上杉謙信の部下、最強越後軍団を徹底解説!一番強いのは誰かを考える

17/07/2021


上杉謙信

 

越後(えちご)の龍、上杉謙信(うえすぎけんしん)甲斐(かい)武田信玄(たけだしんげん)と何度も死闘を繰り広げてきたのは、謙信自身の強さもさることながら数多の知将、猛将に恵まれた事もあります。

 

そこで今回は最強越後軍団を紹介し、一番強いのは誰かを考えてみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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上杉家の猛将紹介!

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

では、最初に軍神上杉謙信の戦いを支えた上杉軍の猛将から紹介します。

 

荒川長実(あらかわながざね) 永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いで旗本本陣を務めた。

謙信の影武者を務めたという説もある。

その際、武田軍本陣に単騎で攻め寄せ信玄に3太刀斬りつけ2カ所に傷を負わせたが討ち取れなかったという伝承が残る。

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には武田家でこの荒川長実が上杉謙信ではないかと噂されたと記述された事から、信玄と謙信の一騎打ちや三太刀・七太刀の伝説が定着したとされる。

合戦後の行方は不明で国許に帰れなかったとも伝わる。

小島弥太郎(こじまやたろう) 妙高高原(みょうこうこうげん)あたりの出身で上杉謙信の幼少期から側近として仕えた。

30人力とされた強力無双の豪傑で巨大な金棒を振り回し、敵を鎧や馬もろとも破壊。鬼小島弥太郎(おにこじまやたろう)の異名がある。

しかし、強いだけの残忍無比の人物ではなく、川中島の戦いで弥太郎と一騎打ちをしていた山県昌景(やまがたまさかげ)が武田信玄の嫡男(ちゃくなん)の武田義信が窮地に陥ったので「主君の御曹司(おんぞうし)の窮地を救いたいので勝負を預けたい」と願い出ると弥太郎は「心得(こころえ)た!」と快諾して一騎打ちを止めた。

昌景は弥太郎の行動に感銘を受け川中島の戦いの後に「花も実もある武士」と称賛した。あまりの豪傑ぶりに架空の人とする説も多い。

柿崎景家(かきざきかげいえ) 越後上杉氏の重臣で謙信と晴景の後継者争いでは迷わず謙信についた。

謙信の下で七手組(しちてぐみ)大将の1人に数えられ、先手組300騎を率いて上杉家屈指の戦上手とされる。第四次川中島の戦いでは、先鋒を務めて武田信玄の本陣に迫り、信玄本陣を壊滅寸前まで追い込んだ事はあまりに有名。

上杉軍の戦いでは常に景家が先鋒で、景家の名前を聞いただけで敵兵は怖気づき逃げていったと言う

甘粕景持(あまかすかげもち) 長尾景虎が関東管領職に就任した時に宇佐美定満(うさみさだみつ)、柿崎景家、河田長親(かわだながちか)と共に鶴岡八幡宮で御先士(おせんし)大将を務めた。

永禄4年の第四次川中島の戦いでは、景持が殿を引き受け、千曲川に布陣して妻女山から下ってくる武田の別動隊と激戦を繰り広げた。

甲陽軍鑑では謙信秘蔵の侍大将の中で甘粕近江守は筆頭なりとし、「松隣夜話(しょうりんやわ)」では「勇気知謀兼備した侍大将」と激賛している。

謙信没後は上杉景勝に仕え、会津若松、米沢の二度の移封にも従い千百石を領有した。

斎藤朝信(さいとうとものぶ) 刈羽郡赤田保の赤田城主で早くから謙信に仕えた四家老の1人。

越中攻略や川中島の戦いなどの主要な合戦に参加し越後の鍾馗(しょうき)の異名を取る。謙信からの信頼は絶大で、関東管領職就任の時には柿崎景家と太刀持ちを務めた。武芸だけではなく戦術家としてもすぐれ、謙信は苦戦が予想される相手には斎藤朝信を差し向けていたとされる。

天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景勝を支持し、上杉景虎を支持していた武田勝頼との外交交渉に当たり甲越同盟を締結して上杉氏の基盤を安定させた。朝信は忠義と仁愛の心が深く士卒を労わり百姓をいつくしんだので万人から慕われた。

