日本史の教科書の近現代で必ず名前が出てくる満州事変。この満州事変の後に建国されるのが愛新覚羅溥儀を皇帝とする満州国です。しかし、満州事変は有名でも満州国について教科書で詳しく説明する事はありません。
一体、どうして日本は満洲に国を建国する必要があったのでしょうか?
今回は忘れ去られた日本の生命線満洲国について解説します。
満州はどこ?
満州は朝鮮半島の上部領域で、現在の中国では東北部と呼ばれています。
周の時代より粛慎という名の狩猟民族が住み、その後、牧畜を生業とする挹婁、そして農耕と漁労を営んだ靺鞨を経て女真が登場して満州と呼ばれるようになりました。
中国最後の王朝を興したのは、この満洲から出たヌルハチで明王朝を倒した後、一族を挙げて中国に移住して満洲は無人の荒野となります。これは、遠い将来、満州族が漢族に敗北した時に、先祖の地に戻って再起を図るためで、人の移住は許されず、満州は17世紀まで無人の荒野であり続けました。
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ロシアの南下
17世紀も後半になると帝政ロシアが南下の動きを見せ始めます。こうしてロシアと清朝との間で小競り合いが頻発しますが、1689年ネルチンスク条約が締結され国際的にも満洲が清の領土である事が承認されました。
清はロシアの南下を警戒して軍隊を駐屯させますが、19世紀後半になると清朝は弱体化し、ロシアは南下を開始。抵抗しきれなくなった清朝は外満洲地域をロシアに割譲します。以後は、清朝も無人政策を転換し満洲に漢族の植民を認めて広大な荒野を農地に変えていきました。
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日本の安全保障と満洲
日本は江戸時代を通じて260年間、制限貿易で通していて自給自足が出来ていたので、日本の外に領土は必要ありませんでした。
しかしペリー来航によって開国を余儀なくされ、西洋列強の植民地となる運命を回避する為には是非とも貿易を盛んにし西洋の進んだ軍事技術や医学を導入する必要が出てきます。
結果、経済が拡張して人口も明治の初期に3000万人だったものが明治末には5000万人を超えます。日本は近代化に必要な資源の多くを輸入し、輸出によって外貨を稼がないと膨大な人口を支えられなくなりました。
こうなると、何としても日本近海の航海の安全を守る必要が出てきます。制海権を他国に握られると日本は輸入も輸出も出来なくなり戦う前に敗北してしまう事になるからです。
日本は、アジア大陸で休みなく南下を続けるロシアを不安視して、南下に歯止めを掛けようと考え、日清戦争を起こして清の属国だった李氏朝鮮を独立させ条約を結んで保護国とし、日本の軍隊を大陸に駐屯してロシアを牽制しました。
しかし、ロシアは日本の制止を無視し南下を続けたので1904年日露戦争が勃発。日本はロシアに辛勝し、南樺太の領有権と大連や旅順のようなロシア軍の駐屯地を奪い、鉄道敷設権など満州の南半分の権益を確保します。
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シベリア出兵で満洲全域を占領
1911年、辛亥革命が起きて清朝は倒れ、中華民国が建国されます。
中華民国は清朝の領土を引き継ぐと宣言をして満州も中国領土としますが、すぐに孫文と軍閥の袁世凱との間で対立が生じ、中国は複数の軍閥が台頭する群雄割拠の時代に入り、満州でも馬賊上がりの張作霖が勢力を伸ばしていきました。
ロシア帝国は北満洲の権益を確保していましたが、第1位世界大戦の疲弊により国民の怒りが爆発。ロシア革命が起きてロマノフ王朝が倒れ史上初の社会主義国家ソビエトが誕生します。
すると欧州と日本は1918年から1922年にかけて、シベリア出兵で革命に干渉、日本は北満州と外満州の大部分、及びバイカル湖周辺までを占領しました。
しかし、1920年に欧州連合軍がシベリアから撤退した後も、北満洲と外満洲に駐屯し続ける日本軍に対して国際的な批判が高まり日本は1922年に北満州の占領を解除します。
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中華民国に脅かされる日本の権益
日本は日露戦争に勝利し権益を得た南満州に日本人を植民させます。同時に多額の国家予算を投じたので、不毛な土地だった南満州は次第に発展していきました。
ところが、満州領有を宣言していた中華民国の支配下の軍閥張学良は北満洲の権益をソビエトに握られた事もあり南満州の日本の権益を狙っていました。そして日本及び朝鮮系居留民を追い払い、正当な商売の権利を阻害、逮捕、投獄したり、税金を搾取するなど日露戦争で日本に認められた権益を無視し始めました。
日本政府は外務省を通じて南京政府に抗議しますが音沙汰なしで有効な対策を打てず、未解決の日中間のトラブル案件は370件に達し新聞は政府の弱腰を非難し、国民の不満は日に日に高まっていきます。
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満州事変の勃発
関東軍参謀、石原莞爾中佐は、トラブルの根源は満州が中華民国領になっている事だと見抜き、大規模な軍事行動により満州国を中国の影響下から切り離す空前絶後の大計画を立て速やかに実行に移しました、これが満州事変です。
関東軍は南満州鉄道の線路を爆破する柳条湖事件という自作自演をして、犯人を中華民国政府であるとでっち上げ、在満邦人を保護する名目で関東軍を出動。5か月余りの戦いで満州全土を制圧しました。
若槻礼次郎内閣が満州事変の不拡大を表明するなか、それを黙殺しての行動です。
しかし、日本国民は政府よりも圧倒的に関東軍を支持しました。
度重なる満洲権益の侵害に何も出来なかった政府に対し関東軍は数カ月で問題を根本的に解決したからです。
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満洲は日本の生命線になる
1932年3月1日、満州全土を制圧すると関東軍はラストエンペラー愛新覚羅溥儀を満洲国執政に即位させ満洲国建国を宣言します。
元々、満州は女真族の故郷であり、旧清朝皇帝である溥儀が執政となるのは何の不思議もないという考えからでした。やがて溥儀は執政から皇帝に即位し、日本政府も世論と関東軍の独走に引きづられる形で満洲国を全会一致で承認しました。
これに対し、中華民国は満州事変を関東軍の謀略であり侵略であるとして国際連盟に提訴しリットン調査団は、満州国建国を承認しませんでしたが、日本は国際連盟を脱退していきます。
国家として承認した満洲国と日本は条約を結び、関東軍はそのまま満洲国へ駐屯。
世界恐慌の影響で出た失業者や開拓団として満洲に渡った人々は数百万人に及びました。
また、満洲は石炭、石油、鉄、アルミニウムという近代戦争に欠かす事が出来ない豊富な資源を埋蔵していて、資源に乏しい日本が決して手放す事が出来ない生命線となっていきます。
こうして大東亜戦争の敗戦により滅亡するまで13年間、満洲国は実質上日本の傀儡として運命共同体となっていくのです。
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日本史ライターkawausoのまとめ
満州国建国は、日本の運命を決定づけました。例えば、日米開戦を回避すべく繰り返された日米交渉を日本が打ち切った大きな理由は、アメリカ側が日本の満洲領有を認めず、蒋介石の中華民国政府に返還するよう条件を転換させたからです。
すでに数百万人の邦人が生活し、多額のインフラ投資をした満州を簡単に蒋介石に返せと迫るアメリカに本気で戦争を回避するつもりはないと日本政府は判断しました。その後、真珠湾奇襲があり日本は4年に及ぶアメリカとの戦争に突入します。
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