日本で物流の中核を担っているのはトラック野郎として知られるトラックドライバーです。いくら工場で商品を生産しても、それを目的地に運ぶトラック野郎がいなければ経済は完全に停止し、飢餓のような深刻な事態を招くでしょう。そんなトラック野郎の原型が、室町時代の物流を担い、土一揆の影の主役になった馬借でした。今回は知られざる馬借について解説します。
この記事の目次
貨幣経済の浸透で勃興した馬借
古代日本では、律令制の下で人民に租・庸・調の税金を課した事はよく知られています。当時の農民は庸・調で絹や布や糸のような特産品を生産した上、商品を都まで運搬する運脚という義務を背負っていました。さらに、輸送に掛かるコストは全て人民が持つので、非常に重い負担になっていたのです。
しかし、平安時代も中期になると墾田永年私財法が施行され、公地公田制が崩れ、各地に荘園が誕生して大和朝廷の統治が及ばなくなり律令制が形骸化、運脚も消滅していきました。
その後、鎌倉時代も末になると貨幣経済の勃興により近畿圏、若狭、近江、大和、越前のような地域において、荘園で生産された余剰物資を輸送して相互に補完する広域経済が成立するようになります。この輸送の急増に応え、自然発生したのが馬の背に物資を乗せて運ぶ馬借や、人力、または牛や馬に荷車を引かせる車借という運送業者でした。
元々、個人事業者だった馬借ですが、貨幣経済の発展に伴い規模も次第に大きくなります。文永7年(1270年)の勧学講条々によると、馬13疋を1チームとする隊商を組んで、街道を往来するようになったようです。この頃には、馬借も、職業組合である座を組み、自分達の商売が安定するように対応していた事が窺えます。
馬借の根拠地
馬借は、運送業者なので貨幣経済が逸早く発達した近畿地方の荘園の輸送ルートに拠点を置いていました。当時の主な馬借の拠点には、以下のような地名が出てきます。
越前国:山内、浦、
若狭国:敦賀、疋田、小浜、
山城国:淀、山崎、木幡、伏見、
大和国:生駒、島見、八木、布留
播磨国:小浜、大原
近江国:小谷、坂本、大津、草津
これらは中世から戦国時代にかけて交通の要点でした。馬借や車借は、これらの拠点を中継して、都市への生活必需品を運搬売買し、生計を立てていたのです。また、馬借は専業の運送業者もいたものの、周辺農民が農閑期には仮座に入って馬借をする事も多くありました。今風に言えば、兼業農家ですが、この点から馬借と農民の緊密な関係を知る事が出来ます。
生活に追いつめられる馬借
このような馬借ですが、その生活は流動する経済に強い影響を受けて生活は不安定なものでした。11世紀に成立した新猿楽記という史料には、馬借・車借について以下のようにあります。
東は大津、三津を馳せ、西は淀の渡し山崎を走る。
牛の首はただると言えども、一日も休むることなし。
馬の背は穿つと言えども、片時も憩えず。
常に駄賃の欠少なるを論じて、
とこしえなに、車力の足らざる事を争う
簡単に解釈すると、年中無休で働き、牛は首を垂れて、馬は背中に荷ずれが出来ても少しも休憩できずに賃金が安いと嘆き、人手が足りない、仕事がきついと毎日、言い争いをしているみたいな意味です。
なんだか、人手不足と激務の割に給料が安いと言われる現代の運送業者の人も身につまされる内容かも知れません。これは11世紀ですが15世紀になっても、馬借を取り巻く状況は良くなるどころか増々悪くなっていました。
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高利貸し土倉とそれに集る幕府
15世紀の前半、日本では地方の荘園に対する幕府や守護大名の役負担が重くなり、同時に洪水や旱魃のような自然災害が、地方の荘園領主を襲い、その経営を破綻させました。
このような地方の荘園は、余剰物資の運用以外にも、荘園内の領民や馬借に運転資金を低利で貸し付けるような地方銀行の役割を果たしていましたが、自身が経営難に陥っては、それも不可能になります。
荘園領主に融資を断られた零細荘園領民や馬借は、都で土倉沙汰人と呼ばれた高利貸しから、高い金利でお金を借りる羽目になり、支払いが滞り、貸し剥がしにあうなど被害を受けました。