内政でも活躍し、武闘派が多い上杉家中では目立つ存在でもあった。

本庄繁長(ほんじょうしげなが) 揚北衆出身でライバルの本庄長資を支持していた謙信と対立した。

しかし永禄2年(1559年)に謙信の上洛を期して配下に加わり、川中島の戦いや関東攻めで武勲を挙げた。

しかし、元々が長尾氏の支配に与さない独立した国衆だけあり、謙信の戦術を批判した長尾藤景(ながおふじかげ)を謙信の命令で誅殺した時。恩賞がない事に立腹し、あろうことか武田信玄に内応して謀反を企み、謙信が能登に侵攻している時に行動を起こすものの計画が漏れて失敗。

引き返した謙信の大軍に攻められて降伏するが、その後も何事もなかったかのように重用された。上杉景勝の時代に会津若松に移封となると、1万1千石の大身の旗本となる。

水原親憲(すいばらちかのり) 上杉謙信の配下、新発田(しばた)攻めに従軍して戦死した水原満家の家督を継いで、水原親憲となるがそれ以前の経歴は不明。御館の乱では上杉景勝を支持して重臣となり関ケ原の戦いの派生、慶長出羽合戦(けいちょうでわがっせん)長谷堂城(はせどうじょう)の戦いでは、自ら鉄砲隊を率いて殿(しんがり)を務め前田利益(まえだとします)と共に退却戦を成功に導いている。大変な反骨漢(はんこつかん)であり、関ケ原の戦いの後、徳川家に従属した主君景勝にも批判的だった。大坂の陣でも鉄砲隊を率いて活躍したが、2代将軍秀忠より感状を受けると、「子どもの石合戦程度の事で感状を貰おうとは!」と、平然と言い放ったとされる。
前田利益(まえだとします) 漫画やゲームでは前田慶次として知られる。

前田利家の甥として利家に仕え秀吉の天下統一事業に協力するが、

様々な理由から前田家を出奔し、しばらく京都で浪人生活をした後、

会津若松に移封になった上杉景勝に仕えた。慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦、長谷堂城の戦いでは退却戦で手柄を立てたとされる。

上杉家が米沢に移封された後も付き従い、隠居後は盟友の直江兼続と史記に注釈を入れたり、和歌や連歌を楽しむ悠々自適な余生を送った。

 

上杉家には武勇を以て鳴る猛将が多いようです。最後の前田利益については、上杉謙信の在世中には仕えていませんので、記事タイトルに反していますが、おまけという事で入れました。

 

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上杉家の知将紹介

 

戦いは猛将だけでは出来ません。そこで、帷幄の中で謀略を巡らし、千里の外に勝敗を決する上杉家の知将を紹介します。

 

直江景綱(なおえかげつな) 景綱は上杉氏の陪臣の家系で一時は長尾氏と対立したが、やがて与板城主として上杉氏の側近として仕えた。政治手腕に優れ、為景(ためかげ)晴景(はるかげ)、景虎の3代の当主に仕え、上杉四天王、上杉二十五将の1人に数えられる。上杉謙信を擁立して家督相続に動いた主要人物の1人であり、

それだけに謙信の期待は大きく、旗本衆として重用され領国経営にも責任を負い、謙信が関東征伐に出向くと春日山城の留守居を任された。

宇佐美定満(うさみさだみつ) 宇佐美氏は伊豆国の宇佐美荘を本貫地(ほんがんち)とするが、関東管領として越後に入境してきた上杉憲顕(のりあき)に従い越後に入府したとされる。

長尾為景の反乱に対しては、為景が傀儡としていた上杉定実の弟の上条定憲を立てて反旗を翻したが後に降伏した。

為景の隠居後は、長尾景虎(謙信)に仕え対立した長尾政景を攻めて降伏させている。ちなみに北越軍記や各種軍記物に登場する越後流軍学の祖で、謙信の軍師として知られる宇佐美定行(うさみさだゆき)と同一視される事が多いが、一次史料に宇佐美定行は登場せず幻の軍師とされる。

直江兼続(なおえかねつぐ) 上杉謙信の養子となった長尾政景の子の顕景(上杉景勝)の小姓として春日山城に入り、謙信亡き後、御館の乱を経て景勝が上杉家を継ぐと、景勝の命令で上杉家重臣の直江家を継ぐ。

