加藤清正vs福島正則、豊臣家に忠義を尽くしたのはどっちか考えてみた?

18/07/2021


福島正則

 

加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)は共に幼少期から豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、(しず)ヶ岳の戦いでは七本槍に数えられるなど秀吉の股肱(ここう)の臣として有名です。

 

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

しかし、秀吉没後2人の評価は分かれ清正は最期まで豊臣家に尽くそうとしていたのに正則はそうではなく、積極的に家康に取り入った裏切り者と見られがちです。でも、本当に清正は忠義を尽くし正則はそうではなかったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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福島正則の罪状とは?

野望を持ち始めた徳川家康

 

福島正則が非難されるのは関ケ原の戦いで徳川家康に加担したからです。

 

直接的な理由は石田三成が気に食わなかったからですが、それなら中立を保てばいいものを積極的に家康に肩入れしました。豊臣恩顧(おんこ)の福島正則が真っ先に家康に従う事を宣言したので、去就を迷っていた他の戦国大名も雪崩(なだれ)を打って東軍参加を表明したとも言えます。

 

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い(石田三成)

 

これだけでも家康には有難い事でしたが、福島正則の領地は尾張清須(おわりきよす)という戦略の要衝でした。また、正則は主家から預かっていた兵糧を家康に提供したとも言われ、これだけ豊臣の足を引っ張り家康を喜ばせたのですから、後世で裏切り者と呼ばれるのも当然と言えば当然です。

 

では、一方で加藤清正はどうだったのでしょうか?

 

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加藤清正の判断は正しいのか?

天下を収めた徳川家康

 

加藤清正も石田三成憎しで結果として家康に付く事になったのは同様でした。清正が関ケ原本戦の当日に豊後(ぶんご)中川秀成(なかがわひでしげ)に渡した血の起請文(きしょうもん)を見ると、

 

「この際は家康側に味方する事が秀吉公の遺言の趣旨(しゅし)にも沿うし、秀頼様への御奉公にもなる」と言っています。

確かに関ケ原の戦いは徳川家VS豊臣家ではなく、豊臣五大老の家康と五奉行の石田三成の戦いでした。ここを踏まえると清正は決して反豊臣ではなく、同じく豊臣の臣として三成と家康のどちらを選ぶかで、虫が好かない三成ではなく家康を選んだという考え方も成り立ちます。

 

自分に人望がないことに腹を立てる石田三成

 

しかし、だとしても横暴な振る舞いが多くなっていた徳川家康に味方した結果、豊臣政権内での家康の勢力が拡大して豊臣家を乗っ取るというのは、清正ほどの人物なら容易に想像が出来る事だと思います。

 

それが分からないほど清正が家康に心酔していたり、三成を嫌っていたのだとすればあっぱれ豊臣家の忠臣と手放しには褒められないような気もします。

 

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はじめての戦国時代

 

イメージが違う二条城での会見

名古屋城

 

加藤清正は、慶長16年(1611年)二条城における家康と秀頼の会見を取り持つなど和解を斡旋(あっせん)したとされます。

 

しかし、加藤清正は豊臣秀頼の護衛ではなく既に次女八十姫(やそひめ)との婚約が成立していた家康の十男徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の護衛で徳川の臣下として会見に参加していた事が明らかになっています。

 

一方で清正は頼宣と共に秀頼の豊国神社(とよくにじんじゃ)の参詣や鳥羽までの見送りに随行していて、家康としても徳川と豊臣の和解の為に清正の役割に期待する面もあったようです。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

ただ、それを割り引いても清正が事実上、徳川の臣である事実は覆りようもなく、「いや!清正は徳川に取り込まれたフリして豊臣を守っていたのだ」という説も説得力が弱いような気がします。

 

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徳川と豊臣の板挟みになった清正

戦国時代の武家屋敷b

 

晩年の清正は早く死にたいと口にするようになっていたようです。その理由はいずれ、豊臣と徳川で対決となれば自分は豊臣につかざるをえないが、とても勝ち目はない。

 

さりとて徳川について不忠者と謗られたくもない、だから死んでしまいたいというもので、、息子に代替わりしてしまえば、徳川方についても罪は軽いから家も保てるだろうと語ったと烈公間話(れっこうかんわ)に出ています。

 

どうもこのあたりが清正の本音で、家を潰しても豊臣を守るほどの気概は少なくとも晩年にはなかったようですね。

 

そして清正は望み通り、大坂の陣を見る事なく慶長16年に病死しました。この点は長生きした事で徳川方への関与が露骨になった福島正則より得をしています。

 

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福島正則と大坂の陣

炎上する城a(モブ)

 

一方、福島正則は関ケ原での手柄で安芸(あき)備後(びんご)で50万石近い大大名に昇進しました。こういう華麗なる栄達も裏切り者イメージを助長するのかも知れません。

 

豊臣秀吉の家臣で勇猛果敢な福島正則

 

大坂冬の陣で福島正則は江戸に留め置かれ従軍を許されず嫡男の福島忠勝(ふくしまただかつ)が幕府軍として参加しています。清正は豊臣秀頼に加勢を求められますが拒絶、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するにとどまります。

 

ただ、それでも一族の福島正守(ふくしままさもり)福島正鎮(ふくしままさしげ)は豊臣軍に参加しました。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

一説で正則は「自分の(しかばね)を踏み越えても豊臣に味方せよ」という密使を広島に出したものの重臣が躊躇(ちゅうちょ)して実現しなかったと言われますが、嫡男の忠勝が幕府軍で参加しているので、これは現実離れした内容に思えます。

 

「武勇に長けるが、大酒吞みで智謀に乏しい猪武者と呼ばれた福島正則

 

正則も最初から、重臣が真に受けまいと見越して鬱憤(うっぷん)を書状に吐いただけかも知れません。

 

それでも正則の弟の福島高晴は豊臣家に兵糧を横流ししたとして、幕府に改易を命じられていますから、正則個人がどうであるかは別として豊臣に忠義であろうとした人が福島家には多かったとは言えます。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

豊臣への忠義に揺れつつも、徳川の臣として生きる選択をした清正と正則ですが幕府にとってはどちらも外様(とざま)の危険な存在にすぎず、両家とも改易(かいえき)を免れませんでした。

 

福島正則に仕える可児才蔵

 

こうしてみると、清正と正則に豊臣家への忠義について特段に甲乙はつけられず、どちらも心情的には豊臣の臣だが現実問題、家を守る為に徳川に仕え豊臣には消極的な支援で報いたというのが適切かも知れません。

 

参考文献:戦国武将人気の裏事情 PHP新書

 

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織田信長スペシャル

 

 

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