島津家久は、義久、義弘、歳久に続く島津4兄弟の末っ子です。兄達とは母親が違い、また母親の身分が低い事から少年時代は劣等感に苛まれましたが、義久の激励で克服、軍事に大きな才能を見せて、島津氏の九州統一に貢献しました。
今回は島津4兄弟の末っ子、島津家久について解説します。
この記事の目次
天文16年島津貴久の4男として誕生
島津家久は天文16年(1547年)島津貴久の4男として産まれます。若い頃より、祖父の島津忠良から「軍法戦術を心得ている」と評価を受けていました。
永禄4年(1561年)7月に大隅国の肝付氏との廻坂の合戦で初陣し、15歳ながら敵将、工藤隠岐守を槍合わせで討ち取りました。永禄12年(1569年)家督を継いだ島津義久は、室町時代に菱刈氏に奪われた大隅半島を奪還すべく、大口城に家久の軍勢を派遣します。
城に籠る菱刈氏及び相良氏の援兵に対し、家久は計略を練り、戸神ヶ尾と稲荷山にそれぞれ大野忠宗と宮原景種に率いさせた伏兵を潜ませ、自身は雨が降る中荷駄隊を装った300を率いて大口城の麓の道を通行、荷駄に誘い出された大口城兵を伏兵の下に誘い込んで首級136を討ち取ります。
これにより菱刈氏は島津義久の軍門に降りました。
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上洛
天正3年(1575年)家久は島津氏の の神仏の加護を伊勢神宮に謝するために上洛を開始します。
途中、ひっきりなしに出現する銭取り装置である関所にブチ切れ、関守をボコボコにして強行突破したりして九州を北上、小倉から関の湊を通過して本州に上陸し、山陽道を東に向かい奈良の伊勢神宮まで旅して帰還しました。
家久の旅はもちろん、ただの戦勝祈願ではなく、九州から出た事がない家久の見聞を広める目的も有しています。家久もそのつもりで、戦国時代ド真ん中の京都に立ち寄り、茶人の里村紹巴の弟子、心前の家に宿泊し、公家や堺の商人と交流し、
一向一揆との戦いで忙しく、馬上で居眠りをしている織田信長を目撃したり、明智光秀に坂本城に招かれて連歌を読んだりしています。
連歌は主催するほどの家久ですが、茶の湯は不案内で「拙者は白湯で結構」と光秀のお茶を遠慮したりしました。
家久は素性を光秀には詳しく伝えておらず、茶の湯の席で光秀と親しく話す事で素性がバレる事を警戒したかも知れません。
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耳川の戦いで大友軍本隊を牽制
天正5年(1577年)島津義久が宿敵だった日向国の伊東氏を追放し三州を平定すると、伊東氏は大友氏に身を寄せ豊後国の大友宗麟が南下を開始します。
天正6年、耳川の戦いで佐土原城主となっていた家久は大友軍が包囲していた高城の救援に向かいますが、佐伯惟教の軍勢に遭遇して撃破され敗北を喫します。
これを受けて島津義久は、薩摩・大隅の軍勢を動員して3万の軍で鹿児島を出発。途中で佐土原に入り家久も従軍、日向の軍勢も編入して島津軍は4万に膨れ上がりました。この後、島津家久は高城に入り、松原の大友軍の陣営を襲撃する陽動部隊と伏兵の支援の為に出撃、大友本隊の行動を牽制し、伏兵を成功に導きます。
耳川の戦いは大友軍の大敗となり、その後大友氏は急速に没落していきました。
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沖田畷で龍造寺隆信を討ち取る
大友氏の衰退で、今度は肥前国の龍造寺隆信が台頭し、九州の覇権は島津と龍造寺の二者で争われる事になります。戦いの趨勢は筑後と肥後方面では龍造寺軍が優勢でしたが、肥前西部では龍造寺氏からの離反を図る有馬晴信が島津氏に付くなど有利な状況が生まれていました。
天正14年(1584年)3月、龍造寺隆信は、自分に叛く有馬氏を叩き潰そうと1万8千から6万とも言われる大軍で進撃。一方、島津軍は有馬氏を救援すべく島津家久を総大将として島原へと向かいますが、島津と有馬連合軍は合計でも5千名から8千名と圧倒的に劣勢でした。
