山田浅右衛門は、江戸時代御様御用という刀剣の試し斬りを務めていた山田家の当主が代々名乗った名前です。つまり1人ではなく江戸中期から明治初期を通じて9代の浅右衛門がいます。
また山田浅右衛門は試し斬りの性質上、罪人の首を刎ねる仕事もしており、首斬り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれました。今回は疎まれ葛藤しつつ、社会の必要悪を淡々と引き受け続けた山田浅右衛門について、分かりやすく解説します。
この記事の目次
首斬り浅右衛門誕生まで
日本刀はどんな名工が鍛えた名刀でも、実際に試し斬りをしないと性能が分かりませんでした。その事から刀剣の最終チェックとして試し斬りをする慣習が日本に根付きます。
試し斬りには、竹や藁なども使われましたが、戦場において斬るのは人間なので、やはり素材としては人間が一番という事になります。こうして戦国から江戸初期にかけ首を切断した罪人や行き倒れの身元不明の死体が試し斬りの素材とされ、よく公開で試し斬りが行われました。
江戸初期までは、殺伐とした世相を反映して大勢の見物人が出るほど賑わいますが、泰平が続くと人々は血を忌むようになり、試し斬りは非公開とされ幕府が任命した剣の達人が試し斬りの任務を請け負うように変化します。
江戸時代前期で一番有名な御様御用は山野永久とされ、6000人も斬ったそうですが、子孫に技量を継げる者がなく御様御用職を解かれました。
しかし、山野の弟子である山田浅右衛門貞武が自ら御様御用を願い出て、幕府はこれを許可、以来、代々の山田浅右衛門は家業として罪人の首を斬り、その肉体で刀剣の試し斬りをするようになり、人斬り浅右衛門の歴史が始まります。
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山田浅右衛門は幕臣ではなかった
御様御用は腰物奉行の支配下にある歴とした幕府の役目でしたが、山田浅右衛門は旗本や御家人ではなく最後まで浪人でした。これは、人を斬るという役目が死の穢れを受ける為、敬遠された解釈されがちですが、そんな不浄な仕事なら、そもそも幕府の公式の役職に入る筈もありません。
実際には2代目の山田浅右衛門吉時が将軍徳川吉宗に家臣に取り立ててもらおうと思ったものの機会を逸してしまい浪人身分が固定されたという説。
あるいは幕臣に取り立てると、それに甘んじて世襲の家系では試し斬りの力量を満たさないものが出現する恐れがあるので、それを恐れて浪人に留めた説もあります。
確かに山田浅右衛門の前の山野永久は幕臣でしたが、子供に試し斬りの技量を持つ者がなく、お役御免になっていて、こちらは信憑性がありそうです。
また、もうひとつは、もし幕臣になると公儀で定めた役目以外の収入が得られず貧しくなるので、浅右衛門自身が望んで浪人に甘んじた説もあるようです。
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子供に家を継がせなかった山田浅右衛門
歴代の山田浅右衛門は、多くの弟子を取り当主が役目を果たせない時は弟子が代行しました。
山田浅右衛門が多くの弟子を取った理由は、実子にこだわらず常に弟子に技量を競わせ公儀処刑人としての腕前が最も優れた者を跡継ぎにする為でした。
また、もう1つの理由は実子に首斬り家業を継がせたくないと考えた親心とも言われ、実際、山田浅右衛門家で父子相続が成立したのは、初代と二代目、7代目の山田朝右衛門吉利と8代目山田朝右衛門吉豊の2代だけで、後は弟子が家を継いでいます。
江戸時代が進むと、山田浅右衛門自身にも人間の首を刎ね、肉体を切り刻む仕事への嫌悪感が芽生えているのが分かり、痛々しい気持ちになります。
それでも刀が武士の魂である限り、たとえ生涯抜かないとしても刀の性能は試さないといけませんし、罪人の首を刎ねる仕事は必要でした。山田浅右衛門はこの武家の社会悪を背負い、泰平の江戸の世を淡々と生き続けたのです。
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小大名なみの財力
山田浅右衛門は浪人で幕府から決まった知行を頂く事はありませんでした。しかし、処刑された死体は山田浅右衛門の所有と認められていたので、この死体を使い刀の試し斬りをして生計を立てていました。
戦国時代ならまだしも江戸の泰平の時代には、人間の身体を使った試し斬りなど滅多に出来ず、それが唯一可能な浅右衛門の元には全国各地から刀剣と依頼料が届きました。その依頼は膨大な数で死体が間に合わないので、浅右衛門は一度、切り刻んだ死体を縫い合わせてから切り刻んだそうです。
