明治時代

海賊と呼ばれた男のモデル出光佐三とはどんな人?

海賊と呼ばれた男 amazon

 

「海賊と呼ばれた男」は、百田尚樹(ひゃくたなおき)の歴史経済小説です。

 

日本が大東亜戦争(だいとうあせんそう)に敗北し、ようやく独立を回復した1953年、イギリスからの石油支配からの独立を画策したイランが石油を国有化した時、直接日本からタンカーを派遣して、イギリス東洋艦隊の妨害をかいくぐり、日本に石油をもたらした出光興産(いでみつこうさん)の社長、出光佐三(いでみつさぞう)の生涯がモデルになっています。

 

石油エネルギーの欧米支配に反対し、石油の自由売買こそが人類の為になるという信念を貫いた民族派の石油元売社長、出光佐三とは、どんな人物でしょうか?

 

1885年8月22日福岡県に生まれる

 

出光佐三は、1885年(明治18年)8月22日、福岡県宗像郡赤間村(ふくおかけんむなかたぐんあかまむら)(現福岡県宗像市赤間)に藍問屋(あいどんや)を営む父、出光藤六(いでみつとうろく)、母千代(ちよ)の間に次男として誕生します。

 

佐三は健康には恵まれず小学生のころから神経症と眼病を患っていましたが、強靭な精神力の持ち主でハンデをものともせず、読書により何事も自分の頭で考え抜く習慣を身につけたと言います。

 

1901年(明治34年)福岡市商業高校に入学、卒業後の1905年(明治38年)神戸高等商業高校(現神戸大学経済学部)に入学。この頃、将来は外交官になろうと考えていました。

 

1909年に同校を卒業しますが、同級生が海運会社の社員に就職していくなかで佐三は神戸で小麦粉と石油、機械油を扱う従業員3名の酒井商店に丁稚(でっち)として入店します。

 

同級生は、大学も出ていながら丁稚奉公を選んだ佐三を理解できず、「お前は学校の面汚しだ」と罵倒されたそうです。

 

どうして、佐三は酒井商店に就職したのか?それは石油と機械油を扱う会社だったからでしょう。明治が終わり世界が石炭から石油エネルギーへと転換していくのを佐三は知っていたのだと考えられます。

 

資産家日田重太郎の援助で出光商会を設立

 

酒井商店で丁稚奉公していた佐三は、資産家の日田重太郎(ひたじゅうたろう)の息子の家庭教師をしていました。日田重太郎は、家庭教師の佐三の人物を見込み、1911年6月20日、6000円もの大金を佐三に渡して独立する事を促されます。

 

その際に、①働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。②己の考えを決して曲げず貫徹しろ。③俺が金を出した事は他言するな。の3つの(いまし)めを与えられました。25歳の出光佐三は、福岡県門司市(現北九州門司区)に出光商会を設立、日本石油(現JXTGエネルギー)の特約店として機械油を扱います。

 

【命がけの成人の歴史】
命がけの成人の歴史

 

海上軽油スタンドを考案し同業者から海賊と呼ばれる

 

しかし、出光商会の船出は順調とはいきませんでした。開業当初は機械油を扱った出光商会ですが、駅から汽車に乗り替えて炭鉱を回って機械油を売り歩くも需要がなく売上が伸びなかったのです。

 

1913年(大正2年)佐三は方針を転換し、漁船用の軽油を販売するようになりました。当時の漁船の軽油販売は陸上で一斗缶にいちいち軽油を移して売るという非効率なものでした。

 

それを見た佐三は伝馬船(てんません)を改造して軽油タンクをつけ、計量装置を取り付けて海上で直接漁船に軽油するようになります。この海上の軽油スタンドは、大評判で発動漁船の大半は出光商会の客になりますが、海上は販売区域を超えていると既存の軽油卸店に抗議されました。

 

ところが佐三は、船上売買の会場には境界線などないと反論して、海上販売を止めません。そのため、周囲の軽油販売業者は佐三を嫌い、自分達の客を奪う海賊と呼んだのです。

 

佐三は、商売とは消費者本位でないといけないという考え方であり、既得権益の元だった販売区域を憎み、安い軽油を提供する為に敢えて同業者の反発を承知で行ったのです。

 

満鉄から事故を一掃

 

1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発、出光商会は石油不足を予測して、あらかじめ大量の製品を買い入れて備蓄をつくります。そして、石油価格が高騰すると、得意先には安く石油製品を提供し続けたので絶大な信頼を集めるようになりました。

 

同年には、南満州鉄道に車軸油を納入する事に成功、1916年(大正5年)には、中国の大連に出張所を開設しアジア進出を開始します。

 

しかし、酷寒の満州で車軸油が凍結して貨車のトラブルが頻発している事を知った佐三は、耐寒性の「2号冬候車軸油(とうこうしゃじくゆ)」を無償で提供しました。ところが無償だったせいか、当初耐寒油は使われもしないで放置されていました。

 

そこで、佐三は単身満州に渡り、満鉄で直談判(じかだんばん)、現地で試験をして「2号冬候車軸油」の性能を証明。以後は満鉄で使われるようになり、事故は一掃されたそうです。

 

佐三は売れればそれで良いという安易な考えではなく、自社の製品を通して社会貢献をしたいと考えていたので、アフターケアにも責任を持ったのでした。

 

恐慌と関東大震災で倒産の危機に直面するが・・・

 

しかし、第一次世界大戦の終結による機械油需要の激減、さらに関東大震災により日本の工業は大打撃を受け倒産が続出します。これにより出光の経営も悪化、第一銀行は25万円の借入金の引き上げを通告し、出光は倒産の危機に直面します。

