衆道というのは、今で言う同性愛の事を意味しています。武家社会の衆道は戦国以前に遡り、鎌倉時代にはすでに衆道の風俗が見られるそうです。今回は戦国時代の衆道のやり方について紹介してみましょう。
衆道の種類
衆道の種類は大きく分けて2つあり、最初に君臣関係の衆道があり、やがて立場が対等な同輩関係の衆道が生まれたようです。この衆道、当初は女人禁制の寺院で生まれたもののようで、仏門に入ったとはいえ性欲が消えるわけではない僧侶が異性の代替として少年を使い欲望を処理していた事に始まります。
そして、僧侶の衆道同様、合戦で長期間外に出る事があり女性を連れ歩けない武士にも受け入れられていきます。こうして大名の身の回りの世話をする小姓や、有力武将の稚児扈従が主君の性欲の対象になっていきました。
つまり女性がいない特殊な環境が当たり前の武家社会で、代替としての衆道が必然的に生まれたきたという事なのです。
出世の手段としての衆道
衆道には純愛の部分もあったでしょうが、主君と部下の衆道関係の場合は、そこに出世の手段も絡んできます。将軍の近習としての児小姓の制度は室町幕府の頃に確立し、3代将軍足利義満に仕えた能の創始者世阿弥は義満の衆道の相手として寵愛され引き立てを受けました。
戦国時代になると、織田信長に仕えた前田利家や、武田信玄に仕えた高坂昌信など小姓から主君の寵愛を受けて出世した人々が出てきます。ただ、誤解のないように付け加えておくと、世阿弥にしろ前田利家や高坂昌信にしろ、主君の寵愛を受けていたから出世したのではなく、当人の能力が元々高く、それもあいまって引き立てられたのです。
そうではない寵愛だけの贔屓出世は「尻で出世した」と周囲に陰口を叩かれ主君の評判を下げるだけでした。
色仕掛けとしての衆道
面白いのは、武士の衆道が戦略としても使われていた記録がある点です。氏家幹人の「武士道とエロス」の記述によると、「新編会津風土記」巻七十四が伝える「土人ノ口碑」の中の話に、芦名氏が男色の契りを戦略的に利用して敵方の情報を入手して高田城に攻撃を仕掛けた事が書かれています。女性の色仕掛けはハニートラップとして謀略の定番ですが、戦国時代の衆道もまた戦術の一環として使われていたわけです。
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戦国時代のサブとアニキ
戦国時代の文献から、その具体的な手法を見出すのは難しいのですが、戦国時代と地続きで衆道が盛んだった江戸初期の「好色物草子集」によると、同僚同士の衆道には上下関係はないものの、「念者」と「若衆」という兄弟分の区分があったようです。
一般に念者は元服した武士でアニキとして男性役に当たり、若衆は元服していない美貌を持つ少年で女性役になります。若衆で居られる期間は短く、12歳から20歳までの9年間とされ、この9年間に念者を見つけて兄弟分になる事が重要でした。
江戸初期はアニキがいない若衆は、そこにどんな事情があろうと心が卑しく情知らずだからアニキがいないのだろうと偏見の目で見られる程衆道が一般化していました。
戦国時代衆道のやり方
こうして、弟分が兄分を定めると、その後二人は衆道の契りをします。
衆道の契りというのは紙に書いて誓う厳粛なモノで、その内容は非常に禁欲的でした。若衆は、兄分を定めた以上は、単に他の男と関係を持つだけに留まらず、他の男に手を握らせる事さえご法度であり、許可なく他の男と共に行動したり、酒を飲んでもいけないという現代の束縛男も真っ青な厳しい規範が科せられます。
同時に念者も他の若衆と肉体関係を持ったり、女の肌に触れたり、浮気をしないなど、厳しい誓いを立てます。そればかりではなく、小指を断ち切り誠実を証明する事さえあり、衆道は、ただ好きというだけではなく相互に信頼を取り交わすものでした。
衆道カップルの馴れ初め
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」で有名な葉隠の著者、山本常朝は、同時に君臣愛の衆道に生きた人物であり、葉隠にもそんな衆道カップルの話が出てきますので一つ紹介しましょう。
中島山三は、竜造寺政家の小姓である頃、ある夜に百武次郎兵衛の屋敷に突然に行き、話があると次郎兵衛を呼び出した。次郎兵衛は何事かと驚いて急いで出ていき、山三と外で会うが、
「殿への御遠慮がありますので、それに外に聞こえても具合が悪い。すぐにでもお帰り下さい」とつれない。
すると山三は、
「ただいま、やむをえぬ行きがかりで3人の者を斬り捨てました。その場で切腹するのも残念で御座いますからこうなった次第を申し上げてその上で身の始末をつけたいと思い、その束の間の命を、これまであまりお近づきでもなかった貴殿で御座いますがおすがりして万事お願いしたいと思ったのであります」と答えた。
ただごとではない話を聞いた次郎兵衛も決心し、山三殿と平服もしないままで一緒に旅立ち、まず筑前の方へ向かって都渡城の地まで、手を引いたり負ったりして夜明けにようやく山の中に身を隠した。
その時、山三は
「さきほどの話は嘘をついたのでありました。ただ、ひとえにあなたさまの御本心が知りたかったばかりでございます」
と次郎兵衛に告げ山の中で二人はウヒョ!をすませて兄弟分になった。
これだけ聞くと、中島山三の一方的な熱愛が百武次郎兵衛に受け入れられたように見えますが実はそうではありません。百武次郎兵衛は、この出来事の2年前より一日も休まず山三が登城する時と下城する時に道筋に立って、無言で見送りをしていたのです。
中島山三は、2年間無言で自分の登城と下城を見送り続けた次郎兵衛の愛に応えるべく、決死の行動をしたのでした。
日本史ライターkawausoの独り言
戦国時代の衆道は「恋」や「信頼」を基に「義」が立てられ互いに命をかける共生共滅の精神が基本になっていました。
実際は「義」と「情」に武士の意気地が加わり、衆道をめぐる刃傷沙汰は日常茶飯事で、「葉隠」にも「武雄家の両人、衆道の恨みで与賀社内に参りて、申合せて打ち果し、双方一度に首が落ちそうろう」というように、衆道の遺恨で命を失ったという記述が出てきます。これに比べれば異性愛の方がまだいいなと軟弱なkawausoは思います。
参考:『葉隠』における武士の衆道と忠義 ―「命を捨てる」ことを中心に―
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