた環境下に生まれて尚、何よりも何かを成し遂げる努力こそが大事であると、武田信玄は知っていたのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
武田信玄は若かりし頃、今川に嫁いできた姉から贈られてきたたくさんの貝殻から「合戦で大事なのは数が多いことではなく、数が多く見せること」と閃いたという話があります。このことに家臣たちは感服したとされていますが、そんなことから閃きを得るような才覚に加え、それでいてその閃きを活かすにはどうするか、常に思考を巡らせていたのかもしれません。それこそが「一生懸命であること」だったのではないでしょうか。
このことは私たちも胸に刻み、何かの目的のために「一生懸命」であること、それが何かを成し遂げ、功を得るために大事なことであると、何度も振り返っていきたいですね。どぼーん。
参考:甲陽軍鑑 勝山記 正範語録
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