渋沢栄一

渋沢栄一は五代友厚が嫌い?面識はあったの?【東西経済人の真実】

青天を衝けの表紙風の渋沢栄一

 

2021年のNHk大河ドラマは渋沢栄一(しぶさわえいいち)が主人公の青天を衝けです。しかし、渋沢栄一の活躍は明治に入ってからで幕末には尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士として挫折した辺りで終わっています。

 

しかし、明治以後の栄一は幕末から明治にかけて多くの偉人と交流し、その感想を残していました。例えば、関西の経済人として著名な五代友厚(ごだいともあつ)について、栄一はどう思っていたのでしょうか?

 

五代友厚の功績

五代友厚 幕末

 

では、最初に五代友厚について簡単に説明しましょう。

 

五代友厚は薩摩藩士として天保6年(1836年)に誕生します。渋沢栄一が天保11年(1840年)生まれなので五代が4つ年上という事になります。安政3年(1856年)長崎海軍伝習所に藩の伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。その後、幕府軍艦千歳丸に乗船して上海に渡航。薩摩藩の為に汽船購入の契約を済ませるなどアグレッシブに活動します。

 

軍艦(明治時代)

 

薩英戦争では、3隻の潘船ごとイギリス海軍の捕虜になりますが、その後脱走。慶応元年(1865年)薩摩藩の命令で薩摩遣英使節団の1人として渡英、さらに欧州各地を巡歴して見聞を広めました。

 

 

慶応2年に帰国すると、薩摩藩の商事を一手に握り、長崎の小菅に造船ドッグを開設するなど実業家としての手腕を見せます。明治維新後、外国官権判事(がいこくかんごんのはんじ)大阪府権判事(おおさかふけんはんじ)兼任として大阪に出張、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件等の外交処理に当たりました。

 

さらに、大阪に造幣寮を誘致して初代大阪税関長になるなど、大阪の発展に尽力します。

 

みずほ銀行風

 

明治2年(1869年)には政府の役人を辞め、紡績業や鉱山業、製塩業や製藍業等の事業を起こしました。実業界に転身しても、維新の功労者である薩摩閥との関係は深く、黒田清隆(くろだきよたか)が北海道開拓使だった時代の開拓使官有物(かいたくしかんゆうぶつ)払い下げ事件に関与。薩摩閥の力を自身の商売にも使った事で政商と呼ばれるようになります。

 

しかし、大阪証券取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所、大阪製銅、大阪商船、阪堺鉄道(はんかいてつどう)などを設立して大阪経済に大きく貢献し、近代大阪経済の父として今でも高い評価を受けています。

 

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渋沢栄一と五代友厚の共通点

日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一

 

では、渋沢栄一と五代友厚の共通点は何なのでしょうか?

 

それは、どちらも明治の比較的早い段階で役人に見切りをつけて民間の実業家に転進して行った事でしょう。渋沢栄一も回顧録である実践論語処世談で五代について

 

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五代氏が官吏を去ったのは自らやってみたい事があったのか、政府に居られなくなる事情でもあったか私は詳しい事は知らない。しかし、私が役人を退いて実業界に力を尽くすことになるや、五代氏は私に向かい、渋沢は東京でしっかり活動してくれ、五代は大坂の方で活動するから等と言っていた事があった。

 

別に私は、五代氏と約束し東西呼応して実業界で働く事になったというわけではないが、ほとんど同じ時期に役人を辞めて実業界に身を投じる事になったのは事実である。

 


 

鉄道(蒸気機関)に乗るkawausoさん

 

その後の渋沢は、関東で活躍し、鉄道、海運、保険、電力会社、銀行、ホテル業など、多彩な事業を起こしています。このように渋沢栄一と五代友厚は面識も共通点もありました。

 

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五代友厚が嫌い?だった渋沢栄一

キレながら明治政府を後にする渋沢栄一

 

NHk大河ドラマでは、五代友厚と渋沢栄一がどのように描かれるか不明ですが、実際、渋沢栄一は五代友厚が嫌いだったようです。それは、回顧録である実践論語処世談に明瞭に書いていて、五代様ファンには少々キツイ表現かも知れません。

 

はじめての三国志編集長kawauso

 

次の頁で、詳しく説明しますので、五代様ファンは気持ちを落ち着けて下さいね。

 

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五代友厚は私利私欲

大久保利通 幕末

 

渋沢栄一は五代友厚について、なかなかに年長者に取り入るのが上手で、時の実力者の大久保利通にも取り入り、大久保が愛好していた碁も打てば煎茶も(たしな)んでいて、社交的な人物であったと回想しています。

 

しかも、ただ周囲に同調しておべんちゃらを言い、賑やかすだけの幇間ではなく、何か深く思う所があり、周囲を自分の為に利用してやろうと企んでいるような筋金入りの大変な野心家であったと言えるだろうとも言っています。

 

ドラマで言えば、白い巨塔の財前教授みたいな存在ですかね…確かに五代は、同じ薩摩閥の黒田清隆から格安で官有物を払い下げてもらおうとしていた件もあり、時の政府と癒着(ゆちゃく)して大きくなった点では、三菱の岩崎弥太郎のような野心に溢れた政商だったのかも知れません。

 

ちなみに渋沢栄一は岩崎弥太郎も嫌っています。

 

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五代の周囲は私心の人ばかり

500以上の企業の設立に関わった渋沢栄一

 

また、渋沢栄一は五代友厚には人物鑑定眼が無かったと回想しています。これは無能な人を登用したという意味ではなく、社会に尽くそうという気持ちより自分が儲けたいという私心が勝る人ばかりを採用したという意味です。

 

渋沢栄一は「論語(ろんご)算盤(そろばん)」で、道徳と商売は両立し得る、また、そうせねばならないと書いた程の人で、いかに金儲けが上手でも自分さえ儲かればいいという人物を嫌いました。

 

その渋沢栄一の物差しに照らすと五代友厚は、非常に商才のある人物ですが仁者とは呼べず、佞者(ねいじゃ)(私心を優先する人)に属すると断じざるを得なかったのでしょう。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は、渋沢栄一と五代友厚の共通点や面識があったかについて解説しました。五代友厚は渋沢栄一よりも、ずっと早く明治18年に49歳で病死し東西経済人の横綱という割にその活動期間は長くはありません。

 

当時は明治政府の草創期で、政商は一杯いましたから、五代友厚が特に野心家というわけでもありませんが、仁の道を重視する渋沢としては、批判的に見るしかなかった点もあるのでしょうね。

 

参考文献:実践論語処世談

 

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