戦国時代

明智光秀が苦戦した丹波はどんな国?

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NHK大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』、いよいよ本能寺まで秒読みという感じですが、この終盤に明智光秀(あけちみつひで)は丹波を攻略し、織田信長(おだのぶなが)より丹波(たんば)一国を丸々与えられます。

 

しかし、この丹波攻めは光秀の戦いでもとりわけ困難な戦いでした。そこで、今回は麒麟がくる雑学として光秀の丹波攻めを詳しく分かりやすく解説します。

 

丹波攻めを時系列で解説

軍旗

 

ではここで、明智光秀の丹波攻めについて時系列で解説します。

 

年号 西暦 出来事
天正(てんしょう)3年 1575年7月 氷上(ひかみ)郡の赤井直正(あかいなおまさ)を標的とし
周囲の豪族を味方につけつつ進撃
天正3年 1575年10月 赤井直正の居城黒井城を包囲。
天正4年 1576年1月 八上城主波多野秀治(はたのひではる)が謀反。
明智光秀、命からがら退却。
ほとんどの丹波国人が織田信長から離反。
天正5年 1577年頃 丹波亀山城を築城し、拠点を余部城(あまるべ)から移す。
天正5年 1577年3月 八上城を包囲し兵糧攻め。
天正6年 1578年4月 園部城攻略。赤井直正病死。
天正6年 1578年6月 八上城落城。(1年3ヶ月)
天正7年 1579年7月 宇津城を攻略。同月、丹後弓木城を攻略丹後平定。
天正7年 1579年8月 黒井城を攻略。
天正7年 1579年9月 国領城攻略。丹波平定。

 

このように明智光秀は、一度丹波攻略に失敗し、天正5年には拠点となる丹波亀山城を築城。そこから慎重に兵糧攻めを行い、4年以上の歳月を掛けて攻略に成功しました。

 

かなり苦労した丹波攻略ですが、その分信長の評価は高く光秀は、丹波26万石を与えられます。

 

丹波とはどんな国?

 

丹波は、京都に近いことから、平安時代から寺社の荘園が多く造られました。地形は山がちで外からの干渉を受けにくいために荘園の解体も進まず、各地に国人が割拠(かっきょ)して争っています。

 

その為、26万石の領地に金山(きんざん)、上原、塩見、足立、芦田、志賀(しか)上林(うえばやし)川勝(かわかつ)、大槻等、18もの有力な国人が割拠。明智光秀が丹波を平定するまで、強力な戦国大名が育ちませんでした。

 

信長包囲網を築き織田信長の邪魔をする足利義昭

 

信長の上洛後は、丹波国人は一部を除いて足利義昭(あしかがよしあき)派であり明智光秀に表面上は従いながら内心では嫌っているという状態だったようです。特に、八木城の内藤氏、八上城の波多野氏、黒井城の赤井氏が、反織田を標榜し明智光秀を苦しめる事になります。

 

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丹波攻めの理由

Changan(長安)

 

どうして織田信長が丹波にこだわったのか?

 

その理由は、ここが京都に隣接している土地だからです。京都の目と鼻の先に、状況次第で敵にも味方にもなる独立した有力国人が18もあり、さらには自分ではなく足利義昭にシンパシーを持っている連中が多い。また丹波は山だらけで守るに有利で攻めるのは大変、こんな状態の土地があれば信長でなくとも平定しようと思うでしょう。

 

mituhide-aketi-honouji(明智光秀の本能寺の変)

 

そして信長にとっては皮肉な事に丹波を攻略した明智光秀は、丹波亀山城から防備の手薄な京都本能寺を急襲し信長の天下統一を阻んでしまうのです。織田信長はある意味、丹波に泣いたという事も出来るでしょう。

 

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一度目の丹波攻略

明智光秀を泣かす赤井直正

 

天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠(ながしの)の戦い、越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)殲滅戦(せんめつせん)に参加した光秀は丹波攻略を任されます。丹波国は足利義昭についていましたが、信長が足利義昭を追放した結果、丹波国人が信長から離反したのです。

 

そこで信長は、丹波を攻略して支配下に収める事を目論み、明智光秀に攻略を命じました。特に、氷上郡の国人、赤井(荻野)直正が信長に対して曖昧な態度を取っていたので、明智光秀に命じて牽制させる目的があったようです。

 

 

しかし、順調に見えた丹波攻略は、天正4年1月に八上城の波多野秀治が赤井直正に内応、丹波黒井城を包囲していた明智軍は、四方から攻められ大敗します。こうして、一度目の丹波攻略は失敗に終わるのです。

 

二度目の丹波攻略

 

天正5年、明智光秀は再度、丹波攻略に取り掛かります。前回、裏切りにより大敗を喫した事を教訓とし、光秀は丹波最強の敵を八上城の波多野氏と赤井氏と定め、前線として亀山城を築城。

 

注意深く丹波国人を調略して味方につけ、従わない国人をプチプチと潰しつつ、一歩一歩進軍していきます。天正5年3月には八上城を包囲し兵糧攻めにし、以後は信長の要請で各地を転戦しつつ、丹波に戻るを繰り返しながら、兵糧攻めを継続させました。

 

光秀は各地の戦いに引っ張りだされ、丹波攻略を留守にする事が多かったので、天田郡には福知山城を築城して娘婿の明智秀満(あけちひでみつ)を置いています。

 

それらの努力により、天正6年6月には八上城が力尽き陥落。さらに1年1ヶ月をかけて宇津城を攻略。同月、丹後弓木城を攻略して丹後を平定。翌月には、因縁の黒井城を陥落し敗戦の雪辱を果たしました。

 

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丹波を発展させた明智光秀

正装した明智光秀

 

光秀は丹波攻略を信長に高く評価され、丹波一国を丸々与えられました。これまで、多くの国人に分かれて割拠していた丹波は、これを契機に光秀の手で一括して治められる事になります。

 

光秀は丹波攻略と同時に不要な拠点を廃棄し、一方で亀山城や福知山城のような近代的な城郭を建設。城下町を整備し、商業の発展のために地子銭(じしせん)を免除し、城下町建設で出た土砂を使用して堤防を築きました。

 

このように、丹後の発展に寄与した光秀は善政を敷いて、庶民から讃えられています。

 

nobunaga-oda-Honnoji(本能寺の変の織田信長)

 

国持大名になった光秀ですが、この頃から織田信長との関係はギクシャクし、丹波平定から3年足らずで本能寺(ほんのうじ)の変を引き起こし、やがて敗者として歴史の闇に消えていく事になりました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

丹波攻略は光秀らしさが出た戦いであるとも言えます。失敗するとその原因を徹底的に分析して次の戦いに活かし、粘り強く戦い続けて最終的には勝利に繋げてしまう。謀反人になってしまったとはいえ、明智光秀は戦国時代でも屈指の名将であると言えるのではないでしょうか?

 

参考:Wikipedia他

 

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