島津家(戦国)

島津家久と島津豊久父子二代の鬼島津を紹介

豊臣軍(仙石秀久)を蹴散らす島津家久

 

日本史には父子2代で活躍したという人物がいます。真田昌幸(さなだまさゆき)信繁(のぶしげ)とか黒田官兵衛(ふくろだかんべえ)長政(ながまさ)とか、やや地味ですが徳川家康(とくがわいえやす)秀忠(ひでただ)とかです。

 

しかし、意外に知られていない父子2代で猛将だった戦国武将がいました。それが鬼島津(おにしまづ)島津家久(しまづいえひさ)豊久(とよひさ)の2代の薩摩隼人です。

 

釣り野伏せの名人 島津家久

島津家久

 

島津家久は、島津義久(しまづよしひさ)義弘(よしひろ)歳久(としひさ)に次ぐ島津4兄弟の末っ子です。ただ、上の三兄弟が父母とも同じなのに対し、家久は母親の身分が卑しく少年期は引け目を感じ文武共に今ひとつでした。

 

島津義久

 

しかし、長兄の義久が「人間は動物とは違う!父母が尊くても人は努力しないとモノにならない。また逆も然りである」と家久を励ましたので、感激した家久は文武に打ち込み、その武勇は兄の義弘を嫉妬させるほどだったそうです。

 

そんな家久は永禄(えいろく)4年(1561年)に15歳で初陣を迎えると肝付氏(きもつきし)の敵将、工藤隠岐守(くどうおきのかみ)を鑓合わせで討ち取る武功を挙げます。

 

 

さらに、天正(てんしょう)12年(1584年)沖田畷(おきたなわて)の戦いでは、家久は6万の大軍を擁し驕り高ぶる龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の心理を突き、連合を組んでいた有馬晴信(ありまはるのぶ)と自軍を合わせて8千の手勢で龍造寺軍を沖田畷と呼ばれる狭隘な湿地帯に誘い込みました。

 

動きの取れない龍造寺軍に、有馬・島津連合軍は鉄砲と矢を集中的に射掛け、敵が消耗した所を、あらかじめ左右に伏兵しておいた島津軍が龍造寺軍に突撃して敵を敗走させます。

 

この戦法は釣り野伏(のぶ)せと言い、家久のみならず多くの九州の戦国武将が類似の戦法を用いていますが、最も効果的に釣り野伏を使ったのは家久でしょう。

 

急死する龍造寺隆信

 

沖田畷の敗戦で龍造寺隆信は首を討たれ、以後、龍造寺氏は弱体化。島津氏の九州統一への道が大きく開かれました。

 

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戦国時代の紀行文を書いた教養人

上洛した時、疲れて馬上で居眠りしている信長を見て、ぷすーと笑う島津家久

 

また、家久は天正3年(1575年)島津氏の三州平定の祈願の名目で九州を北上し、伊勢神宮まで百名あまりの供を連れて旅行しています。

 

名目は神仏祈願ですが、事実は家久の見聞を広め畿内の有力者ともパイプを作る事が目的で家久は上洛し、凱旋する織田信長(おだのぶなが)を目撃したり、連歌師里村紹巴(さとむらじょう)の弟子心前(しんぜん)の家に宿泊し、公家や堺の商人と交流し明智光秀(あけちみつひで)の歓待を受けたりしました。

 

田舎者で無教養なので、茶の湯が分からず、お茶をストローで飲み明智光秀にガッカリされる島津家久

 

戦国時代の旅行記は珍しく、家久が自ら記した「家久君上京日記」は戦国時代の風俗を知る貴重な記録になっています。

 

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はじめての戦国時代

 

豊臣軍との戦いでも釣り野伏が炸裂

戦場で活躍する仙石秀久(家紋付き)

 

九州平定を目指す島津に対し、大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に降伏して島津氏の討伐を依頼します。秀吉は島津氏に対し、ただちに大友氏との戦いを止めるように惣無事令を出しますが、島津義久は従いませんでした。

 

そこで、秀吉は四国を平定したばかりの仙石秀久(せんごくひでひさ)を総大将に、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)信親(のぶちか)父子、十河存保など総勢6千と大友氏の残存兵力で島津氏の牽制を命じます。

 

しかし、仙石秀久の率いる豊臣軍は戦えるのは本隊のみで大友軍は士気が低く、また長宗我部氏とは、この間まで敵同士であり支配が不安定でした。焦った秀久は、持久するように命じる秀吉に叛いて島津家久が率いる島津軍と戸次川で激突し、またしても家久の釣り野伏せに引っ掛かり壊滅します。

