五代百年に渡って関東に君臨し、天下の堅城小田原城を居城とした後北条氏。名君揃いの五代の中で、初代北条早雲と並んで高い評価を受けているのが北条氏康です。
信長の野望では政治力100を誇り、今川、武田、上杉と名だたる戦国大名としのぎを削った関東の覇者北条氏康は、一体どんな人物だったのでしょうか?
この記事の目次
北条氏綱の嫡子として誕生
北条氏康は永正12年(1515年)後北条氏2代当主伊勢氏綱の嫡男として誕生し伊勢伊豆千代丸と名付けられました。
この頃、北条早雲こと伊勢宗瑞はまだ存命であったようですが氏康4歳の頃に死去。父氏綱は大永2年(1522年)頃から北条氏綱と名乗り始めます。
享禄2年(1529年)に15歳で元服した氏康は享禄3年(1530年)の小沢原の戦いで扇谷上杉の上杉朝興と戦い、これに大勝したそうです。
その後も甲斐山中合戦や河越城攻略で出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは、父氏綱とともに足利義明・里見義堯の連合軍と戦い総大将である小弓公方、足利義明を討ち取って勝利を収めました。
天文10年(1541年)父氏綱が死去し氏康は家督を継いで後北条氏第三代当主となります。ここまで順風満帆できた氏康ですが、ここから果てしない地獄のような勢力争いに巻き込まれていく事になりました。
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大ピンチ!今川義元と両上杉軍に挟撃される
天文14年(1545年)駿河の今川義元は関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定と連携して氏康に宣戦を布告しました。
北条氏と今川氏というと仲が良いイメージですが、天文年間には北条氏が東駿河を今川家から奪うなどして敵対関係だったのです。北条氏康は駿河に急行しますが北条軍は今川軍に押され自ら城を破壊して退却する有様でした。
苦戦する氏康に、義弟北条綱成が守る河越城が山内・扇谷の両宇上杉軍に包囲されたという最悪の情報がもたらされます。東西から挟み撃ちされ滅亡の淵に立つ氏康ですが、ここから周到な外交で巻き返しに出ました。
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武田晴信に斡旋を頼み今川と和睦
氏康は、この頃、父信虎を追放し武田家の家督を継いだ武田晴信に働きかけ、東駿河の河東地域を義元に割譲する事で和睦しました。しかし、関東では圧倒的に有利な両上杉氏に関東の大名が同調し、それまでは北条氏と協調してきた古河公方、足利晴氏までが河越城包囲に参加します。こうして包囲軍は8万に膨れ上がる一方で、北条軍は1万に満たず圧倒的不利でした。
河越城は半年もの間包囲に耐え、さしもの包囲軍にも長期戦に対する疲労と倦怠が広がってきます。北条氏康はこの機運を利用し、両上杉陣営に
「すみません、よそ者の分際で調子に乗ってました。これまでに奪った領土は返還します」と恭順を匂わせた手紙を送りつけて両上杉軍の油断を誘うと、天文15年城内の綱成と連携し両上杉連合軍に夜襲を掛けました。
もはや勝利は時間の問題と油断していた包囲軍は大混乱に陥り、扇谷上杉の上杉朝定は戦死し扇谷上杉氏は滅亡。山内上杉の上杉憲政と足利晴氏は敗走し北条氏康は関東における抗争の主導権を確立しました。
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はじめての徳政
河越夜戦に勝利した氏康に天文18年(1549年)関東大地震が襲い掛かりました。氏康は戦争の後始末に忙殺され、被災した領民への対策が後手に回ったために、領国全域で農民が村や田畑を放棄して逃亡したのです。
氏康は天文19年4月で公事赦免令を出し、複雑な税金体系を単純化して税制改革しつつ、特定の賦役の廃止や免除、過去の諸税を撤廃し特定の債務については免除するとした徳政令でした。
