借りたお金は返すというのは、子供でも知っている経済の基本です。もし、これが守られないなら金融機関は倒産し資本主義経済は崩壊するでしょう。実際には自己破産のように、借金返済免除になる法律もありますが大きなペナルティーがあり、簡単に選択できるような方法ではありません。
しかし、中世日本には徳政令という借りたお金を踏み倒す事を合法とするアンビリバボーな法律がありました。もしや、中世人は遵法精神がないヒャッハーな人々でしょうか?
いえ、そうではありません、徳政令の背景にはそれなりの理由があったのです。
※今回は、徳政令 なぜ借金は返さねばならないのか 講談社現代新書を参考に徳政令の発生と変遷を考えてみます。
鎌倉時代の徳政
徳政令は一般に朝廷や幕府が借上や土倉のような債権者・金融業者に対して債務放棄を命じた法令と考えられています。しかし、元々徳政とは、天人相関思想に基づいて為政者の代替わりや災害などに伴う改元が行われた際に天皇が行う貧民救済事業や神事の興行、訴訟の受理のような社会政策を行う事を意味しました。
これは、君主に徳がないから天変地異が起きるという考えから、君主が反省して人民に奉仕する事で求心力を取り戻そうという一種の人気取りです。承久の変後、政治的に朝廷の上位に立った鎌倉幕府も徳政を踏襲、元寇以来、生活に困窮した御家人の債務帳消しなどを行いました。ただ、この時点では庶民の債務帳消しを含めた徳政までには到っていなかったのです。
室町時代の生活に不可欠な土倉
徳政令と言うと、高利貸しの土倉が弱い庶民の苦しい生活に付け込んでお金を貸し付けて、暴利を貪ったので庶民が立ち上がって幕府に抗議して幕府が債務帳消しの命令を出したと考えられがちです。しかし、室町時代の初期の土倉は、嫌われているどころか庶民の生活に必要不可欠でした。室町幕府が草創期に出した建武式目では、土倉の営業を再開させてやらないと、生活に困る人々が上下問わず出るので緊急に再建すべきと書いています。
どうして、当時の人々が土倉を必要としたのか?それは、当時の給与が年俸制だった事に関係していました。室町時代には、農作物の収穫時期である10月が収入月であり、諸々の決済も10月に行われ、差し引きした残額が向こう1年間の生活費に充てられたのです。
ところが現実には、1年の間には、葬式や祝儀や病気や、色々の急な出費が出るもので、そうなると、10月までどころか、5月になると生活が苦しくなる人々が出るのが普通でした。現代人の私達ですら、月末には懐が寂しくなり倹約をするくらいですから年俸となると、もっと厳しかったのです。
こうして、お金に困った人に資金を融資したのが土倉で、当時の都市部では、余程裕福な人々以外、土倉の世話にならない人はいないくらい土倉は無くてはならなかったのです。だからこそ、建武式目は土倉の復興を目的に掲げたのでした。
金貸し専門の土倉沙汰人の登場
元々、土倉の仕事は相場を見ながら収穫物を売買し運用益を出すもので、金貸しは副業に過ぎませんでした。金融で利益を出す必要が薄いので、貸出額も少額で利子も低利だったのです。また、地方では土倉の代わりに荘園主が私出挙を行い、荘園内の農民に、今で言えば数万円単位の小口融資をして収穫までの資金の繋ぎをしていました。これは顔が見える隣近所の貸し借りなので、利子も低利であり、借り入れても必ず返済できていて、債務不履行に陥る事は少なかったのです。
しかし、15世紀の初頭から中期に掛けて、災害が頻発し室町幕府や守護からの課税額が大きく引き上げられると、地方の荘園領主が経営難に陥り、小口の金融業を廃業するケースが続出します。この結果、お金を借りる宛てが消えた地方の農村では、都市の土倉から直接借金をするようになりますが、この時に出現したのが土倉から資金を借りて地方の人々に貸し付ける土倉沙汰人と呼ばれる純粋な金融業者でした。地域金融を担っていた荘園主が没落した事で、金に困った多くの顧客を得た形になる土倉沙汰人は、多少の貸し倒れを心配する必要がなくなり、その数を増やし勢力も大きくなって行ったのです。
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土倉から税金をむしり取る室町幕府
しかし、土倉沙汰人が暴利を貪り庶民を苦しめたと悪党だと一方的に断罪できません。実際には、室町幕府も土倉酒屋役という税金を貸して土倉から搾り取った事実があるからです。
応永元年(1394年)3代将軍足利義満は、自身に反抗的な態度を取り続けた比叡山延暦寺の日吉社に参詣します。これは形式上、義満が自発的に出向いた形ですが、事実は延暦寺から義満に来てもらったという形でした。こうして、延暦寺を組み伏せた義満は、京都市中に300を超える土倉を抱える延暦寺に対し、土倉酒屋役と称した税金を課します。