しかし家久は劣勢である事を逆手に取り、兵力を伏せて味方を少なく見せかけ、ひと思いに踏みつぶそうと大軍を繰り出してきた龍造寺軍を、沖田畷と呼ばれる狭い湿地帯に誘い込んで、弓や鉄砲隊で激しく攻撃して混乱させ、その後に伏兵を突入させる釣り野伏せの戦法で散々に撃ち破ります。この戦いで龍造寺隆信は逃げる途中に島津軍の武士に首を討たれ、一門、重臣も大勢戦死しました。
この勝利で九州に島津に対抗できる大名はいなくなり、島津家久はこの際に初めて知行地4千石を与えられ、部屋住みから脱したとされます。そして、九州佐土原城代として日向方面の差配を任される事になりました。
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龍造寺勢力の降伏と鍋島氏の抗戦
沖田畷の戦いの後、主戦場は再び筑後国へ移動し肥後国にあった島津勢は北進を狙いますが隆信の義弟である鍋島直茂らが徹底抗戦の意志を示したので島津勢は、一度は引き揚げていきます。
しかし島津氏の勢力の増大に対し、旧龍造寺氏勢力は台頭著しい鍋島氏を抑え込もうと島津氏に接近、降伏に近い条件で和議を結び勢力の温存を図ります。
一方鍋島直茂は、島津と対抗すべく豊臣秀吉と密かに連絡を取り、天正15年(1587年)には龍造寺・鍋島軍は島津征伐軍の先鋒を務める事になりました。
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仙石秀久の大軍を撃破
旧龍造寺勢力と和解した島津軍は、矛先を転じて豊後国の大友氏を攻めようとします。これに対し大友宗麟は天正16年(1586年)に上洛し秀吉に救援を求め秀吉は承諾しました。
しかし、秀吉はすぐに九州に討って出る余裕がなく、宗麟の顔を立てる為に、腹心の仙石秀久を大将に長宗我部元親・信親父子、十河存保など総勢6千余りの豊臣連合軍の先発隊が九州平定のために上陸します。
さらに、ここに大友軍の残存兵力が加わり、総勢は2万人まで増えますが、秀久が率いているのは、この間まで征伐していた四国長宗我部勢で相互に不信感があり、大友氏の軍勢に至っては完全に秀久に頼りきって士気も最低でした。
秀久は、秀吉に何度も援軍を要請しますが、秀吉は「毛利と小早川の軍勢を門司に布陣させているので積極的に戦わず持久せよ。そうすれば謀反人どもはジリ貧になり薩摩に引き返す」と繰り返し命じます。
ところが、軍内の士気の低下に不安を覚えた秀久は我慢できず、足手まといの大友軍を置いて、直属の部下と長宗我部の軍勢6千で戸次川の戦いに挑んだのです。
戸次川で冬季の渡河作戦を行った豊臣軍6千は思うように進軍できない中で、島津家久率いる島津軍1万余と遭遇し激闘になりました。
得意の釣り野伏せで兵数を少なく見せている島津軍に対し、秀久は積極的に攻めて序盤は優勢となり家久は防戦を余儀なくされますが、秀久本隊が突出し過ぎたのを見逃さず、中央と右翼から伏兵を繰り出して秀久隊を挟み撃ちにします。
数で上回られた秀久本隊は壊滅的な打撃を受け、さらに、第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れとなり信親・存保ら両将は討死し、家久は大勝したのです。
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家久の情
第三陣を率いていた長宗我部元親は信親の討死を聞いて衝撃を受け、絶望のあまり、その場で切腹しようとしますが、家臣に止められ戦わずして退却を開始しました。しかし生憎、潮は干潮で船を出せず、家久の襲撃に怯え焦る時間が流れます。
そこへ家久が派遣した使者、川上久智が現れ書状を元親に手渡しました。「左京亮殿(信親)を討ち取りましたのは、武士の習いで本意ではありませんでした。船を襲ったりはしませんので、満潮になってからゆっくりと御帰還下さい」
