弥生時代

縄文文化と弥生文化はどう違う?土器や社会構造の違いで分かる古代日本

Maruki-boat(丸木舟-弥生時代)

 

日本は他国の大規模な侵略を受ける事なく、東北から九州までの民族が緩やかに統合して出来た国です。そのお陰で良くも悪くも国民性が均一なんですが、それでも2000年の歴史の中では、大きな文化の変化が起きました。そこで、今回は縄文文化と弥生文化の違いを比較し分かりやすく解説します。

 

縄文時代の社会とは?

Yan-Liang(イノシシと顔良)

 

石器時代まで、日本人の生活は狩猟をメインとしたものでした。しかし、ナウマンゾウや鹿、イノシシのような獲物は時と共に数を減らしていき、人々の生活はドングリやイモを栽培して食べるようになります。

 

また氷河期が終わるに従い、海の水位が上がり漁撈も始まるようになり、人々は獲物を追って移動するより、海に近く美味い木の実が取れたりイモが栽培しやすい土地に定住するようになります。こうして縄文時代には集落が生まれていき、血縁集団が広場を中心に竪穴式住居を立て、後に貝塚になるゴミ捨て場を決め、長期そこに住めるように工夫します。

 

farmers(農民)

 

しかし、主要な食事だったドングリは、そのままでは食べられず木の実を潰して粉にし水で練って丸めた上に、縄文式土器で長時間火を()いてアク抜きしないと食べられず、その割には栄養価も低いものでした。当然、全体で得られるカロリーは少なく、人々の寿命は短く人口はなかなか増えません。狩猟と採集の生活には、運不運の要素が大きく食糧の備蓄も微々たるものなので、人々は等しく貧しい状態で貧富の差はありませんでした。

 

弥生時代の社会

Old-burial-mound(古墳時代の服装)

 

弥生時代の社会変革は何と言っても稲作の到来です。最初は畑での米作が始まり、それから水田が伝わり、こちらが弥生時代に徐々に広まっていきました。米はドングリのように固くなく、煮炊きするだけですぐ食べられ、美味しく栄養価も高く、脱穀しなければ長期間保存する事も可能な万能の食糧です。

 

稲作の伝来で日本人の栄養状態は良くなり、縄文時代に比べ人口が大幅に増えました。また、水田は手入れを欠かす事が出来ないので、弥生時代には集落は固定していきます。貯蔵できる米の出現は、それまで平等だった村に貧富の差を生んでいきます。美田を持ち、多くの米を収穫できる人は、大勢の人を使う豪族と化していき、村の支配者として成長していきました。

 

 

大事な米を害獣や湿気などでダメにしないように、高床式倉庫が考案されネズミ返しなど工夫を凝らすようになるのもこの時期です。支配者は村々に誕生し、食料や土地を巡り抗争が開始されるようになります。その為、弥生時代の集落には周囲に濠や土塁を巡らしたものが出現していました。

 

また、縄文時代までは大きな差がなかった墓も、豪族の墓は大きくなり副葬品も一緒に埋められるようになり、埋葬が重視される中で宗教が生まれ、シャーマンが大きな力を持つようになっていきます。

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門はじめての邪馬台国

 

縄文土器と弥生土器の違い

 

縄文土器と弥生土器の違いは、大きくわけて3つ、デザイン、焼き上げ方、使用目的の違いです。

 

①デザイン

縄文土器は口が広くて底が深い深鉢型というデザインで、表面に縄目文様をつける事が多かったようです。だから縄文時代と言うのですが、それ以外にも粘土を盛り上げたり、彫刻のように削ったり立派な造形を施しました。

 

火焔型(かえんがた)土器なんてのが代表で、非常にアーティスティックです。

 

逆に弥生土器は実用重視で、ほとんど芸術性はなく、パターンも壷型(つぼがた)甕型(かめがた)高杯型(たかつきがた)の3種類です。文様も縄目をつけず、粘土も盛らず、丸や三角や直線、波などの模様をいれています。

 

②焼き上げ方

焼き上げ方はいずれも野焼きですが、弥生土器はもう一工夫あり、覆い焼きと言ってドーム状の土を被せて焼きます。これにより、弥生土器の方が高温で焼きあがり薄くて堅い土器になるのです。

 

③使用目的

縄文土器は、煮るか食べ物を貯蔵する事がメインでしたので、口が広く深い土器になりました。煮るのはドングリが多いので、アク抜きの為に長時間煮たのです。また、デザインが派手な土器は煮炊きには不向きなので使われず、呪術的な目的で使用されました。

 

弥生土器は、壷型の土器で食物を煮炊きし、甕型の土器に食糧を保存するほか、高杯型は、食料を盛り上げる盛り付け作業に使用していました。

 

弥生時代に銅鐸が伝来する

Migrant(渡来人)

 

弥生時代になると、金属加工技術が進んだ朝鮮半島から、戦乱を逃れた人々が日本に渡ってきました。渡来人です。そして、この渡来人から冶金技術が伝わり、銅剣や銅鐸(どうたく)が使用されるようになります。銅剣は北九州から畿内、銅鐸は近畿を中心に円形上に分布していきました。

 

当初、銅鐸は小さく細かったので、鐘のように鳴らしていましたが、技術が進むにつれ巨大化して、吊り下げる事が出来なくなり、次第に銅鐸そのものが祭祀道具として信仰の対象となります。大きくて金色に輝く銅鐸は、それだけで有難みを感じさせる立派なものに見えたのでしょう。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

縄文時代と弥生時代の違いは、以上のような事があります。大きな違いは稲作の伝来で、食糧が貯蔵できるようになり、栄養失調からも解放され人口も増えますが、同時に貧富の差が生まれて支配と被支配の関係が確立。やがて村同士の抗争で淘汰と吸収・合併が進んでいき、統一王朝が生まれていきます。そのような大きな国の1つが邪馬台国なのです。

 

文:kawauso

参考文献:ゼロからやりなおし日本史見るだけノート 宝島社

 

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【古代日本の誕生秘話】
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