 

派手に戦に負ける仙石秀久

 

この時、総大将の仙石秀久は自軍を置いて一目散に逃亡、長宗我部元親は、最愛の息子の信親を戦いで失って絶望し自害しようとするのを止められ海岸まで逃げていました。

 

しかし、生憎、引き潮で船が出せません。今にも島津軍が追撃してくるかと気が気でない長宗我部軍でしたが、家久は、わざわざ使者を派遣し

 

息子を失くした長宗我部元親を気遣う島津家久

 

「戦場の習いで心ならずも御子息を討ちました。どうか許されよ。しかし、追撃はせぬので、潮が満ちるのを待ち、ゆるりと退却されたし」と告げ、敗軍の将、長宗我部元親に情をかける事を忘れませんでした。

 

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元亀元年島津豊久誕生

戦国時代の武家屋敷b

 

島津豊久は、元亀(げんき)元年(1570年)島津家久の子として誕生します。天正14年(1584年)14歳で運命の沖田畷の戦いに従軍、元服前でしたが、新納忠元(にいろただもと)の後見で敵の首を1つ討ち取っています。

 

この戦いの直前、家久は豊久の鎧の上帯を結び直して脇差でその帯端を切り、

 

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

「よく聞け豊久、もし戦いに勝って討死しなければこの上帯は父が解こう。だが、今日の戦で屍を晒した時には、切った上帯を見て島津が家に生まれた者の勇敢な所作だと敵も知るだろうし、父もその立派な最後を喜ぼう」と告げました。

 

この上帯切りは戦国時代の縁起担ぎで、上帯の結び目を切る事で、決して鎧を脱がない事(討死の覚悟)を周囲に宣言するものです。沖田畷の戦いで、父子は奮戦し龍造寺軍を壊滅させる大戦果を挙げ、豊久も無事に帰還し、家久は、豊久の上帯を脇差で切って解いたと伝わっています。

 

同年、豊久は肥後国において元服、しかし、天正13年、家久の3人の息子は天然痘に罹り、家久は同僚の上井覚兼(うわいかくけん)蘇香円(そごうこうえん)という薬を持っていないか尋ねる手紙を出しています。

 

子煩悩な家久だからこそ、長宗我部元親が息子を失った痛手が痛いほどに分かり、慰問の使者を送るという配慮も出来たのでしょうか?

 

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家久急死。豊久、佐土原城主となる

仙台城

 

天正15年、豊久は父、家久と共に根白坂(ねじろざか)の戦いで先陣を務めますが、15万の大軍を擁する豊臣秀長(とよとみひでなが)軍に敗北し撤退します。その後、家久は佐土原に退却しますが、勝ち目はないと見て、上方に領地を得る事を条件に豊臣軍に単独で降伏しました。

 

しかし、それから1ヶ月あまりの後、家久は急死します。40歳の若さです。その急な死のために、秀吉や義久、義弘による暗殺や毒殺も疑われますが、真相は分かりません。

 

織田信長が亡くなりショックを受ける豊臣秀吉

 

しかし、豊臣秀吉はあらぬ疑いを避ける為に降伏した島津義弘に対し豊久に特別に所領を与えるよう命じたとされます。17歳で父と死に別れた豊久は、伯父の島津義弘に実子同然に養育され、武人としての戦の心構えを学びました。

 

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首よこせお化けの朝鮮出兵

亀甲船(朝鮮水軍)

 

豊臣秀吉の軍門に下った豊久は小田原征伐に従軍。さらに文禄(ぶんろく)元年(1592年)からは文禄・慶長(けいちょう)の役に従軍します。この戦いは複雑なので、別記事に解説を譲るとして、ここでは豊久の活躍だけを見てみましょう。

 

日時 出来事
文禄元年3月 騎兵30、雑兵500で釜山に着船
文禄元年5月 江原道の春川城へ在城していた時、

敵6万に襲撃され500人あまりで籠城。
100余の鉄砲を撃ちまくり敵が怯んだのを見て、

500で打って出て撃退に成功。

文禄2年6月 晋州攻略を命じられ467人と出陣し、

諸将と共に晋州城を攻略、

豊久の馬印が一番乗り。

慶長2年7月 漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん)に参戦。

朝鮮水軍で3番目の大きさの船に漕ぎつけ、
敵船に飛び降りて乗り移り、敵を斬る事麻の如く

船まで奪い取り豊臣政権に献上。

慶長2年8月 南原城(なんげんじょう)の戦いに参戦して先駆けし、

敵首13を討ち取る

慶長2年9月 秋月種長(あきづきたねなが)高橋元種(たかはしもとたね)相良頼房(さがらよりふさ)と共に

帰国を命じられる。

慶長2年11月 船20艘にて釜山前の椎木島に滞在し

義弘父子を救出し帰国。

 