つまり、義満は土倉で大儲けしている比叡山に対し、
「お前ら金貸ししてたんまり儲けているそうじゃあねーか?あ?その金を、少しはこっちにも回してくれや、俺は金が入り用なんだよ」
このように脅しを掛け、延暦寺も土倉の利益から幕府に税金を支払う事を承知します。しかし、義満は巧妙にも、幾ら払えと金額を決めませんでした。かくして室町幕府は、資金に困ると土倉酒屋役を増やすというやり方で、土倉から税金を吸い上げるようになり、やがて土倉酒屋役は室町幕府の財源の柱になるのです。
でも、よく考えてみれば、幕府が土倉から税金を取ればとるだけ、土倉は存続する為に債務者から容赦なく借金を取り立てるという悪循環になりました。徳政令の原因は、土倉だけではなく土倉酒屋役で税金を取り立てる室町幕府にもあったのです。
地方を見捨てる幕府
義満の子の足利義持の政権末期の1420年代には全国各地で飢饉が頻発、さらに、李氏朝鮮が倭寇討伐を名目に対馬を攻めるなど政治問題が噴出し、幕府はそれまで敬遠していた朝廷や寺社に対する祈祷や祭事・儀礼に資金を投入していくようになります。
本来は朝廷の仕事だったこれらの事は、幕府が行政権を握った事で当然、天下人である室町将軍の義務になったわけです。問題はその資金ですが、足利義持は遣明船貿易を禁止した事もあり、財源は国内に求めるしかなくなり、守護に上納金を納めさせ、土倉酒屋役を強化するしか方法がありませんでした。そればかりではなく、際限のない酒屋土倉役への依存は、足利義持の正室、日野栄子と奥向きの女房の無駄遣いにも現れました。
永享2年(1430年)奥向きで使用された額は1年間で一万九千貫文、現在価格で20億円にもなり、京都の土倉が幕府に文句を言った事が記録されています。
また、この頃になると各地の守護大名は京都に在住するようになり、菩提寺も京都におき、地元にはほとんど帰らないで、統治は守護代に丸投げするようになります。幕府も守護大名も、飢饉と借金苦で苦しむ庶民の状況を一切知らず、ひたすらに税金を徴収する事のみしか関心がなかったのです。まるで消費税が、デフレの日本経済にいかに悪影響を与えているか、少しも分らず、取りやすいという理由で消費税増税を口にする21世紀日本の政治家のようです。
中世には借金を返さねばならないという慣習と、元本さえ払えば後は払う必要はないという相反する慣習がせめぎあっていましたが、現場を知らない幕府と守護に対して、怒る庶民の怨念は、借金を踏み倒せという意識に傾いていくのです。
嘉吉の徳政一揆勃発
悪政に無自覚な室町幕府に対する庶民の怒りは、正長元年(1428年)4代将軍足利義持が死去した時に爆発します。将軍の代替わりを捉えた庶民は債務免除を求めて徳政一揆を起こしたのです。
正長一揆は、馬借や車借のような借金に苦しむ零細運送業者の集まる近江から始まり、若狭、播磨、丹波、摂津、和泉、河内、伊賀、伊勢に拡大しましたが、幕府の初動が早く、結局一揆勢は室町幕府から徳政令を引き出す事が出来なかったものの、興福寺や在地勢力から私徳政を引き出す事が出来ました。そして、正長の徳政一揆から13年後、今度は万人恐怖と恐れられた6代将軍足利義教が、赤松満祐に暗殺された事で、再び近江で徳政一揆が起こります。
この時は、馬借・車借と呼ばれる個人の流通業者が、各地に散って、在地勢力に蜂起の日時を伝えて一斉蜂起、幕府軍の対応も間に合わず、数万人の一揆勢が京都に突入、土倉に対して借用書の提出を強要しその場で焼き捨て、拒否した土倉に対しては土倉を焼き払うなど強硬措置を取り、自力救済を成し遂げました。
室町幕府は京都を守れず面目は丸つぶれ、結局前回は出さなかった徳政令を出し、売却した土地で20年経過していないものについては元の持ち主に返すように命じたのです。
日本史ライターkawausoの独り言
こうして、徳政を出した室町幕府は以後、なし崩しで徳政令を頻発するようになります。しかし、簡単に債務を免除してしまえば土倉は利益を上げられず、次第に金融業は滞っていく事になります。
徳政が出ても、長い目で見れば、お金が借りにくいだけで不利益が多くなると知った人々は、次第に債権者保護の視点を持つようになり、江戸時代に入ると借金棒引きを求める徳政一揆は姿を消していくのです。
しかし、中世の正長の徳政一揆も嘉吉の徳政一揆も、ただ庶民が暴力で借金を返すまいとしただけではなく、飢饉や増税に無自覚であった幕府に対する庶民の怒りの表明であったという視点は忘れてはいけません。彼らはただの常識外れな暴徒ではないのです。
参考文献:徳政令 なぜ借金は返さねばならないのか 講談社現代新書
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