毛利秀頼をマイナー武将だなんて言わないで!足利名門の子から信長家臣、そしてついには「もうひとりの豊臣秀頼」に!

18/12/2021


毛利秀頼

 

毛利秀頼(もうりひでより)は名前で損をしている」と、つねづね、思います。だって既に、こう↑書いた時点で、よほどの歴史ファンでもない方は「毛利秀頼って誰?」と思ったことでしょう。

 

・そしてネットで調べてみると、とにかく存在感の薄い、マイナー戦国武将であることがわかる。

・そのうえ、特に某「〇〇の野望」シミュレーションゲームで、異常なまでに低い能力値が割り振られているので、「マイナー武将な上に、ザコなのか!」と思ってしまう。

 

そうなるのでしょう、きっと。でもそれって、きっと名前のせいなのです。

 

「毛利秀頼」とだけ聞くと、

「あの毛利元就(もうりもとなり)の家系か?」と誤解した上に、「豊臣秀頼(とよとみひでより)と関係あるのか?」と、期待値が上がってしまう。そこから調べてみると、なんだか地味な武将に見えるので、期待値との落差が大きいのでしょう。

 

しかし、ちょっと待ってください!!

 

この毛利秀頼という人物には、とても気になる「伝説」がくっついているのです。彼は室町時代の名門「斯波家(しばけ)」の血筋である、という興味深い説があるのです。どういうことなのでしょうか!?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実は足利家につながる名門?!毛利秀頼の「毛利」姓に惑わされてはいけない!

 

まず「斯波家」というのが何なのか。歴史に相当詳しい方ならピンときたと思いますが、織田信長(おだのぶなが)が拠点としていた尾張国の室町時代の大名は、もともとは「斯波」家でした。

 

織田家というのは、その斯波家という守護大名に仕える、家臣の一門。それが「下克上」して尾張国を乗っ取ったという経緯があるのです。

 

織田信長が尾張国の当主になった頃には、この尾張斯波家はすっかり没落していましたが、この毛利秀頼は、下克上の戦乱の中で行く当てを失っていた、斯波家の「幼君」だった、それを「毛利十郎(もうりじゅうろう)」という織田家の家臣が拾い、養子として大事に育てた、という説があるのです。

 

そしてその「斯波家」というのは、あの足利将軍家の血筋の一派であり、最上義光(もがみよしあき)で有名な東北の「最上家」とも親戚関係にある、室町時代の超名門。つまり毛利秀頼、世が世なら織田信長ではなく、この人が尾張の戦国大名だったかもしれない家柄の人なのです!

 

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織田信長スペシャル

 

 

ザコ扱いされているのも納得できない!信長の母衣衆に抜擢されていた毛利秀頼!

赤母衣衆に選抜される毛利秀頼

 

織田家に下克上されたかつての名門の忘れ形見などというと、ひよわなお坊ちゃんというイメージになるのか、どうも世の中の歴史ゲームでも「ザコ武将」扱いされがちな彼。ですが、織田家中における彼の扱いは、悪いものではありません。

 

黒母衣衆となり頭角を表す佐々成政

 

彼は織田信長の親衛隊ともいえる「母衣衆(ほろしゅう)」に抜擢されているのです。母衣衆というのは、かの前田利家(まえだとしいえ)佐々成政(さっさなりまさ)も所属していた、いわば信長お気に入りの側近で固めた「選抜部隊」。

 

天下布武を唱える織田信長

 

織田信長の性格を考えると、義理や仁義で人選をするようなことはあり得ず、毛利秀頼もおそらくは、武勇や利発さを信長に認められ、気に入られていたのではないかと思われます。

 

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ながら日本史

 

 

実際にその戦績は悪くない!ついには信濃の小大名にまで出世!

前田利家と共に鉄砲隊を率いて武田勝頼を撃退する佐々成政

 

織田信長の母衣衆という立場は、織田家中ではエース部隊といえる「誉れ」でありつつも、とにかく人使いの荒い信長の下、激務が続くポジションでもあります。ですが毛利秀頼は、桶狭間(おけはざま)の戦い、伊勢攻め、石山合戦(いしやまかっせん)と、主要な戦いに必ず参加し、武田勝頼(たけだかつより)の甲州攻めの際には相当な活躍をしたようで、信濃の飯田に所領を得ることになります。

 

本能寺の変の織田信長

 

本能寺(ほんのうじ)の変前後に一度、この領地を失いますが、結果としては豊臣時代に再び飯田領主に返り咲いたのでした。かつて信長に「母衣衆」に抜擢された人の多くが本能寺の変前後に倒れた中、豊臣時代まできちんと生き残り出世できたというのは、たいしたもの!

 

マイナーなザコ武将などというイメージは、ぜひ、この機会に修正していただきたい!

 

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本能寺の変の特集

 

 

実は本当に「もうひとりの豊臣秀頼」扱いだった!?

 

最後に、その名前、「秀頼」について。

 

「この名前って、後で出てくる豊臣秀頼と紛らわしいよね」と思った方も多いと思いますが、ここにも面白い話があります。豊臣秀吉にも目をかけられ、重宝された毛利秀頼は、ついには「豊臣姓」を名乗ってよいと、秀吉から許されていたのです。ということは、一時期、彼は本当に「豊臣秀頼」という名前だったのです!

 

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戦国時代ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

もちろん、大阪の陣で哀しく散った「あの」豊臣秀頼は、ずいぶん後になってから生まれる世代なので、名前が一致していたのはまったくの偶然以外のなんでもない話。

 

ですが秀吉から「豊臣姓」を与えられていたということは、それだけ重要な人材として周囲からも認められていた、ということでしょう。

 

まとめてみると、毛利秀頼の人生は、

・室町時代の足利家につながる名門の子

・織田信長のお気に入りの側近として活躍

・秀吉に気に入られて「豊臣姓」を賜る

 

という、まさに、「足利(あしかが)・織田・豊臣」の時代の移り変わりを、最前線で体験し続けた数奇なものだった、となります。そしてこんな時代の変遷に取り残されることなくついていけた彼が、凡庸な人物であったはずがない!

 

よって繰り返しますが、マイナーなザコ武将などというイメージは、ぜひ、この機会に修正していただきたい!

 

それにしても、こんなに室町から織豊期の時代の変化を体現しているような人物も珍しいともいえます。誰かぜひ、この人物を主人公にドラマや小説を作ってくれませんでしょうか!

 

素材として難しいながらも、うまく料理すると、すごいドラマになりそうな予感があるのですが!

 

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通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
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