戦国時代の琉球はどんな土地?日本の朝廷とは繋がりがないのになぜ幕府に琉球侵攻されたの?


沖縄そばを食べる関羽

 

戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は琉球を紹介します。日本では戦国時代だったころの琉球は、日本から独立した琉球王国。大陸の明と柵封体制(さくほうたいせい)を持っており独自に交易をおこなっていました。

 

そんなの琉球の状況を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国時代における琉球の人口

同年小録(書物・書類)

 

戦国時代当時の琉球王国の人口ですが、薩摩藩の島津氏(しまづし)による侵攻前については記録が残っていません。薩摩侵攻後に琉球から年貢を取るために、人口調査が行われたと推測されます。1600年代初頭の侵攻直後の人口は10万人程度で、1700年の初頭に15万人、1700年代中盤には20万人まで増加しています。

 

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ながら日本史

 

 

戦国時代の琉球を主に支配していた者・豪族

 

戦国時代に琉球を支配していたのは、主に次の勢力です。

尚氏(しょうし)

琉球は、按司(あじ)と呼ばれる小領主が、各地で跋扈(ばっこ)していました。やがて沖縄本島を三つの国の王よって支配される三山時代がやってきます。

 

その中の中山では英祖王統、察度王統と続きますが、南山の佐敷按司だったが尚思紹(しょうししょう)の子・巴志(はし)が武力で中山王・武寧(ぶねい)を滅ぼすと、1406年思紹が中山王になります。そして北山国、南山国を次々と滅ぼし、初めて琉球を統一しました。これが第一尚氏王統です。

 

この王統は7代続き、奄美群島など他の島を攻撃し支配していきました。7代目の尚徳(しょうとく)王の死去後、クーデターが勃発。重臣の金丸が、王の世継ぎに代わって王になることが会議で決められました。そして金丸が尚円(しょうえん)と名乗り、1469年から第二尚氏王統がスタートします。

 

3代目の尚真(しょうしん)の時代に中央集権化が進み、権力基盤を安定させました。そして歴代の王は奄美大島の反乱の鎮圧を積極的に行っています。転機が訪れたのは7代目の尚寧(しょうねい)の時代でした。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

この頃日本では豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下を統一。琉球国にもその影響が及んできます。秀吉は朝鮮出兵をする際に助勢を求める程度で、まだ大きな影響はありません。

 

ところが秀吉亡き後、関ケ原(せきがはら)の戦いで勝利した家康の時代になると、鹿児島の島津氏を通じてますます圧力がかります。1609年ついに琉球侵攻が行われ、形式上は琉球王国として残り、中国との柵封体制は残りますが、実質的には島津氏の支配下に入って明治維新を迎えます。

 

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応仁の乱から家康の天下統一までに琉球で何が起きていたか?

鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス(徳川家康)

 

応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に琉球で起きた主な出来事です。

 

  1. 1406年 尚巴志は中山国王・武寧を滅ぼし、父・思紹を中山王に擁立(第一尚氏)。
  2. 1416年 北山国が滅亡。
  3. 1421年 2代目巴志が南山国を滅ぼし琉球を統一。
  4. 1447年 4代目尚思達が奄美大島を制圧。
  5. 1469年 7代目尚徳の薨去後クーデターが勃発。重臣の金丸が即位(第二尚氏)。
  6. 1477年 3代目尚真の治世が50年続き、中央集権体制を確立する。
  7. 1500年 八重山の首領オヤケアカハチの乱が起こりこれを鎮圧。
  8. 1571年 5代目尚元の時代に琉球王朝の勢力が最大となる。
  9. 1588年 豊臣秀吉が九州討伐後に拝謁した島津義弘(しまづよしひろ)に琉球が臣従の礼を尽くすよう恫喝。
  10. 1590年代 秀吉が島津を通じて琉球に朝鮮出兵の助勢を恫喝。規定された兵糧米の半分だけ提出し、残りは島津が負担。
  11. 1602年 仙台藩に琉球船が漂着。徳川家康の命により琉球に送還。
  12. 1608年 島津家久(しまづいえひさ)、使者を琉球に派遣し家康に朝聘するよう依頼するも、強硬派の高官・謝名利山(じゃなりざん)は使者を侮辱。
  13. 1609年 島津による琉球侵攻により、江戸幕府からの間接支配を受ける。

 

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なぜ琉球は首都になれなかったのか?

