雑学(戦国時代)

戦国時代、フランス、ドイツ、イタリアが日本に来なかった理由は?

ガレオン船(世界史)

 

戦国時代の日本はヨーロッパの大航海時代に該当し、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスのような外国の船が南蛮船として大勢やってきた事は日本史で習いますよね?

 

でも、ヨーロッパと言っても、ドイツやイタリア、フランスの南蛮船が戦国日本に来たという話は聴いた事がありません。一体、どうして、これらの国はやって来なかったのでしょうか?

 

フランスの事情

 

では、最初にフランスの事情を見てみましょう。フランスが戦国日本にこなかった理由は、1562年から1598年までフランス国内でカトリックとカルヴァン派の宗教戦争、ユグノー戦争が起きていたからです。

 

カルヴァン派はフランスの宗教改革者ジャン=カルヴァンの影響を受けた人々で、フランスでは、敵対するカトリックからユグノー(乞食野郎)と蔑まれ、主に商工業者に存在していました。

 

ギリシャ神話の大神_ゼウス(神話)

 

カルヴァンの教えは予定説と呼ばれ、人間の救済は全て神によって決定されていて、人間ではどうする事も出来ないとし、そのような人間が神への絶対的服従を示すには、現世の職業を与えられたモノとして誠実に務める事しかないと説きました。

 

ちょっと聞くと非情に聞こえますが、裏を返せば聖職者や貴族や王侯だけが救われるわけではないと説いているわけで、身分が低かった当時の商工業者には、真面目に働けば、もしかすると救われるかも知れないという希望を与える内容だったのです。

 

同時にカルヴァン派は他のプロテスタントと同じく、贅沢を誡め、禁欲・清廉に生きる事を要求したのでフランスのユグノーは富を貯え社会に影響力を持っていきました。

 

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宗教対立に政治が絡んでユグノー戦争が勃発

三国志のモブ 反乱

 

しかし、フランスは敬虔(けいけん)なカトリックの国であり、ヴァロワ朝のアンリ2世はユグノーに激しい弾圧を加えます。ところが、その頃にはフランス貴族の中にもカルヴァン派に鞍替えする人々が出てきていて、国内情勢は混沌としていきました。

 

こうして、カトリックは大貴族ギーズ家を中心にカトリック同盟を結成、カルヴァン派はコリニー提督や新興貴族ブルボン家と結んで改革派を結成します。

 

1562年1月摂政カトリーヌ=ド=メディシスは、改革派勢力を味方につけようと新教徒の信仰の自由を認める勅令を発布。これに大貴族ギース家とカトリック勢力が反発して、礼拝中の新教徒を虐殺する事件が発生し、これから36年間もユグノー戦争が続きました。

 

ようやく戦争が終わった頃には、日本では戦国時代が終りかけていて、フランスが日本と貿易する機会は失われたのです。

 

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ドイツの事情

 

ドイツの事情はフランスよりも複雑です。というのも16世紀ドイツは、単独のドイツ王によって支配されているのではなく、欧州の君主国と縁組を繰り返し勢力を拡大したハプスブルグ家の支配下にあったからです。

 

1519年ハプスブルグ家出身のカルロス1世が神聖ローマ皇帝の地位をフランス王、フランソワ1世と争って勝利。神聖ローマ皇帝カール5世として即位しました。

 

この時、カール5世はハプスブルグ家の皇帝として神聖ローマ帝国に君臨すると同時にドイツ王でもあり、オーストリア、ネーデルラント(オランダ)スペイン、ナポリ王国を相続する事になります。

 

スペイン王でもあるカール5世は、南アメリカに広大な植民地を持ちスペインの船は戦国時代の日本にもポルトガルと同様に来航していました。ややこしいですが、それはスペイン王カルロス1世としての立場であり、今回はドイツ王カール5世としての歴史を見ていくのでご理解下さい。

 

