鎌倉時代

北条時政とはどんな人?執権として幕府を操る人気のない真面目な謀略家

北条時政

 

北条時政(ほうじょうときまさ)は北条政子の父であり鎌倉幕府初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の義父です。伊豆の小豪族に過ぎなかった時政ですが、流人で30歳過ぎても無名の頼朝に将来性を見出し、治承4(じしょう)年(1180年)の頼朝の挙兵にも一族郎党を引き連れて参加。

 

頼朝が鎌倉に幕府を開くと最も有力な重臣となり頼朝没後は、政子の父として北条氏の勢力拡大に勤しみ、政敵を葬って鎌倉幕府で独裁権力を振るうようになります。今回は人気がない真面目な謀略家、北条時政を紹介します。

 

 

北条時政 系図

北条氏系図

 

北条時政は桓武平氏の高望流(たかもちりゅう)平直方(たいらのなおかた)の子孫で伊豆国田方郡(たがたぐん)北条を拠点とした豪族です。時政は、平将門(たいらのまさかど)の乱を平定した平貞盛(たいらのさだもり)から数えると9代目。北条氏の祖である平直方から数えると6代目の子孫ですが、時政以前の系譜は系図により全て異なり、桓武平氏の系統である事を疑問視、否定する研究者も少なくなくありません。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

ただ、時政の祖父が時家(ときいえ)、父が時方(ときかた)という点で諸系図はほぼ一致しています。ここから推測すると時政の家系が伊豆に土着したのはそれほど古くなく時家の時代頃に京都から下向し京都に一族のパイプを持つ一族であるとも考えられます。

 

時政は義経失脚後に朝廷との交渉を頼朝に命じられますが伊豆の小豪族が簡単に務まる仕事とは思えず、元々京に何らかのパイプがあったのでしょう。

 

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北条時政、執権いつから?

軍議(日本史)モブb

 

北条時政の地位は鎌倉幕府の初代執権(しっけん)です。執権は鎌倉殿(かまくらどの)(幕府棟梁)を助け政務を統轄する存在で、鎌倉殿の力が弱ければ当然執権は事実上の最高権力者となります。

 

北条時政は建仁3年(1203年)外孫、源実朝(みなもとのさねとも)を擁立した際、政所別当(まんどころべっとう)と合わせて任じられました。時政が就任して以来、執権は北条氏の権力の足場になりました。

 

鎌倉幕府は、侍所と政所と問注所の3つの機関で構成されていましたが、時政の子で2代目の執権になる北条義時が侍所別当も兼任。執権は事実上幕府最高職になります。

 

こうして頼朝の血脈が3代で途絶えると北条氏は摂関家や皇族から名目上の鎌倉殿を迎え入れて権威としその下で執権が政治を取り仕切る体制を敷きました。ただ、北条時政が初代執権であるかどうかについては異論があります。

 

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北条政子と時政

平清盛 鎌倉幕府

 

北条時政は平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた頼朝の監視役を命じられます。その後、時政は京の警護を命じられて上京、ここで時政は平家政権と後白河法皇の軋轢(あつれき)や、延暦寺、興福寺の僧兵の頻繁(ひんぱん)強訴(ごうそ)を目撃。平家の天下も長くはないかも知れないと密かに思ったようです。

 

数年が経過して時政が伊豆に帰ると娘の政子が頼朝とラブラブになっていました。

 

頼朝の監視役である時政は、監視役の娘が流人の妻などとは洒落にならないと政子を頼朝から引き放そうとしますが政子は聞かず、結局は2人の結婚を認めます。時政はこうして頼朝の舅となり、平家打倒の戦いに身を投じていく事になりました。もっとも京を警護して大乱の予兆を感じ取っていた時政ですから、平家の次は源氏と見て、河内源氏の棟梁である義朝の嫡男頼朝の将来性を買ったとも言えます。

 

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北条時政なにをした?

源頼朝と手を組んでの挙兵する北条時政

 

北条時政は頼朝の挙兵に参加し、伊豆国目代(もくだい・)山木兼隆(やまきかねたか)を襲撃して討ち取ります。この時の襲撃の拠点は時政の屋敷で時政自身も襲撃に参加していました。しかし、頼朝は平家方の大庭景親(おおばかげちか)の3000余騎に遭遇し夜戦を仕掛けられて大敗。時政の嫡男の宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に包囲され討死します。

 

頼朝は軍を解散し、時政は甲斐国に移動、同地で挙兵した武田信義(たけだのぶよし)甲斐源氏(かいげんじ)に合流。甲斐源氏は時政と共に駿河に侵攻。頼朝も房総と武蔵を制圧して勢力を盛り返し黄瀬川に到達します。ここで時政は頼朝と再合流、平家は富士川の戦いで源氏に敗北して逃げていきました。頼朝の挙兵当初から付き従った時政ですが、有力御家人が鎌倉に集結すると相対的に目立たなくなり、史料から名前が消えました。

 

源義経 鎌倉時代

 

次の時政の活躍は、文治元年(1185年)壇ノ浦で平家が滅んだ後、兄頼朝と軋轢を起こした源義経と行家の謀反対策でした。時政は頼朝の意向を受けて朝廷と折衝し、謀反人義経を捕らえる為に全国に守護と地頭を置く事を認めさせたのです。

 

