訴訟社会と言えば第1に思い起こすのがアメリカです。
アメリカでは弁護士の数が多く、歴代大統領の半分以上は弁護士上がりであるほどで、それだけ弁護士は身近、そして数が多いので仕事にありつくのが大変であり、自分から原告予備軍に近づき訴訟を起こしませんか?と焚きつける有様。
それに比べて奥ゆかしい日本人は、なんて思いがちですが、実は中世日本はアメリカ顔負けの訴訟社会でした。
全ては応永32年に始まった
古代から中世にかけて、日本の中央権力は刑事はともかく民事訴訟には消極的でした。そのような傾向から頼りにならない幕府に対し、庶民の間では自検断と呼ばれる自力救済が常態化するようになったのです。しかし、室町幕府4代将軍足利義持の時代、すなわち、応永32年(1425年)室町幕府は突如方針を転換しました。
「借銭相論(訴訟)については、今後は幕府に訴訟を提起し判決を受けるように」
これには、それまで自分の法律で金銭問題や土地の権利問題を裁いてきた寺社のような巨大荘園領主が、貨幣経済の発展で続発する訴訟に対応しきれなくなった事が挙げられます。
自分達の裁定に従わない人間が増えたので、幕府という強力な軍事力を持つ行政機関に判決を下してもらう事で秩序を守ろうとしたわけです。この寺社勢力の働きかけを受け、幕府も重い腰を上げざるを得なくなりました。それにより従来、武家の民事訴訟しか扱わなかった幕府は、広く庶民の訴訟も受け入れるようになります。
分一徳政令という打ち出の小槌の誕生
債権者と債務者のシーソーゲームが続いていた民事訴訟に室町幕府という調停者が誕生したのは、紛争解決の見地から見ると喜ばしい事でした。実際に、それから30年ばかりは良かったのですが、ある法律が出来て大きく変質します。それが民事訴訟を打ち出の小槌に変化させた分一徳政令の制定です。
享徳3年(1454年)京都・奈良を中心に借金帳消しを求める徳政一揆が蜂起しました。今回も一揆勢は、京の貸金業者、土倉を襲撃する暴挙に出て幕府は圧迫に屈し徳政を認めるのですが、今回の幕府の政策は従来とは大きく違いました。
それは徳政を求める債務者に対し、債務帳消しを認める代わりに債務総額の1/10を幕府に収めよというもので、10分の1である事から分一徳政令と呼ばれます。翌年には、対象者が債権者にも拡大され、債権額の1/5を幕府に支払えば債権を保障するとしました。
もし、同一の金銭貸借の債務者と債権者がいた場合にはどうなるのか?
分一徳政令では、幕府に訴えたのが早い方が勝ちとなります。
この法理論もへったくれもないご都合主義の分一徳政令は空前の人気を集めました。そして、徳政を出す事で1/10ないし1/5の金銭が手に入る幕府は、自らの懐を傷めず他人の財産を左右するだけで濡れ手に粟の大儲けが出来たのです。
これでは、訴訟を起こす人間が出ない方が不思議であり、たちまちの間に幕府に持ち込まれる民事訴訟は激増しました。どれくらい激増したかというと窓口業務が1人の奉行に委ねられた為に処理が追い付かず、分一銭を取り忘れる痛恨のミスが度々起きた程です。これでは困るので幕府は、分一徳政令を改正し1人に限られた窓口業務を20名の奉行人の連署にして、効率を20倍にするなどの措置を取っています。
幕府の事情
こうしてみると、室町幕府はなんといういい加減な政権だろうと思えますが、幕府には幕府の事情が存在していました。15世紀前半に頻発した徳政令で、土倉の債権を帳消しにした結果、貸金業者である土倉は没落して営業規模を縮小していき、質屋をしながら日銭で稼いでいく零細土倉に転落していきます。
経営が不安定になった土倉は、これまで幕府に定期的に収めていた土倉役も滞るようになり、それは幕府財政を直撃しました。幕府は、これに対し土倉の経営支援をして、運転資金の負債を帳消しにするなど、土倉が以前の規模になるようにテコ入れしますが、様々な事情から成功しませんでした。
そこで、何とか新手の財源を探そうと、遣明船の復活や、犯罪者から取り上げた闕所(土地・家屋敷)を幕府財源に繰り入れるなど、あの手、この手の財政再建策を試行します。分一徳政令も、そんな幕府の財政再建の為の政策だったのです。
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分一徳政令の社会への弊害
しかし、徳政令の濫発は人間と人間の信頼の上に立つ金銭貸借に深刻な傷をつけました。確かに、多額の債務を抱える人にとって徳政は天使の声にも聞こえたでしょう。ところが、一度、債務から解放されても、今度は自分が金銭を貸す側になると徳政が悪夢になってしまうのです。
徳政令は金銭の貸借についての帳消しであり、永代売買は対象外なので債権者は何とか徳政適用を逃れようと、小口の貸し借りでも証文を書かせるようになり、円滑であるべき金融は滞るようになります。
それまで債務者と債権者の間にあった「借金は必ず返済する」という信頼で結びついた牧歌的な金融が消えてお互いが相手を疑い、あらゆる措置を取るという世知辛い関係に変化したのです。
分一徳政令は社会のあらゆる階層のあらゆる金銭の貸借に波及していき、無尽や頼母子のような個々人の金銭助け合いにまで及んでいきます。つまり、自分がお金を取ると分一徳政を利用して、以後の無尽の払い込みを放棄するという人間まで現れ、お金を通じた信頼の絆を崩壊させました。
また、応仁の乱が近くなると、守護大名が大軍を引き連れて京都に駐屯するようになります。京都駐屯が長期化すると、引き連れた武士が暮らしに困り、家財道具を土倉に売り払い、それでも足りずに生活できなくなると土倉を襲って金品や食糧を略奪するようになりました。
本来なら、このような蛮行は止めるべきですが、認めないと、多くの軍勢が京都を去る事になるので、幕府は、この略奪行為も徳政の名で正当化したのです。
こうして、債務放棄の福音だった徳政令という響きは、本来支払うべき金を踏み倒し、戦争略奪まで正統化する天下の悪法として中世の人々に認識されるようになりました。
借金は返すべきに社会通念が変化
分一徳政令の波及から、合戦時の略奪正当化、無尽や頼母子講の払い込み金の踏み倒し、さらに、金銭貸借手続きの煩雑化は、中世の人々に借りた金は返した方が、世の中の面倒は少なくなり、経済も円滑化するという教訓を与えます。こうして戦国後期から江戸時代に入ると、金銭貸借を無効にする徳政令は出されなくなり、借りた金は返すという社会通念が根付いていきました。
結局、金銭貸借が安全になった結果、個人のリスクは高くなりましたが、商取引は活発になり、資本の蓄積がそれ以前の社会よりも安定して起こるようになります。それは資本主義を準備する大事な土台になっていきました。
日本史ライターkawausoの独り言
誤解のないように付け加えておきますが、中世の人々が借金を払う必要はないと傲然と構えていたのではありません。例えば、中世には
「借金の利息が元本の倍以上になったらその分の利息は払う必要がない」等の掟がありましたが、逆に言えば2倍以下なら支払うわけであり、支払うべきと、それでも理不尽な取り立てには従えないという2つの軸の上を揺れ動いていたのです。
ただ、分一徳政令が、その軸を借金踏み倒しに大きく舵を切らせ、その反動として社会不安が増大した結果、徳政が結局、社会の信頼を毀損する事に気づき、借金は返すべきという今の社会通念に繋がっていくのですね。
参考文献:徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか 早島大祐
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