これは後北条氏が全領地規模でおこなったはじめての徳政でしたが、同時に中間管理者に対する農民の直訴をも認め、中間搾取を回避して、後北条氏の監視を強化したので、国人勢力や地侍の支配を弱め、外来政権である後北条氏の領国支配を強める事に繋がりました。
北条氏康は、転んでもただでは起きないぬかりのない人物だったのです。
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関東を着々と固める
その後氏康は、上杉憲政の居城の平井城を陥落させ、さらに厩橋城、白井城と追い詰め、憲政は越後守護代の長尾景虎の元に身を寄せます。上杉憲政は景虎の支援を受けて、氏康と関東支配を争いますが勝つ事は出来ませんでした。
北条氏康は河越合戦以来の仇敵である常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏との敵対していましたが、古河公方足利晴氏を秦野に幽閉したり、有力な大石氏や藤田氏に一族から養子を送り込んで一門化するなど、着々と支配力を強化していきました。
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甲相駿三国同盟
次に氏康は有名な甲相駿三国同盟に舵を切ります。東駿河を返還する事で今川義元と和睦した氏康ですがなおも緊張状態が続いていて、これを解消したかったのです。
今川氏でも義元のブレーンである太原雪斎が仲介し氏康の娘の早川殿を今川義元の嫡男、今川氏真に嫁がせ、同時に武田信玄の娘、黄梅院を嫡男氏政の正室に迎える事で武田・今川との同盟関係が締結されました。
氏康は実子の氏規を今川義元の生母で外祖母にあたる寿桂尼に預けこれで背後の駿河を固め、主に武田信玄との軍事的な連携を強化し関東の戦いに専念します。
永禄2年(1559年)氏康は次男で長嫡子の北条氏政に家督を譲って隠居しました。これは永禄の飢饉という大飢饉が発生していたためで、領民の不満を和らげ代替わりを演出する徳政の形です。同じ年に武田晴信も出家して信玄と名乗っていて、こちらも飢饉に対する領民の不満をかわす狙いがありました。
但し、氏康は完全に隠居したわけではなく小田原本城に留まり、氏政と共同で政治を見る「御両殿」と称される体制に移行します。
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関東の覇権を賭けて上杉謙信とバトル
永禄3年5月、同盟相手であった駿河の今川義元が桶狭間において織田信長に討たれるという大事件が発生し今川氏の勢力が衰退を開始。同年、上杉謙信が「永禄の飢饉」の中の関東に侵攻し小田原城の戦いが勃発します。
謙信は上杉憲政を奉じて8000の兵力で三国峠を越え各地で略奪を繰り広げながら、北条方の諸城を攻略し関東から奥州南部の豪族や大名に動員を掛けました。
この大義名分を巧妙に使う上杉謙信のやりかたは巧みで佐竹、里見、佐野、小山、宇都宮、多賀氏など、多くの大名が呼応し、かつての河越城の戦いを越える10万の兵力が結集します。
氏康はその頃、里見義堯の本拠地、久留里城を包囲していましたが包囲を解いて9月に河越に出陣、最終的に小田原城に入り籠城の構えを取りました。
上杉謙信は永禄4年(1561年)2月に松山城、鎌倉を攻略し氏康の本拠地の相模に押し寄せ小田原城を包囲しますが、小田原城の守りは鉄壁であり、同時に関東は永禄の大飢饉の影響化で長期滞陣が出来ず、関東の大名達が勝手に帰還を開始します。
さらに、北条氏と軍事同盟を結ぶ武田信玄が信濃国川中島に海津城を完成させ、信濃北部で支配地域を広げて謙信を圧迫したので、謙信はついに小田原城の包囲を解き鎌倉に撤退します。
このまま負け犬モードで信玄と戦う事になる事を恐れたのか、謙信は鶴岡八幡宮で関東管領就任と上杉氏の家督継承を大々的に祝いました。
小田原城攻略を諦めていない謙信は、足利藤氏を鎌倉公方に擁立し、上杉憲政と関白でマブダチの近衛前久と共に古河に入れて北条氏に睨みを効かせます。
