2021年NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は明治の実業家、渋沢栄一です。
しかし、幕末の志士ならともかく明治の実業家、渋沢栄一の生涯に馴染みがあるという人は少ないでしょう。実際、維新志士としての渋沢栄一は挫折の連続ですが、徳川慶喜に仕え幕末の偉人と多く交流しその回顧録も遺っています。
今回は、栄一と同じく明治日本の大実業家として活躍した世界の三菱の創業者、岩崎弥太郎と渋沢栄一の関係について解説しましょう。
岩崎弥太郎とは?
では、最初に三菱の創業者、岩崎弥太郎の生涯について簡単に解説します。
岩崎弥太郎は、天保5年(1835年)土佐国安芸郡井ノ口村、一ノ宮に地下浪人、岩崎弥次郎と美和の間に誕生します。弥太郎は頭が良く、学問で身を立てようと伯母が嫁いだ岡本寧浦について学び、安政元年(1854年)には江戸詰めの上役の従者として江戸に出て昌平坂学問所教授安積艮斎の見山塾に入塾しました。
しかし、翌年、父が酒席で庄屋と喧嘩して投獄、それを知って帰国し奉行所に無実を訴えますが、奉行所は庄屋に買収されていたので相手にされず、奉行所を謗る投書をして弥太郎も投獄されます。
失意の弥太郎ですが獄中で、商人から算術や商法を学び、商人の道へ進む事になりました。出獄後は才能を吉田東洋に見いだされ、後藤象二郎などの知遇を得、さらに東洋が土佐藩参政に抜擢されると仕え、長崎に渡って清国の海外事情を把握します。
土佐勤王党が吉田東洋を殺害し、実権を握ると不遇でしたが、土佐勤王党が弾圧され壊滅すると後藤象二郎に見いだされて開成館長崎商会主任として、欧米商人から武器、船舶や武器を購入し、逆に土佐藩特産の木材や樟脳、鰹節を販売し利益を上げました。
明治維新後は、九十九商会を立ち上げ、明治4年(1871年)土佐藩の払い下げの汽船3隻を購入、海運業を始めます。明治6年弥太郎は九十九商会を三菱商会に社名変更。台湾出兵では、外国商船が政治的中立を理由に政府の兵員と物資の輸送を断る中、積極的に政府に船を貸し兵員と軍需物資を運んで利益を上げ政商として成長。
西南戦争でも政府軍の兵員、武器、弾薬、物資の輸送を引き受け、会社を大きく発展させ、三菱の基礎を築きます。
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渋沢栄一と岩崎弥太郎の仲
では、渋沢栄一と岩崎弥太郎との仲はどうだったのでしょうか?
渋沢栄一の回顧録である論語実践処世談には、
三菱の先代、岩崎弥太郎は、多人数の共同出資によって事業を経営する事に反対した人だ。彼は、大人数が寄り集まると理屈ばかりが多くなり成績が上がらないという意見で、何でも事業はワンマンでドシドシ経営していくに限るという主義だった。
そのため、私が主張する合本組織の経営法には極力反対したものだ。しかし、その反面で能力のある人材をドシドシ登用するのには随分と骨を折り、学問のある人を多く用いたりもした。これが弥太郎の人材を登用するにあたっての一大特徴だと思う。
このようにあり、最初からして弥太郎!と呼び捨てにしている事から、栄一が岩崎弥太郎に好印象がないのは明白です。渋沢栄一は、民間から少しずつ富を集めて事業を興し、全体の意見を取り入れて会社を大きくさせる合本主義の人であったのに対し、岩崎弥太郎は会社の権限は社長に集中し、才能があるヤツだけでドンドン進めればいいというワンマンタイプでした。
2人は、全くの水と油だったのです。
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海運業で三菱と常軌を逸したバトル
写真の恵比寿顔とは違い、若い頃の渋沢栄一は、売られた喧嘩は買うという人でした。
岩崎弥太郎の三菱商会は、台湾出兵や西南戦争で政府の戦争を海運で支援し、その見返りで、船舶の払い下げを受けるなどして勢力を拡大し、日本の海運は三菱の独占市場になっていきますが、競争相手を排除すると運賃を値上げして利益を貪るようになります。
これを見た栄一は、そうはさせじと対抗策を出してきたのです。
渋沢栄一は、益田孝、井上馨、榎本武揚、品川弥二郎、浅野総一郎らと協議し三菱に対抗できる海運会社の設立を画策。益田孝の肝煎りで東京風帆船会社を設立します。
さらに北海道運輸会社、越中風帆船会社の三社を集結させ1882年に共同運輸会社を発足。渋沢は益田孝と共に取締役に就任しました。
明治16年(1883年)1月、共同運輸が営業を開始すると、三菱が運賃を2割引にして対抗、共同運輸側も対抗値引きを実施し以後2年間は原価割れの投げ売り競争が続きます。それでも汽船の速度では、共同運輸側がイギリス製の新鋭汽船山城丸などを揃え優位でしたが、弥太郎はクレイジーにも燃料費を度外視し速度を上げて挑戦しました。
ワンマン経営者の弥太郎は、共同出資の共同運輸と違い、資金力の続く限りの無茶が可能で、それが狂気の事態を引き起こします。
三菱と共同運輸は激しくいがみ合い、遂には出航時刻を同時刻としてタイムを競うようになり、接触事故を起こすなどアクシデントが続出。段々と子供の喧嘩のような事態になり、日本を代表する二大海運会社は意地の張り合いで共倒れの危機に陥ります。
ところが、明治18年(1885年)岩崎弥太郎が死去、事態は急展開しました。弥太郎のワンマンだった三菱では弥太郎の死後もチキンレースを継続する気力はなく、共同運輸も気持ちは同じだったのです。
ここで、政府が両者の仲介に乗りだし、共同運輸の社長である伊藤を更迭して両社を合併させ日本郵船が設立します。明治日本の独占vs共有の子どもじみた激戦は痛み分けで終わりました。
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憎んでいたのは弥太郎の方
それでも、渋沢栄一は弥太郎を嫌ってはいても憎んではいなかったと言います。
しかし、栄一の友達である益田孝や大倉喜八郎、渋沢喜作が、弥太郎は利益を1人で独占する金の亡者で怪しからんと激しく憎悪して、周囲にも言いふらした為に、弥太郎の方でも栄一も仲間だと思って激しく憎み、遂に死ぬまで和解できなかったと回想しています。
それが本当かは分かりませんが、三菱vs共同運輸のバトルも弥太郎がエスカレートさせた感じがあるので、弥太郎は栄一を憎んでいたのかも知れません。
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和解した三菱
岩崎弥太郎が死去し、三菱汽船と共同運輸が合併して日本郵船が出来ると、弥太郎の後継者である岩崎弥之助が渋沢栄一を訪ねて和解を申し入れます。栄一は、和解の提案を快く受け入れ、その後日本郵船の取締役にも就任しました。この辺りで栄一は、岩崎家とのわだかまりが溶けたと回顧しています。
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日本史ライターkawausoの独り言
一見すると悪者に見える岩崎弥太郎ですが、発展途上国では資本を分散してしまう自由競争より、1社に資本を集中する財閥型の方が威力を発揮します。
しかし、独占企業では富が集中しやすく、競争もないので国民生活がなかなか豊かにならないという弊害も起きます。渋沢栄一は、独占が公の利益を損ねる事を恐れて、弥太郎の方針に反対したのかも知れませんね。
参考文献:実検論語処世談
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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」