「猫を殺せば七代祟る」と言われるように、猫は執念深く、恨みつらみ、そして同時に恩もまた忘れないとされる動物です。今回はそんな猫が引き起こした鍋島家に猫の怨念が祟る恐ろしい出来事、鍋島家化け猫騒動のお話をいたしましょう。この話、そもそもは鍋島家、そして龍造寺家のお家騒動が根幹にあります。
一般的に言われる、鍋島騒動とは?その辺りについてもお話していきましょうね。
この記事の目次
全ての発端は、嘗ての佐賀藩に起こったお家騒動?
さて恐ろしい化け猫騒動が起こったのは、鍋島光茂が佐賀藩を治めていた時の事。
嘗て、佐賀藩を治めていたのは龍造寺家でした。当主、龍造寺隆信が嫡男、政家に家督を譲るも、実権は隆信にありました。これは生来、政家が病弱であったためとも言われています。しかし沖田畷の戦いで隆信は亡くなり、龍造寺家の重臣であり、従弟で義弟でもあった鍋島直茂が仕切っていくこととになります。この時、鍋島直茂は龍造寺政家に「子である高房様が成人したら家督を戻す」と約束するも、この約束は果たされることはなく、失意のまま龍造寺高房は自害してしまったのでした。
「待った」「待たぬ」から始まった悲劇とは
さてその後、龍造寺高房の血筋はか細くも未だ残されておりました。その子こそ龍造寺又七郎という男子です。母と二人で慎ましく生活していたこの男子、ある日当主の鍋島光茂の碁の相手をするようにと城に呼ばれるのですが……城に呼ばれたっきり、戻ることはありませんでした。
これには複数経緯がありまして、碁の勝負で待った待たないと白熱してしまい、怒りで光茂が切り殺してしまった説。負けるようにと言われていたのに勝ってしまい、やはり殺された説。そもそも最初から碁を理由に殺す予定だった説……色々ありますが、又七郎は二度と母の元に戻ることはなかったのです。
母の血と怒り、怨念が猫を化け猫に変える
この母親、一匹の猫を飼っておりました。名前はこまと言って、大事に世話をされていたと言います。このこまがある雨の夜に、咥えて帰って来たものをみて母親は悲鳴を上げました。それは切り落とされた又七郎の首だったのです。我が子を殺されたこと、お家の再興も絶たれたこと、そして全てを奪った鍋島家への怨みから母親は城を睨み、呪詛を吐きながら懐剣で胸を突いて自害しました。その怨みを聞き届けたかのように、流れ出した血を舐めとって、こまは姿を消したのです。
現れた化け猫、鍋島家の忠臣に退治される
それからというもの、鍋島家城内で奇々怪々な死亡事件が増え、当主である鍋島光茂も病に倒れました。愛妾であるお豊の方が懸命に看病するも、病気は快癒に向かわず。
これを怪しんだのが鍋島家忠臣、小森半左衛門。夜更けに部屋を覗いてみると、お豊の方が行燈の油を舐めているではありませんか!実は本物のお豊の方は既に喰い殺され、化け猫に成り代わられてお家を祟っていたのです。ここから光茂を殺して主の仇を討とうとする化け猫、それを命をかけて主を守ろうとする忠臣の斬った張ったの大立ち回り、見事小森は化け猫を倒し、これにて鍋島化け猫騒動は終わりを迎えたのでした。……というのが、鍋島化け猫騒動という、伝説のお話です。そしてこれは鍋島家のお家騒動である、通称鍋島騒動が下敷きとされていると言いますが……。
実際には「鍋島騒動」は起こっていなかった!?
さて実際のお家騒動ですが、龍造寺家に鍋島家が取って代わったというのはある種、事実です。前述したように、政家は病弱で政務が取れず、家督は五歳の高房が継いでいました。これに口を出してきたのは豊臣秀吉、彼の承認の元、実権は鍋島直茂とその子、勝茂に握らせられることになりました。ここで鍋島直茂は高房が成人した際に実権を戻す証文を書いたり、高房を直茂の養子にするなどの処置も龍造寺家、鍋島家で取ったのですが、朝鮮出兵、関ヶ原などで鍋島家が功を立てたこともあり、幕府も高房が藩主に戻ることを認めることはありませんでした。
火のない所に煙は立たぬ、それとも煙は立てられたか
これにより高房は乱心、二度に渡って自害を試みて死亡、それを聞いた政家も病死。このため正式に鍋島家が藩主を継ぐことが幕府、また龍造寺一門も認めるも、あくまで龍造寺家を立てようとした直茂はこれを受けず、息子の鍋島勝茂が藩主となることになるのでした。お家代替わりはあくまで穏便に、家一門と幕府、他家臣の承認もあって受け入れられてのことだったのです。
しかしこの後、高房の亡霊が夜中に城をうろつくという噂が。更に鍋島直茂が重病で苦しんだ末に病死。更に更にと勝茂の子が亡くなるという不幸がタイムリーにも起こってしまいます。これを背景に「龍造寺家が鍋島家を呪った」というお家騒動ネタが広まっていったのではないでしょうか。
鍋島家と龍造寺家の行末
さてもう一つ、鍋島騒動の後押しをしてしまった一件を。後に高房の子の一人(認知はされていなかった御様子)が鍋島家から龍造寺家を取り戻そうと、徳川家光の時代に幕府に再三の訴えを出しました。しかし既に佐賀藩は鍋島家が手際よく治めており、もはや幕府も今更ことを荒立てて欲しくはない、という意向だったのでしょうか、これは認められず。結局最終的に彼は会津藩にて預かりとされて終わっています。
この辺りも「鍋島家は幕府に取り入って龍造寺家の正当な後継者を追放したんだ!」という庶民の憶測を呼び、鍋島化け猫騒動、及び鍋島騒動が実際に起こったことのように扱われてしまったのでしょうかね。恐ろしくも厄介な、化け猫騒動のお話でした。
戦国ひよこライター センのひとりごと
鍋島騒動は結局のところお家騒動であり、下手をするとお家取り潰しの可能性もあったと思うのですが、その点は見事に避けて鍋島家、及び龍造寺家は家を守ることに成功しました。元々鍋島家は龍造寺家から娘を嫁に貰って鍋島直茂が生まれ、更に龍造寺隆信の母親は直茂の父親と再婚してまで鍋島家を取り込む形で龍造寺家を守る形を取っています。
化け猫騒動のお話が広まってしまったため鍋島直茂は実はお家乗っ取りを企んでいた陪臣のように言われることもありますが、実際には良く龍造寺家を立て、お家に尽くした名臣の一人だと筆者は思っていますね。佐賀化け猫騒動と、その顛末のお話でした。
どぼーん!
参考:日本伝奇伝説大事典
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