これは、室町幕府の副将軍である鎌倉公方が古河に御所を置き、分裂した堀越公方と戦った事に倣ったやり方であり、謙信は長期戦を視野にいれたようです。しかし、信玄に扇動された一向一揆が越中で蜂起した事もあり、謙信は小田原城の攻略を断念、腹いせに各地で略奪と放火を繰り返しながら越後に帰還しました。
その後も、上杉謙信と北条氏康は、関東の覇権を巡り攻防を繰り返しますが、どちらも決定打を欠き、一進一退の攻防がだらだらと続きますが、永禄6年(1563年)北条氏康は武田氏の援軍を得て、松山城や上野厩橋城を攻略、古河城を攻略して謙信が古河公方として立てていた足利藤氏を捕らえます。
謙信は、藤氏を奪い返そうと三国峠を越えて、厩橋城、古河城を奪還するなど北条氏の諸城を攻略しますが、小田原には届かず、同時に自らが立てた足利藤氏を失い、関東に対する影響力を大きく喪失する事になりました。
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関東に地盤を築き本格的に隠居する
謙信を追い払った氏康は因縁の相手である里見義堯・里見義弘父子と上総国の支配権を巡って対陣します。
しかし、里見軍は精強で攻略は一筋縄ではいかず、有力武将を多く失う激戦となりますが氏康の攻勢で里見軍は破れて安房国に撤退しました。同年、氏康は里見氏に協力していた太田資政を息子の太田氏資の協力を得て本拠地の岩村城から追放し武蔵国の大半を平定します。
さらに、関東の中原における拠点で利根川水系の要地である関宿城を攻撃しますが、ここでは城主の簗田晴助の抵抗にあい徹底しました。
関東に勢力を伸ばそうとしていた上杉謙信ですが、この頃、臼井城や和田城の攻略に失敗。さらに箕輪城の陥落を受けて関東大名の多くが「謙信マジオワタWW」とばかりに続々と北条氏に服属、常陸の佐竹氏も謙信の出陣要請に難色を示すなど謙信の関東管領ブランドに陰りが生じます。
そして、永禄9年(1566年)上野厩橋城の上杉家直臣、北条高広が後北条氏に寝返った事で謙信は大幅な撤退を余儀なくされました。永禄9年以降、氏康は実質的にも隠居し、息子達に多くの戦を任せ、自身は後方支援に専念するようになります。
しかし、永禄10年(1567年)北条氏政、氏照に里見氏攻略を任せるも正木氏等の国人が里見氏に通じた事により大敗し上総南半分を失い南常陸でも北条氏に臣従した小田氏が佐竹氏に大敗するなど楽隠居とはいかない状態が続きました。
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盟友信玄と戦い、謙信と結ぶ
隠居した氏康の平穏な日々は、盟友武田信玄の駿河侵攻によって破られます。長年、港を求めて上杉謙信と激闘を繰り返していた武田信玄ですが、川中島の戦いは消耗ばかりで決着がつかず、戦略はふんづまり状態でした。そこで信玄は
「て言うかぁ…おんなじ海を手に入れるんなら、無能な氏真を攻めて駿河のうーみー!を手にいれた方が楽じゃね?」と態度を豹変させたのです。
そして、今川攻撃に反対する嫡男義信を自殺に追い込み、義信の正室を今川氏に送り返してまで駿河に侵攻したのです。肉親の情を無視し、同盟の信義を踏みにじってまで、どこまでも利益を追及する鬼信玄、ある意味見上げたものでしょう。
さすがに信玄よりは、ずっと節操がある氏康は、
氏康「いやいやいや…いくら海が欲しいからって、戦国だからって
何の落ち度もない氏真を攻めるなんて、それはいくらなんでもないわー
しかも、駿河攻めに反対する嫡男の義信を幽閉して殺害した?これもないわー
あのタコ入道、いくらなんでも鬼畜系すぎるわー、もう、なんだかな~」
こうして、今川氏真の訴えを聞き入れ今川氏支援を決定。武田氏と断交し三国同盟は消滅しました。北条氏は駿河の薩多峠で武田軍と対峙、さらに氏康は信玄が徳川家康の不信を買った事を利用し徳川と密約を結んで駿河挟撃の構えを取ります。
信玄は、このまま駿河侵攻を続けるのは不利と見て甲斐に撤退し、氏康は奪われた東駿河を奪い返しました。こうして氏康は西に武田、北に上杉、東に里見氏と3方向を敵に囲まれる危機的な事態に陥り、長年敵対していた上杉謙信との同盟を模索します。