また、自分で試し斬りをしたいという人には死体を売り渡したり、死体から内臓や脳を抜き取り、漢方薬の材料にするなどして売りさばいたり、吉原の遊女の為に死体の小指を遊女の小指と偽って贔屓の客に売るなどして巨万の富を築き、その財力は小大名並で幕府の日光参詣では300両も寄付しています。
ただ、歴代の浅右衛門は、時々は豪遊もしたそうですが、大金を自分が首を刎ねた死人の供養の為に寄付しました。裕福な生活が罪人の死の上にあることを自覚していたんでしょうね。
また罪人の中には辞世の句を詠む人もいたので、3代目の浅右衛門からは罪人の心に寄り添おうと俳諧を学び俳号も有していました。
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山田浅右衛門家の怪談
罪人の斬首は山田浅右衛門だけではなく、町方同心の役目でもありました。この時、同心が罪人を斬首すると刀の研ぎ代の名目で金2分が与えられる慣習だったそうです。
しかし、この役目を浅右衛門に譲ると、2分のお金は同心のものになり、さらに浅右衛門からも役目を譲ってもらったと礼金が受け取れました。山田家には試し斬りの依頼が大量に来たので、浅右衛門は同心達に付け届けし斬首があれば譲ってくれと声を掛けています。
こういう事もあり、事情を知らない人々は、山田浅右衛門は役目を代わってもらってまで人の首を斬りたがる血に飢えた人斬りだという噂もたてたようで真偽不明の怪談も出てくるようになりました。
例えば、山田家では首を斬る罪人が複数名いると、その人数分だけ蠟燭を灯してお役目に出ていき、浅右衛門が罪人の首を落とすと蝋燭の炎がひとりでに消える。こうして、蝋燭の炎が1つ消え、2つ消えして全部消えると、お役目が済んだと家人は噂しあったというような怪談が伝わっています。
また、ある日にはいかにも人相が悪い男が山田家を訪れて金を貸してくれと要求し、山田家が断ると「じゃあ俺の肝を買ってくれ。どうせあんたに首を斬られるんだ。その前金だ」と不気味に笑ったそうです。
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明治に入り歴史的使命を終える
徳川幕府が崩壊し、時代が明治になっても、いきなり山田朝右衛門の仕事が消える事はありませんでした。8代目の山田朝右衛門吉豊と弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き死刑執行の役割を担います。手当は当時のお金で1ヶ月五両でした。
しかし、時代は急速に変化していました。明治2年には東京府で試し斬りが差し止められ、山田家の大きな収入源が断たれます。もちろん朝右衛門は嘆願書を出しましたが無駄でした。
さらに、明治3年(1870年)には太政官布告で刑死者の試し斬りと人間の肝臓などの取り扱いが禁止され、山田家は大きな収入減を余儀なくされます。8代目山田朝右衛門吉豊は1874年(明治7年)には、斬役職務を解かれます。
弟の9代吉亮は、試し斬りの名人として大久保利通暗殺犯の島田一郎の斬首や毒婦と呼ばれた高橋お伝の斬首で名を馳せますが、西南戦争も終わった1881年(明治14年)には遂に斬役から市ヶ谷監獄書記となり翌年には退職しました。こうして、社会の暗部を背負って生きた人斬り浅右衛門の歴史的使命は、幕を下ろしたのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
明治に入り、歴史的な使命を終えた人斬り浅右衛門ですが、罪人の首をはねて生計を立てる特異な山田浅右衛門の生涯は、作家や漫画家、映画監督のインスピレーションを掻きたて、映画や小説、ドラマ、漫画の中で甦ります。
多くの作品の中で山田浅右衛門は、首斬りという残酷な家業と人間の精神のバランスを取りながらも、苦しみ悩む存在として描かれつつ、刀を抜いては凄腕の暗殺者という矛盾した存在として登場してきます。
泰平が当たり前の江戸時代に、山田浅右衛門は確実に人の首を落とせる存在であり、また、供養のために大金を散財した事実があるのでリアリティのあるキャラクターに仕立てあげやすいのかも知れませんね。
また、フランスにもムッシュ・ド・パリと呼ばれた死刑執行人の一族、サンソン家がありますが、こちらも歴代のサンソンが人間としては内省的で立派な人物です。
人の死を受け持つ処刑人は、否応なく自己の死生観を直視するので、洋の東西を問わず、こうした重厚で深みのある性格になるのでしょうか?
参考:Wikipedia
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