2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一です。これまでの幕末大河の主人公は、主に幕末に活躍した偉人ですが、渋沢栄一は幕末ではなく、明治日本経済を牽引した人物でした。
しかし、志士としては無名でも徳川慶喜に仕えた栄一は、幕末の偉人と出会い、様々な感想を残しています。今回は徳川慶喜を通じて同じ幕臣だった勝海舟との関係を見てみます。
この記事の目次
江戸無血開城の立役者 勝海舟とは?
勝海舟は貧乏御家人の子どもでしたが、貧乏に耐えながら独力で剣術と蘭学を修め、ペリー来航で騒然とする幕府の中で海防意見書を提出して幕閣の目に留まり出世しました。
勝は幕臣でありながら、早い段階で幕府が新しい時代に対応できない事を見抜いており、常に日本全体を考えて政策を練り、海軍操練所を創設して幕臣のみならず諸藩の藩士を受け入れ海軍士官教育を施すなど広い視野を持っていましたが、反対派からは幕府の裏切り者と見みなされ、何度も役職を首になっては復職するを繰り返します。
徳川慶喜とは、慶喜が将軍になってからの付き合いですが、鳥羽伏見の戦いで慶喜が朝敵の汚名を着てより、徹底した恭順謝罪を条件に、攻め上ってくる薩長軍に対し硬軟織り交ぜた外交戦を繰り広げ江戸無血開城を達成。
江戸幕府は滅亡したものの、徳川家を静岡で存続させ慶喜の首を繋ぎました。明治維新後は、海軍卿や枢密院顧問官など明治政府の顕職に就きながら、旧幕臣の再就職や生活の面倒に人知れず奔走しています。
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勝海舟を基本褒めている栄一
渋沢栄一は、勝海舟について基本褒めています。幕末の難しい時期に渋沢栄一は日本になくパリにいました。一方で鳥羽伏見の戦いに破れて朝敵の汚名を着た徳川慶喜を救い、徳川家を救ったのは勝の功績だとしています。
また、幕臣の中には勝を新政府軍に尻尾を振る裏切り者として命をつけねらう人間が大勢いたのに、勝はこれを気力で跳ね付けて、誰1人寄せ付けなかったとし、「私も少しは気力に自信があったので、勝の気質を好ましく思い、よく会いに行っていた」と感想を述べています。
渋沢栄一も勝も小男ながらエネルギーの塊で気力を噴出して生きているので、そういう共通点もあっての感想かも知れません。
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栄一を小僧扱いする海舟に不満
しかし、海舟の栄一についての扱いは、まるで小僧扱いだったと書いています。栄一がパリに残留していた徳川昭武一行の帰国費用2万円の事で、明治新政府とどちらに所有権があるか揉めて口論の末に2万円をもぎ取って無事に帰国させた時も勝は
「民部公子のフランスからの引き揚げには、栗本鋤雲のようなわからず屋がいたから、さぞ困っただろう。それが、お前さんの力で幸い体面に傷もつかず、また何の不都合もなく首尾よく引き揚げられて結構な事であった」と労いました。
また、一行が帰国の途中に上海にいた時、当時、江戸を抜け出した榎本武揚の一派から徳川昭武を総大将にしたいと誘いがあった時、栄一が断固拒否し昭武を守った時にも
「幕臣の中にも、まだそういう間違った考えを持つ者がいて困る。
だが、お前さんが民部公子(徳川昭武)をそんな輩に担がせないようにしてくれたのは嬉しい」
このように渋沢栄一を褒めたそうです。
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徳川慶喜を静岡から出さない海舟に不満
実は、渋沢栄一が海舟に不満を持ったのは、海舟が上から目線という事ではなく、海舟が徳川慶喜が東京に住む事をなかなか許可しなかった点にありました。
渋沢栄一は、一時は新政府の役人でしたが、心情としては終生徳川慶喜の家来の気持ちであり、慶喜が大好きでした。だから海舟がいつまでも慶喜を静岡に押し込めて東京移住を許さない事に腹を立て、あまり海舟の元を訪れなかったと言うのです。
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海舟座談に海舟の心情が
しかし、栄一の一方的な意見だけでは公平ではないので、海舟の考えも見てみましょう。海舟座談を読むと、海舟は慶喜がしきりに東京に出たがっていると書いています。
すでに慶喜の名誉回復は済んでおり明治21年には従一位まで昇進しているのですが、海舟は、「慶喜は得意になる性格で、周囲にちやほやされると図に乗って晩年に思わぬ失態を招きかねない」として、なかなか東京住まいを許しませんでした。
それでも明治30年、海舟の存命中には東京巣鴨に引っ越しています。
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慶喜に対しビジネスライクな海舟
勝海舟は渋沢栄一と違い、慶喜に惚れて家来になったのではありません。海舟は14代将軍家茂に強い忠誠心を持っていたのですが、家茂が子供がないままに死去したので、緊急事態として将軍後見職だった慶喜を推したというだけでした。
また、海舟は慶喜の気まぐれに何度も振り回されているので、そういう面を見ないで済んだ渋沢栄一よりも慶喜への評価が辛いという事もあります。
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日本史ライターkawausoの独り言
渋沢栄一と勝海舟は、どちらも幕臣で慶喜は上司でした。しかし、栄一が一橋家に仕えた慶喜の直接の家来であったのに対し、海舟は慶喜が将軍になる前から御家人で幕臣であり、慶喜が将軍になったので自動的に部下になっただけでした。
また、幕府が大変な頃、栄一はパリにいて慶喜の政治手腕を見る事がなく、逆に海舟は慶喜に振り回され愛想が尽きる寸前まで行きます。この違いが慶喜に対する両者の考えの違いになり、栄一が海舟に不満を持った原因に繋がっているようです。
参考文献:海舟座談 実検論語処世談
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