 

戦国時代の琉球は、完全に独立した存在です。従って日本の朝廷とはつながりがありません。島津氏が攻撃して制圧したのも江戸時代に入ってからです。そのため独立した琉球王国としての首都は那覇にありました。

 

中国の明から冊封体制を受けた国家として、日本列島や大陸の諸国と交易をしています。島津氏が九州を統一しようかというほど巨大化してから、琉球が主に日本側から目をつけられるようになりました。

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

豊臣秀吉が本能寺(ほんのうじ)の変のころ、すでに亀井茲矩(かめいこれのり)に琉球を与える旨の書状を、琉球の与り知らぬところで発行。その後、1588年に謁見した島津義弘に対し、秀吉が「天下統一するも琉球だけが臣従の例を尽くさぬ」と言って圧力を強めたことがあります。

 

それでも独立を保っていましたが、関ケ原の戦いの後、島津が琉球攻撃の口実を探っていました。そして1602年に仙台藩に琉球船が漂流。翌年徳川家康の命により琉球国に返しました。そして謝恩使の派遣を求めましたが琉球王府は無視。

 

それが琉球侵攻の口実となり、幕府の命により島津は圧倒的な軍事力の差をもって、あっけなく占領してしまい、以降日本の勢力下に入りました。そのような経緯から、琉球が日本の首都になることはありえません。

 

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薩摩藩島津氏が琉球を支配したかった理由

琉球侵攻について、日本側。島津の思惑を紹介。これは関ケ原の合戦で家康に対立したことが理由のひとつにあげられます。

 

関ヶ原から撤退をする島津義弘

 

秀吉没後の流れで偶発的に西軍に入ってしまった島津義弘は、関ヶ原(せきがはら)本戦で、戦わずして家康本陣を横切って戦線離脱。その力を見せつけました。しかし家康はその島津をどうにかしようと兵を送ることも検討します。

 

しかし交渉の末、結果的には許され、本領を安堵。薩摩藩の立藩につながります。とはいえ敗戦による痛手には大きいものがありました。そこで藩財政立て直しのために、琉球の貿易利権に目を付け、手に入れたくて仕方がありません。また秀吉が起こした朝鮮出兵で、大陸の明と戦争状態だった日本の江戸幕府にとっても、どうにか解決の糸口をつかみたいと願っていました。

 

朝鮮王朝とは対馬の宗氏が対応。しかしそのバックにいる明との対応をどうするかと考えときに、琉球を通じてどうにか交渉できればという思惑がありました。ということで家康は、薩摩が要望を出していた琉球出兵を許可します。

 

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琉球の経済面について

宋銭 お金と紙幣

 

琉球王国の経済は諸国との交易でした。王国の王府が運営する国営貿易として、柵封体制のあった明への朝貢を中心に行っています。明からは中国産の陶磁器を入手すると、それを日本や東南アジアの諸国に輸出しました。

 

そして胡椒(こしょう)蘇木(すおう)など東南アジアの品や日本刀、扇子、屏風といった日本産の品を手に入れます。それを明に持参するようなことを行っていました。明は琉球王国に対しては優遇策を実施しており、無制限の朝貢頻度、大型外洋船の無償提供、朝貢活動を支える人材派遣、あるいは王以外の朝貢も許可しています。

 

具体的に那覇を拠点に、南のルソン、北の日本列島では鹿児島の坊津、博多、さらに堺、また朝鮮王朝の釜山にも足を延ばしています。そのほか中国大陸の福州に行き、陸路北京までの朝貢ルートと、そこから大陸沿いに南進。広州や交州・チャンパ(ベトナム)、タイのアユタヤ、さらにマレー半島のパタヤ、マラッカ、インドネシアのスマトラやジャワ島までと、広い範囲で交易をおこなっている記録が残っています。

 

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麒麟がくる

 

 

地震や津波などの自然災害について

 

琉球王国の自然災害で最も多いのは、毎年やってくる台風です。これは先史時代から続いていることもあり、台風に強い琉球建築で家を建てられていました。この建築方法は敷地の周囲に石積みの塀を巡らせ、屋敷林を植林します。

 

そして軒先が強風で煽られないように軒を低く構え、さらに屋根瓦を漆喰で固定。これで強風による瓦の飛散防止と建物の重量を増して、強風に耐えるように作られています。また地震や津波に関しては記録が残っていません。しかし江戸時代以降に地震が発生した記録が残っており、必ずしも地震とは無縁でなかったことがわかります。

 

江戸時代以降、具体的には次の記録が残っていました。

 

  1. 1664年硫黄烏島の地震
  2. 1667年八重山の地震
  3. 1687年沖縄の津波
  4. 1714年八重山の津波
  5. 1768年沖縄の地震・津波
  6. 1771年八重山・宮古の地震・津波
  7. 1842年宮古の地震
  8. 1852年宮古の地震・異常潮位
  9. 1863年不明の異常潮位
  10. 1867年宮古の地震
  11. 1882年沖縄の地震

 

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戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

戦国時代の琉球は独立しており、日本の戦国大名や東南アジアの諸国と同様に交易で成立していました。奄美大島から八重山諸島まで支配していましたが、日本の戦国時代が終焉を迎え、秀吉や家康の時代になり状況が変わります。薩摩の侵攻で間接統治を受けますが、それでも王国は存続し、諸外国との交易を続けています。

 

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Soyokaze

旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。
【好きな歴史人物】
蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王)

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