戦国時代屈指の大悪人、あるいは茶釜ボンバーマンとして名が轟く松永久秀。
最近では、実は大悪党ではなく、主君に対しては忠節を尽くし文化人の側面もあったと言われていますが、悪の花が1つ枯れてしまったようで残念な気がします。そんな松永久秀の運命をも左右したのが、一時は全域を支配していた大和国でした。
今回は、戦国時代でも特殊な大和国について解説します。
この記事の目次
守護大名がなく興福寺が治める大和国
大和国の特殊性は、この土地が守護大名の治める土地ではなかった点からもうかがえます。事実上の大和の守護は平城京の時代から、大和に地盤を持つ南都興福寺でした。
戦国時代には、家督争いを防ぐために嫡男以外は、寺に入れて出家させる習慣がありましたが、興福寺は畿内各地の有力な大名の次男三男を受け入れていたのです。興福寺のような大きな寺には武装した僧兵もいてセキュリティも万全であり、大名は安心して我が子を預ける事ができました。
戦国大名は、見返りに興福寺に財産や土地を寄進、両者はウィンウィンの関係でした。このような事から戦国大名も興福寺には存続してもらった方がメリットがあったのです。
興福寺と衆徒・国民
前述した通り、大和国の支配者は興福寺でした。そんな興福寺は鎌倉、南北朝、戦国と続く戦乱の中で僧兵ばかりではなく大和に土着する地侍のような国人を俗人のまま僧侶に任命し、興福寺に忠誠を誓わせるようになります。
これを衆徒と言いました。そのような衆徒となった国人の代表には古市氏や筒井氏がいます。一方で、同じく大和に地盤を持つ春日社も、十市氏や越智氏を俗人のまま僧侶として迎え入れますが、これを国民と言います。
こうして権勢を誇った興福寺ですが、平安時代末から大乗院門跡と一乗院門跡の間で、どちらが勢力を握るかの争いが繰り返され、衆徒や国民となった国人達も否応なく争いに巻き込まれました。その混乱で興福寺は鎌倉幕府の介入を許す事になり、次第に影響力が落ちて支配下の在地国人が興福寺の実務を握るようになっていくのです。
大和四家
室町時代に入り衆徒の代表的存在となったのが筒井・古市氏でした。これに、春日社の国民の代表として越智・箸尾氏が加わり「大和四家」と称され、戦国の大和で、覇権を争う存在となります。
この四家の中から、やがて興福寺衆徒の筒井氏と春日社の国民越智氏が抜け出し、応仁の乱では筒井氏が東軍、越智氏が西軍について争い、他の衆徒や国民も巻き込まれていきます。
以後、筒井氏と越智氏は、反目したり、共闘したりを繰り返しますが、京都上洛を果たした織田信長に取り入った筒井順慶が一歩抜きんでていき、大和国の支配を任されます。越智氏は本能寺の変後に部下に殺害されますが、その黒幕は順慶であるようです。
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松永久秀と大和支配
オレンジ色は三好領8ヶ国
大和四家の中で勢力を誇っていた筒井氏ですが、天文19年(1550年)に筒井氏の当主だった筒井順昭が29歳で死去、当主には僅か2歳の順慶が立ちます。
三好長慶の重臣だった松永久秀は、この機会を逃さず永禄2年(1559年)河内国遠征後に残党狩りと称して、8月6日に大和国に侵攻し、1日で筒井氏の本拠地筒井城を陥落、順慶を追い払いました。
その後も久秀は快進撃を続け、永禄3年には興福寺を破って大和を統一し大和北西の信貴山城を本拠地とし、その後、大和と山城の国境に多聞山城を築城します。
こちらの多聞山城は壮麗で見られる事を意識した造りであり、織田信長が安土城を築城する時の参考にしたとも言われます。
筒井順慶、三好三人衆を味方につける
しかし、順調に大和支配を固める松永久秀に逆風が吹き始めます。三好家の当主だった三好長慶が死去すると、今後の方針と主導権を巡り三好家家中で内紛が発生。永禄9年(1566年)には追放されていた筒井順慶が「敵の敵は味方」と三好三人衆と組んで、松永久秀に奪われた筒井城の奪還に動きます。