家久は最愛の息子を失い切腹までしようと考えた元親を気遣い、これ以上は追撃しないと宣言して長宗我部軍を安心して帰還させようと配慮したのです。
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九州征伐での敗戦
天正15年3月、豊臣秀吉は総勢20万人の大軍を率い、先鋒の羽柴秀長軍10万が3月上旬には小倉に上陸しました。この頃、島津家久は豊後松尾城に移動し、府内城には島津義弘が入っていました。
羽柴秀長は、当初、僧侶を派遣して島津軍に降伏を勧告しますが、義弘はこれを拒否して家久と撤退を開始。豊臣軍はこれを追撃し豊後・日向国境で大友軍家臣、佐伯惟定の追撃を受けます。
3月20日には、義弘は家久と共に日向の都於郡城に退いて、義久、家久、義弘の3人で軍議を行いました。しかし、豊臣軍に包囲された高城を救援しようとするも、根白坂の戦いに大敗。多くの犠牲者を出し、拠点にしていた都於郡城も豊臣秀長に落されるなどして、退却に次ぐ退却を余儀なくされます。
さらに、島津方の秋月種実が籠城していた岩井市城や古処山城まで数日で落とされ、種実が降伏すると、それまで島津方についた九州の戦国大名が続々と豊臣方に寝返ってしまいました。
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羽柴秀長に降伏後病死
豊臣軍が肥前に迫ると、島津家久は、これ以上抵抗するのは被害を大きくするだけと考え、自ら羽柴秀長に出頭、上方での封土を条件に、兄の義久や義弘が降伏する前に豊臣秀長軍と単独で講和します。
しかし、天正15年(1587年)6月5日、家久は本拠地の佐土原城にて41歳で急死します。時期的に豊臣側や島津側による毒殺など様々な説がありますが定かではありません。しかし、豊臣、島津双方にとって、総大将でもない家久を毒殺する意義は少なく、
秀長側近、福地長通が義弘に宛てた書状に家久が病気であることが記されている点から、病気が悪化して死去したと一般には考えられています。
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兄弟仲
島津家久は4兄弟で1人だけ母親が違い、また母の身分も低い事から兄弟たちに対して引け目を感じていて、若い頃は文武とも兄弟たちに及ばなかったようです。
ある時、4兄弟は鹿児島吉野で馬追を楽しんだ後、当歳駒を眺めていましたが、ふいに三男の歳久が長兄の義久に「馬の毛色は大体母馬に似るようです。人間も同じですね」と言いました。
義久は歳久が家久を揶揄したのだと知ると、穏やかに反論しました。
「母馬に毛色が似る事もあるだろうが、一概にそうとも言い切れはしない。父馬に似る場合もある。人間と同じだと言っても人は獣ではないのだから心の徳がある。毎日鍛錬し文武を磨けば、父母にも勝る人間になるだろうし怠れば父母に劣るであろう」
義久の言葉を聞いた家久は、自分の劣等感を恥じ、以来、一日も休まず文武の修練に励み、いつしか兄弟で能力の差はなくなったそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、島津家久を取り上げてみました。1人だけ母親が違う家久は4兄弟でも待遇が一番下でしたが、それにいじける事なく、文武の稽古に励んで熟達し、沖田畷や耳川の戦いで戦功を立て次男の義弘が嫉妬していたという話もあるようです。
41歳の若さで病死しなければ、朝鮮征伐などで兄の義弘と従軍して、さらなる大手柄を立てていたのかもしれませんね。
ですが、秀吉の天下統一後は、島津氏でも長男義久と次男義弘の間で感情の対立が起きましたから、もし家久が長生きしていたら双方の板挟みになり、辛い目にあった可能性もあります。早死にして、兄弟の諍いを見ないで済んだのも天の配剤だったという事でしょうか?
参考文献:Wikipedia
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