明治維新により263年も継続した江戸幕府は崩壊しました。そこからの変化は四民平等や学制の施行、徴兵の義務や断髪など多岐に渡ります。しかし、それらの変化は多すぎ漠然としている感じもしませんか?
そもそも江戸時代と明治時代では何が大きく変化したのでしょうか?
税金の取り方が変わった
江戸時代と明治時代で大きく変わったのは税金の取り方です。江戸時代には年貢と言って田畑を所有する農民は、毎年一定の収穫物を各藩の藩主や幕府に納める義務がありました。
しかし明治時代に入ると収穫物を納める年貢ではなく、所有する土地価格の3%に税金をかけて地租として徴収するようになります。では、明治政府はどうして収穫物ではなくお金で税金を納めさせたのでしょう?
それは収穫物の毎年の収穫量や出来が違い、常に一定の金額が徴収できるわけではないからです。明治政府は毎年予算を組んで各省庁に分配していたので、毎年の歳入が変わってしまうと安定した予算が組めません。
その点、お金で納税してもらえば、1円は1円なので毎年決まった予算を組む事が出来ます。政府にとっては都合がよい地租でしたが、農民は自分の収穫物を売却してお金に替えねばならず、その時々の相場の影響をもろに受ける事になりました。
つまり相場によって、税金が重くなったり軽くなったりするので農民は耐えきれずに一揆が頻発し、明治政府は地租を2.5%まで引き下げています。
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国の主役が変わった
江戸時代の日本の主役は人口の7%に過ぎない武士という階級でした。鎌倉時代より以後、建武の新政のような僅かな期間を例外として武士階級は日本の軍事、政治を担い、人口の大多数だった農民は生産活動に従事して武士を支える構図が出来ていました。
しかし、18世紀も末になるとヨーロッパで革命が勃発、植民地アメリカでも独立戦争が起きて宗主国のイギリスを破り国王を頂かない市民平等の社会が誕生します。
こうした国々の多くでは階級制度を撤廃し、能力さえあれば誰でも社会の高い地位につけるようにし、私有財産を国が保障して、商工業の規制を緩和したので商工業が急激に発展しました。
同時に国民の教育や福祉を政府が面倒を見るようになり、愛国心を涵養する教育が行われ、徴兵によって国民から兵士を選抜する強力な軍隊が編制されたのです。
ペリー来航により日本は国民国家となった西洋諸国に大きく差をつけられた事を知り、幕末の騒乱を経て、維新後は私有財産の保証や身分制の撤廃、義務教育施行や商工業の規制の緩和などの改革を矢継ぎ早に施行。
それまで生産者として武士を支えていた大多数の農民や町人、職人が日本の主役として権利を得て義務を背負う事になりました。
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私有財産の保護
江戸時代には個人が持つ財産は保護されているとは言えませんでした。例えば、死罪に該当する罪や追放刑に処されると闕所と言って、その人の財産を没収する事が普通におこなわれています。
しかも、闕所は連座制で死罪になった人に家族がいた場合は妻の持参金に到るまで没収され家族は着の身着のまま無一文で外に放り出される事になります。
明治維新後は資本主義を阻害する闕所は廃止され、私有財産は保護されるようになり、例え罪を犯しても個人の財産が没収されるような事はなくなりました。
連座制の廃止
闕所でも触れましたが、江戸時代は国家反逆など重大な罪を犯した場合、その罪が家族や親類にまで及ぶ事がありました。そのため大きな事件を起こそうとする者は、家族との縁を切ってアカの他人となって連座を免れようとしたりしています。
明治時代になると、近代法の考え方から個人責任へと刑罰対象が変化したので連座制も廃止され、家族や親戚というだけで連帯責任で刑罰を受ける事はなくなりました。
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兵役と教育が義務となる
江戸時代にも都市部を中心に初等教育機関である寺子屋が登場し庶民の子弟に読み書き算盤を教えていましたが、これは義務ではなく任意であり、幕府も藩も邪魔する事もない代わりに推奨する事もありませんでした。
また兵役は武士の義務であり、農工商の身分の人々には関係なく考える事もありません。
しかし、明治維新を迎えると国民皆兵の軍隊を持つ西洋列強に対抗する為に、日本でも国防の対象が武士から全国民に拡大されました。そして近代的兵士を養成するには、読み書き算盤の初等教育は必須なので、教育は国民に課された義務となり学制が発布されます。
同時に近代的な教育を伝授する先生の養成学校である師範学校や、医学や商業や工業についての近代的教育を施す専門学校も各地に開設されました。
兵役は庶民にとって労働力を奪われたり、二年間の貴重な時間を取られるなど不自由でしたが、頑強で壮健な兵士を維持する為、政府は医療や福祉、教育に予算を割く事になり、結果として主権者となる国民の地位向上に寄与した一面もあります。
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政治に参加する権利
江戸時代の庶民は村の自治に参加する権利はありましたが、国政に参加する権利はありませんでした。各地の藩主も支配している藩に対する支配権があるだけで、幕府の政治に口を挟む事はできません。
江戸時代は幕末を例外として政治と外交は少数の譜代大名が動かしていたのです。譜代大名以外の人々が政治に注文を付け、批判でもしようものなら死罪になる事さえありました。
では明治維新が起きると、ただちに国民に対し政治に関与できる権利が与えられたかといえばそうではなく、やはり明治6年の民選議院設立建白書の提出から自由民権運動を経て国会の開設が承認されます。
当初は大金持しか参政権がありませんでしたが、議会政治が進んでいく間に参政権のハードルが下がっていき、大正も末になって25歳以上の男子に普通参政権が認められました。
一方で婦人参政権は戦前から動きはあったものの男子に比較すると遅れ、日本が大東亜戦争に敗北して後、平和憲法下で認められる事になります。
このような政治への権利意識は徴兵制施行で兵役の義務を背負った事による国の将来への関心や、新聞などマスメディアの発展による政治の腐敗や汚職の摘発など複数の要因が重なり高まっていきました。
最近では投票率の低下が著しいですが、江戸時代には国政に対する批判は命懸けだったのです。明治以降の先人の努力で獲得した参政権に私たちはもう少し感謝しないといけません。
日本史ライターkawausoの独り言
以上、江戸時代から明治にかけて何が大きく変化したのかについて説明しました。
大きな変化は、身分制が撤廃され能力に応じて国民がなりたい職業つけるようになった事や、私有財産が保護され、突然財産を没収される事が無くなった事、そして参政権が認められて国政に関与できるようになった事でしょうか?
それもこれも国民が国の主役になり、様々な制度で地位の向上が図られたという事に繋がっている事だと言えますね。
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