その後は実質的に上杉家の内政と外交を取り仕切り、上杉家中では景勝を「上様」、兼続を「旦那」と呼び、二頭政治が続いた。

兼続は、逸早く豊臣政権に服属する事で上杉家を救い、会津転封で出羽米沢城主となり30万石の大名にまでなるが、秀吉没後には家康との対立を回避できず、慶長出羽合戦を戦うが関ケ原の戦いで家康の東軍が勝利し、上杉氏は米沢30万石に転封となった。

しかし、上杉家を滅亡させずに転封に留めたのは兼続の外交手腕の力でもある。

千坂景親(ちさかかげちか) 上杉氏の庶流で四家老の1人。常に謙信に近侍しているので手柄についての記録は少ない。主に外交交渉を担当し本能寺の変後には逸早く羽柴秀吉への使者を務めて景勝の上洛にも帯同。伏見留守居役に命じられて諜報活動に従事した。家中でも逸早く徳川家との和睦を主張し、上杉家が江戸時代にも生き残る上で重大な貢献をする。

初代の江戸家老に任じられた。

色部勝長(いろべかつなが) 揚北衆(あがきたしゅう)で、本庄氏とともに越後秩父氏(えちごちちぶし)を形成した。

長尾為景、晴景、景虎の3代に仕えた宿老で一時は上条定憲について長尾氏に叛くが再び帰属した。

その後は独立心が旺盛な揚北衆のとりまとめと調停をして謙信の信頼が厚く、関東から信濃へと参陣を求められ、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは柿崎景家の窮地を救い獅子奮迅(ししふんじん)の活躍を見せ、謙信より血染めの感状を受けた。

 

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はじめての戦国時代

 

上杉家に忠義を尽くした忠臣達

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

武将は強いだけでも賢いだけでもありません。主君や味方を守る為、命を懸ける忠義の臣もまた顕彰されて然るべきでしょう。

 

吉江景資(よしえかげすけ) 吉江氏は西蒲原郡(にしかんばらぐん)吉江を領した上杉氏か長尾氏の分家とされる。

天正10年(1582年)3月、吉江景資が籠城する越中魚津城(えっちゅううおづじょう)は織田家重臣、柴田勝家の

北陸方面軍の猛攻を3カ月に渡り耐え抜き6月に落城。

吉江一族は景資を含め全てが自害する。しかし、その直後に信長は本能寺で横死。柴田勝家は上杉氏の反撃を受けながら退却を余儀なくされた。

河田長親(かわだながちか) 上杉家では珍しく近江国の出身。上杉謙信の二度目の上洛後に召し出されて旗本として仕える。主に外交面を担当したが一向一揆(いっこういっき)が激しくなると、その最前線の魚津城に派遣された。

謙信死後に攻勢を強めた織田軍に対抗して戦うが、織田信長はその才能を惜しんで近江国に領地を与える条件で引き抜こうとするが拒否。

天正9年(1581年)越中松倉城で長親が病死すると統制を失った上杉軍は各地で織田軍に敗れるようになった。

 

上杉氏の忠義の臣としては、この2人が代表的でしょう。

 

特に河田長親は織田信長から直接に引き抜きをうけながら拒否してまで上杉家への忠誠を貫いたあたり、上杉家に強い愛着を持っていた事が窺えます。

 

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戦国上杉軍団の最強は?

暗号を使う上杉謙信

 

上杉軍団の最強は伝承まで込みなら小島弥太郎や信玄に太刀を浴びせたと言われる荒川長実が挙げられると思います。しかし、史実縛りだと名前が出るだけで敵兵が逃げ出した柿崎景家や知勇兼備で、常に困難な敵のいる場所に配置された斎藤朝信でしょうか?

 

武力だけに限定しないなら、諜報の達人で上杉家存続に貢献した千坂景親も捨て難いですね。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は上杉家の猛将、知将、忠義の臣、合計で15名を紹介してみました。これで全部というわけではありませんが、上杉軍の層の厚さが分かる内容になったのではないかと思います。

 

参考文献:戦国大名家臣団 興隆と滅亡

 

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