 

ところが、捨てる神あれば・・というやつで、二十三銀行が「銀行家の使命は立派な経営者を支援する事です」と言い、25万円の借入金を肩代わりしたので倒産を免れました。

 

昭和に入ってから、出光佐三と出光商会は存在感を増し、1932年(昭和7年)には、門司商工会議所会頭に就任。貴族院議員にも選任されるなどし、相変わらず石油販売の規制に反対し、安価な石油を消費者に送り届けるという信念を曲げずに活躍します。

 

敗戦後、社員を励まし立ち上がる

 

1945年(昭和20年)8月15日、日本は大東亜戦争に敗戦、出光興産は事業と海外での財産をほとんど失い1000人の社員と借金だけが残ります。しかし、それから僅か2日後の8月17日、佐三は社員を集めて力強く語りかけました。

 

「私は、この際、店員諸君に3つのことを申し上げます。

一、愚痴をやめよ、二、世界無比の三千年の歴史を見直せ、三、そして今から建設にかかれ」

 

さらに佐三は、当時、企業で当たり前のように行われていた社員解雇(しゃいんかいこ)を行いませんでした。それは、社員は家族のように扱えと言った日田重太郎との約束であり、社員をモノ扱いしない人間尊重の出光の社是でもあります。

 

「生活が苦しいからと言って家族を切り捨てる事が出来るものか!」というのが出光佐三の気持ちだったのです。その代わり、1000人の社員を食わせる為に出光興産は様々な事業を選り好みしないで行う事になりました。

 

農業、発酵事業(はっこうじぎょう)、水産業、ラジオの修理や印刷業、なかでも過酷だったのが戦時中に海軍が使っていた燃料タンクの底に残った油の回収でした。ガス爆発や火災、皮膚のただれ、健康被害等、様々な危険がある仕事で当時の日本の支配者であるGHQの指令によるものです。

 

しかし、佐三と出光の社員は、この劣悪な仕事をやり遂げました。今から見ればブラック企業に見えるかも知れませんが、会社存続の為に全員が必死だったのであり、嫌々やっていたのではありません。

 

その程度の覚悟しかない社員なら、タンク(さら)いが決まった時点で出光を辞めていたでしょう。燃料タンク浚いを乗り越えた1000人の社員は、出光の一員として団結。戦後の苦境も「タンク底に返れ」を合言葉に頑張りました。

 

日章丸事件でイランの石油を日本にもたらす

 

1953年(昭和28年)出光佐三が再び海賊と呼ばれる事になる事件が起きました。それが日章丸事件です。当時イランは、石油プラントの国有化を巡りイギリス系のメジャー石油会社と係争中でした。

 

イランがイギリスと()めた理由はイギリスの石油会社が、イランの石油を独占しイランには少しの利益もないという搾取体制に激しく反発した為です。

 

石油が豊富に出るのに自由に販売できない事で、イランではイギリスのオイルメジャーへの批判が渦巻き、ムハンマド・モサデク政権は不当な搾取に反発。石油事業の国有化を宣言して経済的な独立を表明します。

イギリスの国旗を背景とした艦隊

 

これに対する報復としてイギリスはペルシャ湾にイギリス東洋艦隊を派遣し経済封鎖を実施、イランは石油を売る事が出来なくなり窮地に陥りました。出光佐三は、イギリスの汚いやり方に憤り、自社の大型タンカー日章丸(にっしょうまる)2世をペルシャ湾に独断で派遣。イギリス東洋艦隊の封鎖を回避して見事にイランから直接石油を買い付け、日本に帰国し安い石油を日本に供給する事に成功したのです。

 

出し抜かれたイギリスは激怒し、俺達の石油が盗まれたと日本の裁判所に出光興産を提訴、日本政府にも同じ連合国のアメリカにも政治的な圧力を掛けますが、アメリカはイギリスの中東の石油独占を快く思わなかったので、日本の立場に理解を示し結果裁判は出光興産の勝訴で結審します。

 

イギリスはアメリカの援護が得られないので提訴を引っ込めたのです。

 

会社の利益を超えた公益の為

 

イギリス東洋艦隊に撃沈されるリスクを背負ってまで、出光佐三がペルシャ湾まで日章丸を出したのは、石油という経済発展に必要不可欠な資源を日本が英米に依存している事についての危機感があったからです。

 

エネルギー政策で、英米以外の中東の産油国と関係を強化しておけば、経済封鎖に対して対抗する事が出来るのであり、それは大東亜戦争においてABCD包囲網を敷かれ、石油と鉄と天然ガス、ゴムの供給を止められ、東南アジアに資源を求め撃って出ざるを得なかった日本の宿命についての反省から来た持論でもありました。

 

一見、会社の利益を度外視した狂気に見える出光佐三の行動は日本の公益という、より大きな利益を守る為の合理的な行動だったのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

敗戦直後、1000人の社員を目にした佐三は、これが俺の財産目録かとつぶやいたそうです。

 

一億総中流と呼ばれた時代は過ぎ去り、終身雇用は幻になり、仕事は個人が選ぶ時代、転職は当たり前、モーレツ社員は社畜と笑われる時代ですが、そんな今、出光佐三のつぶやきは、どんな風に聞こえるでしょうか?

 

社長と社員が労使の関係ではなく、家族のように連帯した時、とても欧米流の契約社会では実現できないようなスゴイ事が出来た、日章丸事件というのは、その事を令和の日本人に教えているような気がします。

 

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