豊久の朝鮮の役での活躍は、こんな感じで6年間も朝鮮半島で戦っていました。この功績で、慶長4年(1599年)2月中務大輔ならびに侍従に昇進します。

 

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関ケ原の敗北

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い(石田三成)

 

関ケ原(せきがはら)の戦いが勃発すると豊久は伯父の義弘とともに西軍として参陣します。そして、慶長5年(1600年)9月15日の早朝、石田三成(いしだみつなり)の陣から一町離れた場所に布陣、さらに一町離れた場所に島津義弘も布陣しました。

 

混戦の中で、伯父の陣を見失った豊久は、義弘が討たれたのではないかと心配し涙を流して探したそうですが、やがて合流します。

 

小早川秀秋

 

しかし、戦いは小早川秀秋(こばやかわひであき)の東軍への参加で、諸将は雪崩を打って東軍に味方し、島津隊は戦場で孤立、義弘は「もはやこれまで」と切腹を覚悟しました。ところが豊久は、戦後にやってくる島津家の難局には、義弘でなければ対応できないと考え切腹に反対します。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

「もはや天運は定まり敗北は明らか。私はここで戦死するゆえ、義弘公はなんとしても兵を率いて薩摩に帰られよ。国家存亡は義弘公の存命如何にかかっておりますぞ!」と言い、義弘に撤兵を促します。

 

豊久の覚悟を知った義弘は家康本陣をかすめて伊勢街道方面へ撤退。豊久は僅かな手勢で、その殿を務めました。

 

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捨て奸により壮絶な討死

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

島津義弘は東軍の前衛部隊である福島正則(ふくしままさのり)隊を突破、その殿にすでに死を覚悟した島津豊久隊が続きます。福島正則は歴戦の猛将らしく、死を覚悟している島津軍と戦う愚を悟り無理な追撃を部下に禁じますが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げました。

 

デタラメに強い本多忠勝

 

その後島津軍は、家康の本陣に迫った所で転進し、伊勢街道をひたすら南下。これに対し、井伊直政(いいなおまさ)本多忠勝(ほんだただかつ)松平忠吉(まつだいらただよし)らが追撃します。

 

井伊直政

 

ここで、豊久は捨て(がまり)と呼ばれる戦法を取ります。捨て奸とは、何名かずつの兵士が集まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅すると、また新しい足止め隊を数名選んで死ぬまで抗戦するという壮絶な戦法です。

 

当時、島津の兵力は少ないものの、鉄砲の保有率は関ケ原に参加した諸将で最大でした。その為、捨て奸では地べたに座り込んだ決死兵が敵の近づいてくるまでは鉄砲で狙撃して打ち倒し、接近すると斬りかかって捨石になったようです。

 

常軌を逸した捨て奸により徳川勢は追撃の速度が鈍り、遂に島津義弘は薩摩まで落ち延びる事に成功しました。

 

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執念を見せた島津豊久

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

薩藩旧記雑録によると、豊久は鉄砲で井伊直政の足を撃ちぬいて落馬させ、東軍の追討を撃退し、島津豊久、大量に出血という内容が記されているそうです。

 

さらに別の説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を9キロメートルほども追い駆け、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで力尽き息絶えたとか…それが本当なら、豊久はこの極限状態で、それでも生還して義弘の役に立とうと考えていたのでしょうか?

 

それとも、故郷である薩摩に少しでも近い場所で死にたいと願い極限状態で体をひきずりながら、歩き続けていたのでしょうか?

 

こうして島津豊久は、満30年の短くも太い生涯を閉じます。豊久には子供がなく、父子で鬼島津だった家久の直系は断絶しました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

島津家久と島津豊久、2人の武勇抜群の鬼島津は、小賢しい計略を練らず、変な処世術も使わず、力の限り戦って、それでダメなら討死すればいいというシンプルな生き方が共通しているように感じます。家久は島津家を残す為に戦い、豊久は父代わりだった義弘を生還させる事で島津家を守ったという事が出来るでしょう。

 

参考:Wikipedia

 

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