一方で、室町幕府は、高利貸しをして莫大な富を得ている酒屋・土倉に目をつけ、酒屋土倉役という税金を課して絞り始めます。
すると図式的に、室町幕府→土倉→荘園領主・荘園領民
このような搾取の構図が出来上がってしまい、幕府が税金を絞ると、その絞られた分、土倉は金利を吊り上げて、高利貸しに励む形になり、全ての負担は庶民に押し付けられました。
庶民は、土倉に集るだけで庶民の苦しい生活に何の手も打たない幕府や、守護に対する恨みや不満が爆発し、それが土一揆のマグマに繋がっていくのです。
土一揆発生!先陣を切る馬借
室町時代の土一揆には、正長元年(1428年)の正長大一揆や、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の大一揆がありますが、その前段階から馬借は土一揆の先頭に立っています。応永25年(1418年)には大津馬借数千人が、次いで1426年(応永33年)には、坂本馬借数百人が武装して京都に乱入しました。
そして、1428年には、「我が国開闢以来、土民の最初の蜂起なり」と大乗院日記に書かれた正長大一揆が起き、馬借は大津、醍醐、山科という普段の物資輸送ルートを通り京都に押し寄せ、寸前の所で幕府の軍勢に京都侵入を阻止されます。
永享5年(1433年)には、坂本馬借が山門強訴の尖兵として、加茂河原で連日諸大名の軍勢と対峙、大原辻では300人余りが合戦に及んでいます。
そして、嘉吉元年(1441年)には、将軍足利義教の暗殺を受けて代替わりの徳政を求める土民が蜂起、1万人以上の土民が四方から鐘を叩きつつ京都に侵入します。余りの数の多さに、守護大名は、押しとどめる事が出来ず、京都各地で土倉が焼かれました。
また、京都に通じる交通網が土民一揆により封鎖された為に食糧不足が発生。さらに、土一揆軍は借金帳消しを許可しないと寺社を焼き払うと幕府を脅したため、ついに幕府は折れ、最初に山城国一国に限り、借金の帳消し(徳政令)を認めたのです。
この時も馬借は、各地で合戦に参加し、また広範囲の荘園に健脚を飛ばして飛んでいき、日時を決めて京都進軍を促すなど大きな役割を果たしています。
遂には、「土一揆の成功は、馬借の了解を得られるかどうか?」と言われるほどに馬借は土一揆の主力になっていくのです。
徳政が常態化し馬借は土一揆の前線から退く
しかし、享徳3年(1454年)に発生した享徳大一揆により、室町幕府が分一徳政令という法を定めた事により、馬借は土一揆の前線から次第に退くようになります。
分一徳政令とは、永代売買を除く金銭貸借について、幕府に訴え出れば、債権者は幕府に債権額の1/5の手数料を支払う事で債権を安堵し、逆に債務者は債務総額の1/10を支払えば債務を帳消しにする、ご都合主義のふざけた法律でした。
徳政令は、15世紀前半の洪水や旱魃、幕府や守護の負担増で没落した荘園領主を救い、逆に高利貸しで繁栄した土倉を没落させ富の偏在をバランスさせました。しかし、荘園領主が富裕になり、今後貸金を行う時には、分一徳政令を意識しないわけにはいかなくなります。
お金を貸しても、債務者が徳政と称して幕府に駆け込めばチャラになるのですから当然です。こうして、荘園領主はデメリットが多くなった徳政から距離を置くようになりました。分一徳政は、借金苦を救えても、金持ちになる事を阻害する悪法だったからです。
馬借は多くが荘園領主の庇護を受けていたので、荘園領主が徳政に消極的になると、当然、自分達も徳政一揆には参加しなくなります。こうして、馬借は一致団結して土一揆の尖兵を務める事がなくなって元の運送業者へと返り、徳政を求める土一揆は急速に終焉を迎えるのです。
日本史ライターkawausoの独り言
馬借は、農民ばかりではなく、没落した武士等、様々な身分から構成されていました。元々が武士の馬借なら合戦なども手慣れたもので、数が集まれば守護の軍勢にも対抗できたのでしょう。粗暴だが、庶民に近く義理人情に厚い人々と馬借を定義すれば、映画の菅原文太扮するトラック野郎にもイメージが近い感じがしますが、どうでしょうか?
参考PDF:馬借集團の活動とその構進 野田只夫
参考文献:徳政令 なぜ借金は返さねばならないのか?
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