四方を敵に囲まれた松永久秀は順慶との戦いに集中できず、筒井城を奪い返されました。永禄11年(1568年)筒井順慶は、引き続き三好三人衆と共に東大寺大仏殿を要塞化し、松永久秀を迎え撃ちますが、戦いは大仏殿が燃え落ち久秀の勝利に終わります。
ただ、三好三人衆には四国に強い地盤を持つ三好氏の重臣、篠原長房が味方しており戦線は一進一退を繰り返していました。ところが、ここで両者の立場を逆転させる大イベントが発生します。織田信長が足利義昭を奉じて上洛する事に成功したのです。
松永久秀は信長の勢いを見抜いて、逸早く人質と名物九十九髪茄子を信長に献上して将軍足利義昭の直臣となります。この機転により、久秀は「大和切り取り次第」のお墨付きを得たのに対し、筒井順慶は足利義栄を擁立していた三好三人衆に引きずられ、織田信長への情報収集が疎かになっていました。
織田信長の援護を受けた松永久秀は大和の大部分を制圧。再び筒井城を攻め落とし、順慶は、叔父の下へ落ち延びました。
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松永久秀謀反で順慶と立場逆転
しかし、松永久秀は足利義昭が、宿敵筒井順慶に接近している事に不満を持ち謀反。武田信玄や荒木村重と結び、三好義継等と共に筒井順慶の辰市城に襲い掛かりますが、地元民の支持を受けた順慶に大敗しました。
こうして、久秀は再び筒井城を奪還され、信貴山城と多聞山城を分断されて窮地に陥り、結局、佐久間信盛に仲介を頼んで降伏します。一方で筒井順慶も、明智光秀を通じて織田信長に降伏していました。
このあたりは、麒麟がくるでも描かれましたが、筒井順慶が表面上、松永久秀とも円滑に付き合おうとしたのに対し、久秀は、元亀3年(1572年)早くも順慶打倒の為、今度は信長と不仲になった足利義昭と組み武田信玄の上洛を頼みに三好三人衆、そして三好義継と共に謀反します。
しかし、運は久秀に味方せず、武田信玄は上洛途中に病死、足利義昭も信長に敗れて追放。久秀は多聞山城を織田軍に包囲され、城を明け渡す事を条件に再び降伏しました。この間、筒井順慶は一貫して織田方についていて、信長の2人への評価は逆転します。
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筒井順慶に大和が与えられる
天正3年、大和守護職に塙直政が任命され、筒井順慶も松永久秀もその与力となりました。その後、塙直政は天正4年(1576年)石山本願寺攻めの途中で戦死。そして次の大和守護には、信長の妹か娘を妻に迎えた筒井順慶が選ばれます。
最後まで大和支配が認められなかった松永久秀は失望し石山本願寺に寝返り謀反。以後、信長の降伏勧告にも従わず、織田信忠の指揮する大軍の包囲を受け、城に火を放ち自害しました。
ついに松永久秀は大和を完全に支配できないままで終わったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
そもそも、どうして織田信長や足利義昭が松永久秀の大和支配を認めなくなったのか?
これは推測ですが、比叡山と違い当初から信長とは円滑な関係を築いていた興福寺が外来勢力の松永久秀の支配を嫌い、衆徒である筒井順慶の肩を持ち信長に働きかけたせいではないかと思います。
動乱が続いた大和国を治めるには、よそ者の松永久秀より、土着豪族で興福寺の衆徒として抜きんでた筒井順慶を置くのが最適と信長は考えたのかも知れませんね。
参考:Wikipedia等
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