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ブレブレなカール5世にルター派が猛反発

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1517年ドイツにルターが登場し宗教改革が始まりました。ルターは宗教的に堕落し、お金を支払えば罪が赦されるというカトリックの免罪符に激怒。「聖書に返れ」として宗教改革を唱えたのです。

 

カール5世は英明な君主でしたが、カトリックの守護者でありルターの主張を受け入れるわけにはいきませんでした。1521年カール5世はヴォルムス帝国議会を開催してルターを召喚し主張の撤回を迫りますが、ルターは拒否します。怒ったカール5世はヴォルムス勅令を発してルターの活動を禁止しました。

 

一方でカール5世は1521年以来、イタリアを巡ってフランソワ1世とイタリア戦争を続け、東方ではオスマン帝国のスレイマン1世の脅威にも直面します。ドイツ国内では、追放したにもかかわらずルター派が増え続け、1524年にはドイツ農民戦争が勃発し1年間も継続しました。

 

1526年にはオスマン帝国のスレイマン1世がハンガリーを占領、これを受けて、国内のルター派を懐柔(かいじゅう)する必要に迫られたカール5世は第1回シュパイアー帝国会議でルター派の信仰を認めました。

 

 

しかし、戦況が好転すると1529年の第2回シュパイアー会議でカール5世は再びルター派を否定。これに幻滅したルター派諸侯が抗議文を発します。このようにカール5世はブレブレであり、この優柔不断が宗教対立に拍車をかけてしまいました。

 

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新教と旧教の対立は継続しドイツ30年戦争に

 

1538年プレヴェザの海戦でカール5世はオスマン帝国に敗北。1545年、再び宗教対立の和解を目指しトリエント公会議を招集しますが、両派の対立は逆に深まりました。

 

こうして、プロテスタント諸侯のシュマルカルデン同盟がカール5世率いるカトリック諸侯と激突するシュマルカルデン戦争が勃発します。ここでカール5世は、当時世界最強だったスペイン傭兵を前線に投入しプロテスタント諸侯を撃破します。

 

しかし、戦後、皇帝とスペインのドイツ支配が強まる事にドイツ諸侯が反発、1552年に再び戦端が開かれ、カール5世は敗れてイタリアに敗走。

 

衰えを感じたカール5世は表舞台から退き、1555年には新しいドイツ王・オーストリア大公フェルディナントが主催した帝国議会で諸侯とルター派の信仰を認めるアウクスブルグの和議が成立しました。

 

その後も新教徒と旧教徒の対立は燻ぶり続け、1618年、ボヘミアのプロテスタントの反乱から、30年戦争が勃発。ドイツ諸侯ばかりか欧州の国々がドイツの地で、カトリックとプロテスタントに分かれて戦争を繰り返し、徹底した破壊によりドイツ領内は焦土と化します。

 

もちろん、この状況のドイツが戦国日本と交易するなんて不可能だったのです。

 

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イタリアの事情

 

日本が戦国時代に入った15世紀末、北イタリアはミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァなどの都市国家が高い経済力を持つルネサンスの舞台でした。しかし、政治的には全体の支配者がなく、分裂抗争を繰り返していた時代です。

 

さらに、背後にはローマ教皇アレクサンデル6世、ロヴェレ家のユリウス2世、メディチ家のレオ10世、クレメンス7世等が政治勢力としてイタリア中部にあり、近隣のフランス王や神聖ローマ帝国皇帝の力を利用しつつ権力維持と強化を図っていました。

 

ナポリ王国は、1435年フランス系のアンジュー家の王位が断絶後、スペインアラゴン家のフェルディナント1世が王位を継承していましたが1494年に死去します。

 

これを受けてフランス王、シャルル8世は王位継承権を主張し、ローマ教皇アレクサンデル6世に承認を求めますが、アレクサンデルはこれを拒否。シャルル8世は7~8千人のスイス傭兵を含む3万の軍勢でイタリアに侵入、フランス軍はさらにローマを経て95年2月にはナポリを占領しました。