この頃、西上野一円は武田領と化していて謙信の上野における支配地域は沼田と厩橋など東上野のみでした。さらに謙信の関心は一向一揆で敵対する越中国に向けられていて、北条氏との同盟に乗り気ではありませんでしたが、家臣の熱心な説得で態度を軟化させすでに纏まっていた今川氏と北条氏の同盟に乗る形で交渉を開始し越相同盟の締結に漕ぎつけます。
この同盟で謙信は、氏康の甥である足利義氏を関東管領の主である古河公方と認め、氏康と氏政は謙信の関東管領職を認めます。領土的には上野と武蔵北辺の一部の上杉氏領有を認める代わりに北条氏による相模と武蔵大半の領有を認めさせました。
そして、北条方は氏康の実子、北条三郎(上杉景虎)、上杉方は謙信の重臣、柿崎景家の実子、晴家を人質として交換します。
ところが、上杉と北条の電撃的な同盟は、反北条派の里見氏や佐竹氏、太田氏のような関東の大名が上杉氏から離反し武田氏に与する事態を産み、越相同盟自体も同盟条件の不徹底から緊密な共同作戦は取れず停戦が成立した以上の意味合いは微妙なものでした。
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信玄とのラストバトルと健康悪化
永禄12年(1569年)武田信玄が武蔵国に侵攻、北条軍は鉢形城で氏邦が滝山城で氏照が籠城して武田軍を退けますが、信玄はそのまま南下し10月1日には小田原城を包囲します。
しかし、氏康は徹底した籠城戦を取り、信玄も小田原城攻略の意図がなく4日の包囲で城下町に火を放ち撤退します。
氏康は、撤退する武田軍に対し挟撃を謀り氏政を出陣させますが、信玄は荷駄を捨ててまで迅速に撤退し、氏政の追撃は間に合いませんでした。一方の氏邦と氏照は三増峠で信玄と戦い、譜代家老の浅利信種を討ち取る手柄を立てますが武田軍の帰還を許してしまいます。
その後、信玄は駿河に出兵、対する北条は里見の勢力回復や氏康の体調悪化により、信玄の西駿河侵攻を止める事が出来なくなりました。
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後北条氏の英傑、大往生
氏康は元亀元年(1570年)8月頃から脳血管障害である中風の病を得ていて、その容態は呂律も回らず、子供たちの見分けがつかず食事でも食べたい物を指さす状態で、信玄が伊豆に出てきた事も理解できない状態だったようです。
しかし、その後は回復し12月には信玄の深沢城攻めの対応を指示できるほどに快方に向かいますが、どうもそれが寿命の最後の輝きだったようで再び体調は悪化し、元亀2年10月3日、小田原城にて57年の生涯を閉じました。
北条氏康は、自分の死後に備えて、武田信玄との和睦と同盟を模索していたようで、「上杉謙信との同盟を破棄し武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したそうですが真偽は不明です。しかし、死後の12月27日、武田・北条は再同盟を締結しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条氏の領土は関東の要衝を占めていた経緯から関東諸侯の十字路となり、その生涯に氏康は二度も、8万人、10万人という大軍に城を包囲される窮地に陥ります。
ここで籠城に徹した事で勝機を掴んだので氏康は戦国のカメさんの感じですが、実際には活発な外交攻勢で敵勢力を切り崩したうえでの勝利であり、呑気に城に籠っていたら勝てたという安易な話ではないようです。
さらに、一度でも纏めるのが難しい敵勢力との同盟も、甲相駿三国同盟や、徳川との秘密同盟、上杉謙信との越相同盟と多くまとめ上げていて、高い政治力が窺えます。
また、大地震で被災した領民への対応遅れで逃亡が続発した事を真摯に反省し、領民を保護し、中間管理者の不正を摘発するなど民政に心を砕いたのも後北条氏百年の繁栄の土台になったのではないかと思います。
参考:Wikipedia
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