さらに時政は京都に留まり治安維持と平家残党の捜索、義経問題の処理を担当し京都守護と呼ばれます。時政の京都守護職は概ね順当で朝廷と軋轢を起こす事もなく4カ月で終了。後任の一条能保(いちじょうよしやす)に仕事を引き継いで本拠地、伊豆の掌握に専念しました。

 

頼朝死後は2代将軍の頼家が将軍職を世襲しますが、頼朝在世中に抑えられていた御家人の不満が爆発し御家人統率に辣腕(らつわん)を振るっていた梶原景時(かじわらかげとき)が失脚し鎌倉を追放。この景時追放劇には時政の娘、阿波局(あわのつぼね)が関係していて、時政が景時追放に一枚噛んでいるとされています。

京都御所

 

時政は正治2年(1200年)に遠江守に任じられ、源氏一門以外で初めて守として国司(こくし)となり、次に将軍家外戚として権勢を奮った比丘能員(びくよしかず)を自邸に呼び出して謀殺。さらに頼家の嫡子一幡(いちまん)の屋敷である小御所に軍勢を差し向けて比丘氏を滅ぼし頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺に追放しました。

 

時政は頼家の弟で娘の阿波局が乳母をつとめた12歳の源実朝(みなもとのさねとも)を3代将軍に擁立し自邸の名越亭(なごしてい)に迎えて後見人として実権を握ります。こうして時政は初代執権に就任して鎌倉幕府の独裁者の地位に就くのですが、その勢力拡大は頼朝の死後に始まっているのが特徴です。

 

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政子と義時に破れ失脚

五重塔(仏塔)仏教

 

時政はその後、武蔵国の支配強化で畠山重忠(はたけやましげただ)と軋轢を起こしこれを滅ぼします。元久2年(1205年)閏7月、時政は妻、牧の方と共謀して将軍実朝殺害を計画。娘婿であった平賀朝雅(ひらがともまさ)を新しい将軍に擁立しようとします。

頼朝を陰日向に支えながら鎌倉幕府の実権を握った北条義時

 

しかし、時政の強引な行動に息子の義時と娘の政子が反対し時政邸にいた実朝を義時邸に移動させて暗殺を阻止しました。この時、時政側についていた多くの御家人も義時に味方し、幕府内で完全に孤立した時政は出家。鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居。その後は政治の表舞台に立つ事なく建保3年(1215年)腫瘍(しゅよう)のために78歳で死去しました。

 

時政自身は実朝暗殺に消極的であり、積極的なのは牧の方であるらしいですが、いずれにせよ、二度の将軍殺しに関与した不忠人として時政には老獪で(ろうかい)ダーティーなイメージが付きまとう事になります。

 

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北条時政 子孫

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北条時政の子供は以下の通りです。

 

名前 履歴
1 北条宗時 時政嫡男、石橋山合戦で討死
2 北条政子 源頼朝の正室 尼将軍
3 北条義時 時政次男、鎌倉幕府2代執権
4 阿波局  源実朝の乳母 梶原景時の変で活躍
5 北条時房  鎌倉幕府初代連署 摂関将軍を迎え承久の変で活躍
6 北条政範 時政と後妻 牧の方の子 16歳で急死
7 畠山重忠室 (後に畠山義純室)
8 稲毛重成室
9 平賀朝雅室 生母牧の方 牧氏事件に関与
10 三条実宣室 生母牧の方
11 宇都宮頼綱室 生母牧の方
12 坊門忠清室
13 河野通信室
14 大岡時親室

 

また北条氏は、時政の親兄弟についての記録がほとんどなく、従って執権北条氏の系図も時政より始まり、以後の北条氏の登場人物の全てが時政を祖としています。そういう意味では時政が事実上北条氏の始祖という事になりますね。

 

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北条時政と牧の方

麒麟 於牧の方(明智光秀の母)

 

北条時政は正室の伊藤祐親(いとうすけちか)の娘と死別し後妻として牧宗親(まきむねちか)の娘ともされる牧の方を迎えます。2人は年の差がかなりあるものの仲睦まじかったようで、2人の間には嫡男の北条政範(ほうじょうまさのり)も誕生しますが、16歳の若さで急死しました。

 

すでに時政も老齢になり、将来に不安を感じた牧の方は、3代将軍源実朝を暗殺し自分の娘婿である平賀朝雅を4代将軍に就けようとし夫の時政を説得して実行に移しました。

北条義時

 

しかし、この行動には北条義時、北条政子の理解が得られず、実朝は時政の邸から義時の屋敷へと移動させられ、時政は権力を失い伊豆国へ隠居。牧の方は公家の権中納言藤原国通に再嫁した娘を頼り、贅沢に暮らしていたそうです。若い奥さんの言いなりになり晩節を汚してしまった時政でした。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

北条時政の人生は前半と後半で大きく変化します。前半は交渉術に長けた文官ですが、頼朝の死後の後半は急に老獪な陰謀家になり、最初に梶原景時を追放し源氏出身者以外で最初の国司となり、そして娘が乳母を務めた3代将軍源実朝を将軍にすべく、外戚の比丘能員を謀殺。

 

源頼家を廃して伊豆の修善寺に押し込め、実朝を将軍にするなど独裁権力を振るいました。

 

しかし、晩年は妻の牧の方に押し切られ自分が擁立した実朝を暗殺して、娘婿を将軍に据えようとするなど明らかに無理筋が多くなり、政子や義時により隠居に追い込まれてしまいました。実朝暗殺は思いとどまっていれば、晩節を汚す事はなかったのに残念です。

 

参考:Wikipedia

 

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