 

教皇アレクサンデル6世は、スペイン王フェルディナント5世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、及びヴェネチアとフィレンツェに呼びかけ3月に神聖同盟を成立、退路を断たれる事を恐れたシャルル8世はフォルノヴォの戦いに敗れ、パリに帰還します。

 

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神聖ローマ帝国とフランスの代理戦争

 

次のフランス王ルイ12世は、1499年にミラノ公国の継承権を主張してイタリアに介入し、スフォルツァ家を追放して北イタリアに進出します。この時、ローマ教皇、アレクサンデル6世はフランスと結んで、息子のチェーザレ=ボルジアに命じて教皇領の拡大を図りました。

 

しかし、1503年にアレクサンデル6世が没し、新教皇ユリウス2世が即位するとボルジア家の勢力を抑えフランスに対抗する道を選び、スペイン、ヴェネチア、スイスと神聖同盟を結成。

 

1512年にルイ12世は教皇ユリウス2世の神聖同盟とラヴェンナで戦って破れ、北イタリアの領土を失います。翌年、ユリウス2世が死去し、メディチ家出身のレオ10世が即位しました。

 

1515年、フランス王、フランソワ1世はミラノ攻略を目指して再び北イタリアに進出し、マリニャーノの戦いでスイス傭兵中心の神聖同盟軍を破ります。さらにフランソワ1世は神聖ローマ皇帝に即位して広大な領土を得ようとしますが、ハプスブルグ家のカルロス1世が豊富な資金にモノを言わせて選挙に当選。

 

カール5世として即位し、ドイツ、ネーデルラント、ミラノ、南イタリアを支配する事になります。フランソワ1世はカール5世にフランスを包囲される形となり、1521年、ハプスブルグ軍に対しピレネー方面とイタリア方面で全面対決しますが、カール5世のドイツ・スペイン連合軍に敗北します。

 

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イタリア戦争の終結

 

さらに、フランソワ1世は1525年のパヴィアの戦いでドイツ軍の捕虜となる大敗を喫し、イタリアの権益を放棄し領土を割譲します。カール5世は1527年にフランスについた教皇クレメンス7世を圧迫すべく、ローマ劫略と呼ばれる略奪と殺戮を繰り返し、ローマは灰燼に帰しました。

 

しかし、勝者に見えたカール5世も1517年から始まったルターの宗教改革派の勢力に苦しみ、1526年にはオスマン帝国のスレイマン1世にハンガリーを奪われます。

 

こうして、戦争の長期化は神聖ローマ帝国とフランス王家を疲弊させ、1544年にはクレピーの和約で一度は講和しました。

 

さらに、1559年、カトー=カンブレジ条約でフランスのアンリ2世とスペインのフェリペ2世、イギリスのエリザベス1世の間で和議が成立し60年以上も継続したイタリア戦争が終結します。

 

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スペイン支配下で停滞するイタリア

キャラベル船(世界史)

 

イタリア戦争の間、イタリアのほぼ全域を支配したスペインは大航海時代を展開。ヨーロッパ経済の中心はイタリアなどの地中海沿岸都市から大西洋岸のリスボンやアントワープへ移動する商業革命が起き、結果としてイタリア諸都市の経済を支えた地中海貿易は相対的に衰退しイタリア経済も停滞します。

 

その後も17世紀までイタリアはスペインの支配と分裂の下にあり、アジアまで交易船を出す活力は生まれませんでした。

 

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世界史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

フランスは宗教戦争、ドイツも宗教戦争、イタリアは神聖ローマ帝国とフランスの勢力争いに巻き込まれて、大航海時代を推進していく力が無かったようです。

 

特にイタリアはボルジア家やメディチ家がフランスや神聖ローマを国内に引き込んで、政治の駆け引きに利用し、どうにもならなくなったという図式ですね。

 

参考:Wikipedia

 

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